橋本多佳子は昭和12年の夫、橋本豊次郎の死後、久女から手ほどきを受けた俳句に精進し、昭和を代表する女流俳人として大成した人で、4T(中村汀女、星野立子、三橋鷹女、橋本多佳子)の一人とも呼ばれています。
<橋本多佳子>
昭和21(1946)年の久女の死から、それ程経ってない昭和23年から24年にかけて、彼女は自身のエッセー集『菅原抄』に、〈久女は異性問題にも随分奔放で、故人となった零余子、柳琴、縷々など困らされた人々である。恋愛して非常に苦しんでいる時でも句作は衰えず、返って油がのり、『ホトトギス』へ月三句、四句と発表されていた〉などと実名を挙げて綴っています。
久女関連の研究書によると、この文章は誤りが多く、例えば零余子(長谷川零余子)に多佳子は会っていないはずで、彼自身からきいた話ではない単なる街のうわさを、この様な文章で表現したことで、誤った久女像が一人歩きし、後にそれは松本清張氏や吉屋信子氏によってますます増幅されることになり、〈久女伝説〉のもとになった、としているものが多いようです。
また田辺聖子著『花衣ぬぐやまつわる...』の中でも、橋本多佳子のこれらの文章が〈久女伝説〉の震源地になったとの記述がみられます。多佳子のこの種の文章には、当時の小倉という閉鎖的な一地方都市の様子がよく出ていると感じます。
橋本多佳子も晩年になると、いろいろ経験を積んだのでしょう、久女に敬慕の念を捧げる文章を書いていますが、この頃のこの一文やそれに類した文章は、彼女自身のためにも非常に残念な気がします。
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