久女を教会に導いた小林牧師は大正14(1925)年に教会の人事異動で釜山へ、同じく教会に導いてくれた医師であり俳友の太田柳琴も学位取得の為、この年に福岡へ転居したようです。この二人は久女の精神的な支えであり、このことで彼女はキリスト教への道標を失ったのではと思われます。又信仰の友、川合小春も福岡へ引っ越しました。
夫との齟齬、俳句と家庭の狭間で苦しみ、宗教で救われたいと教会に通っていた久女でしたが、結局答えを出せないまま教会から足が遠のいたようです。
教会から足が遠のくに従って、少しづつ俳句へ意欲が戻って来ました。大正14年5月には虚子を迎えての松山俳句大会に出席しました。
「上陸や わが夏足袋の うすよごれ」
「夏羽織 とり出すうれし 旅鞄」
この会の様子を久女は次の年に「虚子先生と芍薬」という小文に綴っていますが、この小文で久女という女性が何となく判るような気がします。
それによると、句会後に料亭で虚子歓迎会が開かれ、小倉から参加した久女は紅一点として虚子の隣の席を与えられた様です。
「芍薬や 師に近く坐し 夜の宴」
先年大病をしてお酒をやめている虚子は、サイダーを持って来させ、「久女さんもこの方がいいでしょう」と久女にも注ぎます。久女は尊敬する師の横で緊張して、どうしていいか判らず、師の後ろの床の間の芍薬に目をやったりするばかりで、間がもてません。
そこに芸妓の米千代がやって来て座が急に賑やかになりますが、久女は虚子と米千代のやり取りをただ横から聞いているだけでした。米千代が虚子に、ぶしつけに揮毫を頼むと、虚子も興に乗って句を書き付けます。久女は羨ましくてしようがないけれど、「私にもお願いします」とはどうしても言いだせませんでした。
世慣れない久女像が垣間見えて興味深いですね。折角虚子の隣に座ったのですから、俳句のことで聞きたいことも沢山あったでしょうし、虚子の短冊もどんなにか欲しかったでしょう。でもそうは出来ませんでした。
虚子から見ると、久女のこの堅苦しさでは、芸妓に与えた様な気楽さで揮毫する気にはならなかったのかも...。
〈久女伝説〉など俗説では奔放な女性と見られている久女ですが、ここでは社交下手で女学生のような生真面目な女性です。この時こんな句も作っています。
「卓上の百合 あまり香つよし つかれ居る」
尊敬する師の横での久女の緊張が伝わって来ますね。
⇐クリックよろしく~(^-^)