大正15年(昭和元年)の春以来少し体調を崩していた久女は、7月に姉、村越静子を亡くしました。そのために上京したりし、なお一層症状が悪化したのかもしれません。静子は久女と三才違いで享年三十八才でした。この時、下のような悼句を作っています。
「霧しめり 重たき蚊帳を たゝみけり」
「夏帯や はるばる葬に 間に合はず」
この時の久女の病気は入院治療する程ではなかったようで、秋に福岡市箱崎の民家の2階に間借りして一人で静養したようです。一人になった時、彼女は心の安らぎを感じたかもしれませんね。
「病間や 破船に凭れ(もたれ) 日向ぼこ」
しかし、気になるのは家に残してきた女学生と小学生の二人の娘達のことでした。
「炭つぐや 頬笑まれよむ 子の手紙」
一人で箱崎での病気療養中にじっくりこれからのことを考えたのでしょう、俳句へ戻る決心をしたようです。教会活動では満たされなかった表現することへの思いが、再び湧いて来たのかもしれません。
夫、宇内との齟齬、作句と家庭のバランスに苦しみ、教会に通い生きる道を模索した久女でしたが、答えを得られないまま、俳句の世界に戻って来ました。
久女は大正14(1925)年半ばに進境著しい橋本多佳子の指導を、俳誌「天の川」を創刊した吉岡禅寺洞に託しています。「有閑夫人のお相手はしていられない」などと言いながらも、久女は多佳子の成長が楽しみでした。
この後、昭和4(1929)年に多佳子は、夫の父の死により一家をあげて大阪市に移り住むことになります。その時のことでしょう、久女にこんな句があります。
橋本多佳子氏と別離として
「忘れめや 実葛の丘の 榻(しじ)二つ」
榻(しじ)とは腰かけのことをいうそうです。
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