日々の暮らしに輝きを!

since 2011
俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

勝利のお守り

2015年10月16日 | つれづれ

ソフトバンクはCSをストレートで勝ち抜いて日本シリーズに行ける様になった

予想通りの展開で嬉しいこと限りなし

CS1戦目はヤフオクドームで観戦

2、3戦目は家でテレビ観戦

実は、我が家にはホークス勝利の強力なお守りがある(^-^)

それはこれ



これはヤフオクドームで1戦目を観戦した時、観戦者全員に配られた応援用タオル

勝ちゲームで貰った縁起のいいタオル

家に持ち帰り、お守りにしちゃった!

テレビ観戦中は写真の様にテレビの下に広げて

手を合わせ、神様に勝利を祈る

たちまち霊験あらたか、2、3戦目にも勝利をもたらしてくれた!

このお守りにこもるパワーはすごい!

日本シリーズでも、このお守りに勝利をお願いしようっと!


我が家の7人の子供達も、もう一枚のお守りと一緒に応援してま~す(^-^)


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CSファイナル ソフトバンク延長10回サヨナラ勝利! 

2015年10月15日 | お出かけ

ヤフオクドームで、パCSファイナル第1戦  ソフトバンク VS ロッテ戦を観戦

<観戦者全員に配られた応援用タオル>

ソフトバンクは優勝を早々と決めてしまい、CSまで間がありすぎたのと

優勝後の試合で調子を落としていたのが不安材料だった

が、しかし

リーグ3位から勝ち上がったロッテを延長サヨナラで下した



2:2で同点の延長10回

先頭の上林が振り逃げで出塁、1死2塁から代打長谷川がセンター前ヒット

柳田が敬遠ぎみのファーボールで1死満塁に

次の打者、4番主将内川がヒットを放ち、サヨナラ勝利!



ロッテは平成5年、10年とリーグ優勝を逃しながら

CSを勝ち抜いて下克上野球で”何ちゃって日本一”になった

その2回とも、CSファイナルステージの相手はソフトバンクだった

しかし、今年は下剋上はさせませんゾ(^-^)

リーグ優勝チームには1勝のアドバンテージがあるので

ソフトバンクはあと2勝すれば日本シリーズに進む

シリーズ出場まで気を抜かずに頑張ってほしい


<ラッキー7、ソフトバンクの風船上げ>


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俳人杉田久女(考) ~苦悩の日々~ (26) 

2015年10月12日 | 俳人杉田久女(考)

前回10月10日に「飯盛神社の流鏑馬(やぶさめ)」という記事を書いたので、杉田久女ならこの流鏑馬をどんな風に詠むだろうかと興味が湧き、彼女の句に流鏑馬を詠んだものがないか調べましたが、残念ながら調べた範囲では見つかりませんでした。少しがっかりしましたね~。

                               

大正10年(1921)から大正14、5年にかけての久女は、自らの境遇の中でもがき苦しみ、ひたすら生きる道を手探りで探し続けた日々であった様です。

生き直したいと教会に通い、又、所属教会の設立資金調達のバザー出品のため刺繍、手芸品などを作ったりと、以前の俳句漬けの日々とは違った日常だったようで、久女年譜の中にも〈教会と家庭に明け暮れしていた。俳句も趣味程度〉との記述があります。

そんな中でも『ホトトギス』への投句を完全にやめてしまったわけではなかったようですが、作句は低調で低迷時代は数年続きました。

久女年譜によると大正12(1923)年から数年間、久女は私立勝山女学校(現三萩野女子高等学校)で図画と国語を教えていました。更にその翌年には、県立京都高等女学校で卒業生と父兄を対象にフランス刺繍の講師として教えています。

この事から、お茶の水高女で学んだ知識、技術は人に教えることが出来る域に達していたんだな~と感じます。お茶の水高女で培ったことが、久女俳句の芸術性を支えている要素の一部と言えるかもしれません。

下はこの頃の句でしょうか

       「 押し習ふ 卒業式の 太鼓判 」


平成23年秋に北九州市立文学館で催された「花衣 俳人杉田久女」展で、久女が制作した帯が出展されているのを見ました。少し黄ばんでいましたが、白羽二重に彼女が鳳凰に牡丹を配した図案を描き、刺繍をしたもので、見事な出来栄えの帯でした。


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飯盛神社の流鏑馬(やぶさめ)

2015年10月10日 | お出かけ

福岡市の西に、茶碗にご飯を山盛りにしたような美しい形の飯盛山があり、その山のふもとに飯盛神社が鎮座しています。昨日、ここの秋祭りに行われる流鏑馬(やぶさめ)をサークルの友人達と見学しました。
<飯盛山>

地区のお世話をされ、この秋祭りに協力しておられる方が、案内をして下さいましたので一層興味深く見学出来ました。その方から飯盛神社の歴史や行事について説明してある、下の様な立派な冊子を頂きました。


まず、文殊堂を見学。このお堂の本尊、文殊菩薩騎獅像は、今回は戸が閉じられて拝観出来ませんでしたが、福岡市の文化財の指定を受けていて、受験生に人気なのだそうです。お堂の周りに掛けられた絵馬も受験に関するものが多かったです。
<文殊堂>

上の写真の文殊堂の右奥に小さく映っているのは水飲み場で、ここからコンコンと湧きだす水は、飯盛山の伏流水を水源としたミネラルたっぷりの地下水です。別名「知恵の水」とも言われ、飲むと頭が良くなるという霊験あらたかな水なのだとか(^-^)

文殊堂から流鏑馬が行われる神社参道まで皆でそぞろ歩きましたが、まずまずの好天に恵まれ平日にもかかわらず、大勢の見物客がカメラ、スマホをかまえ参道脇に並んでおられました。報道関係の方々もチラホラおられたようです。

頂いた冊子によると、飯盛神社の流鏑馬は天保年間(1830年頃)より、唐津小笠原藩の式法を継承し今に続くもので、福岡市無形民俗文化財なのだそうです。

一の射手、二の射手、三の射手と3人の射手が、3~400mの参道に仕掛けられた3つの的めがけて、疾走する馬上から矢を放つのですが、高度な集中力が必要な勇壮で神聖な行事です。
<流鏑馬>

射手の皆様はとても正確で、ほとんどの矢が的に的中しました。私達は2の的と3の的の間で見学しましたが、矢が的を射た瞬間の見物客の歓声はすごかったです。

向うから馬がこちらに疾走してくるひずめの軽やかな響き、馬が眼前を通り過ぎた時の風圧、射手の的を射る直前の疾走する馬上での素晴らしい姿勢などは、その場にいなければ味わえないものでした。又、狩装束姿の馬上の射手の姿も華麗というか、かっこよかったです。馬上の射手の足の部分が鹿の毛皮で覆われていたのも印象に残りました。

私は流鏑馬を実際に見たのは初めてでしたが、迫力ある伝統行事を見学出来て、清々しい一日になりました。

(冊子の写真以外はネットよりお借りしました)

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俳人杉田久女(考) ~橋本多佳子~ (25)

2015年10月08日 | 俳人杉田久女(考)

橋本多佳子は昭和12年の夫、橋本豊次郎の死後、久女から手ほどきを受けた俳句に精進し、昭和を代表する女流俳人として大成した人で、4T(中村汀女、星野立子、三橋鷹女、橋本多佳子)の一人とも呼ばれています。
<橋本多佳子>

昭和21(1946)年の久女の死から、それ程経ってない昭和23年から24年にかけて、彼女は自身のエッセー集『菅原抄』に、〈久女は異性問題にも随分奔放で、故人となった零余子、柳琴、縷々など困らされた人々である。恋愛して非常に苦しんでいる時でも句作は衰えず、返って油がのり、『ホトトギス』へ月三句、四句と発表されていた〉などと実名を挙げて綴っています。

久女関連の研究書によると、この文章は誤りが多く、例えば零余子(長谷川零余子)に多佳子は会っていないはずで、彼自身からきいた話ではない単なる街のうわさを、この様な文章で表現したことで、誤った久女像が一人歩きし、後にそれは松本清張氏や吉屋信子氏によってますます増幅されることになり、〈久女伝説〉のもとになった、としているものが多いようです。

また田辺聖子著『花衣ぬぐやまつわる...』の中でも、橋本多佳子のこれらの文章が〈久女伝説〉の震源地になったとの記述がみられます。多佳子のこの種の文章には、当時の小倉という閉鎖的な一地方都市の様子がよく出ていると感じます。


橋本多佳子も晩年になると、いろいろ経験を積んだのでしょう、久女に敬慕の念を捧げる文章を書いていますが、この頃のこの一文やそれに類した文章は、彼女自身のためにも非常に残念な気がします。

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