前回の(29)で述べた様に、杉田久女は俳句の世界に戻ってきました。大正期の久女俳句を第1期とすれば、昭和に入ってからの俳句は第2期ということが出来ると思います。久女の中で何かが吹っ切れたのでしょう、次々に秀句が生まれました。その幾つかを見てみましょう。
広く人々に膾炙している
「朝顔や 濁り初(そ)めたる 市の空」
久女にこの句を得しめたのは、工都小倉の栄光であるとの解釈を読んだことがありますが、同感です。夏の早朝の瑞々しい朝顔と、小倉の工場群が稼働しだし、どんよりと濁りはじめたずっと向うの空とを対比させて、当時の工都小倉の夏の朝の一瞬を鮮やかに切り取った名吟だと思います。
「露草や 飯吹く(いいふく)までの 門歩き」
俳句と家庭との相克に誰より苦しんだ久女ですが、この句からは久女の楽し気な様子が伝わって来ていい句ですね。彼女はこの句が好きだったらしく、家庭婦人と俳句という様なテーマのエッセーや講演で、この句をよく例として使ったようです。
昭和2年に俳誌「天の川」に「瓢作り」というエッセーを載せていますが、下はその時の句でしょう。繭瓢とは子供が作った繭形の小ぶりの瓢箪をいうそうです。
「露けさや うぶ毛生えたる 繭瓢」
昭和3(1928)年10月、虚子は九州旅行の折、小倉にも寄りました。虚子を迎えての句会は小倉の名刹、広寿山福聚禅寺で行われました。この時まだ小倉在住だった橋本多佳子も出席の予定でしたが、子供の急病で出席出来ませんでした。下の句はそのことを詠んだ句だろうと思います。なので欠けし君とは橋本多佳子のことですね。
「花石蕗(つわ)の 今日の句会に 欠けし君」
合屋校長は夫、宇内の同僚で、後に県立みやこ高等女学校の校長を務め、久女一家とは家族ぐるみで親しかったようです。久女が没した時に宇内と共に病院で通夜をしたのは、この合屋校長でした。
「童顔の 合屋校長 紀元節」
初めて下の句を見た時、なんて素敵な句かと思いました。何とも表現しがたい鯵の背の色をサファイヤ色と一言で表すなんてスゴイと。そしてお洒落で軽快なリズム感があり、久女の才気を感じる句です。
「秋来ぬと サファイヤ色の 小鯵買ふ」
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