昭和元(1926)年秋の福岡市箱崎での転地療養中に、久女は今後は俳句に専心しようと決めました。それは精神的な支えであり信仰の道標であった人々が、その少し前に彼女の周りから去ったのと関係があるのかもしれませんが、ひとたび俳句の世界を知ってしまっていた久女にとって、必然の成り行きだった様にも思えます。
どうにか病が癒えて昭和2年2月中旬に小倉に戻ってから、本格的な作句活動を再開し、教会活動では満たされなかった表現への欲求が再び動き出しました。昭和2(1927)年のこの時、彼女は37歳になっていました。
「われにつきゐし サタン離れぬ 曼珠沙華」
上の句は大正14年作ですが、表現したいという思いが微かにでも心中に再び湧き始めたのは、この頃だったのでしょうか。
サタンという言葉は、彼女が聖書を勉強したことでここに留まったのでしょう。そういう意味でキリスト教に触れたことが、久女俳句の幅の広がりに幾らかでも影響を与えていると感じます。サタンと曼珠沙華っていい取り合わせですね。
俳句への意欲を取り戻した久女は、『ホトトギス』や『天の川』へ積極的に投句を始め、後に代表作と言われる素晴しい句を次々に発表しました。
『天の川』とは福岡の吉岡禅寺洞率いる『ホトトギス』系の俳誌で、ここへの投句が多くなり、昭和4(1929)年4月からは、『天の川』の婦人俳句欄選者となり、又、翌年からは当時の朝鮮で発行されていた俳誌『かりたご』の婦人雑詠選者を務めています。
久女関係の研究書によると、それらの俳誌での久女の選句の様子からは、同朋を丁寧に導き、ともに成長しようとする姿が見て取れると解説しているものが多いようです。
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