ひねもすのたりにて

阿蘇に過ごす日々は良きかな。
旅の空の下にて過ごす日々もまた良きかな。

旅の出会い、というかハプニング、のようなもの 2001 ミャンマー

2010年09月05日 | 旅の空の下
ベトナムから4年を経て、ミャンマーに行くことになった。
その間は、ソウルに行ったり台湾に行ったりしていたのだろう。

ミャンマーもその当時は外国からの旅行者は少なく、
特に日本人旅行者の姿はほとんど見かけなかった。
ヤンゴンに1泊し、バガンに飛び、バガン観光後マンダレーへは陸路で移動。
マンダレーからヤンゴンに飛び、帰国という日程だった。

出会いはハプニングから始まった。
バガンからマンダレーまでは車を25$でチャーターして移動。
その車があと少しでマンダレーというところまで来てパンク。
タイヤ交換するのに、工具を積んでいないという間抜けな運転手だったが、
通りがかりの車に助けられてなんとか非常用タイヤに交換。


タイヤ交換をする間抜けな運ちゃん

直近の集落まで走り、そこの整備工場でパンク修理の間、我々は暇をもてあまし、
道向こうの雑貨屋さんを覗く。
その店で何となく店の人と仲良くなり、おかみさんが我々を庭に連れて行き、
椅子とテーブルを出して、お茶にお茶菓子、バナナまで御馳走してくれた。
ほとんど言葉は通じないが、多分初めて会った日本人が余程珍しかったのか。
温かい持て成しに待ち時間はあっという間に過ぎて、パンクに感謝。


興味半分に覗いた雑貨屋さん

左が雑貨屋の女主人。笑顔の優しい人だった。

お茶や茶菓子、バナナを御馳走になりました。

マンダレーでは、時計塔が街の中心にあるが、この近くに来たとき、
マーケットの近くのビルの二階がやたらと賑やかである。
まだ昼にもなっていないのに、どうやら生演奏で宴会のようだ。
これを見逃す手はないと、二階へ行ってみる。よく見ると結婚披露宴らしい。
写真を撮る許可を頼むと、まぁ中へ入れと言う。写真を撮っているといつの間にか、僕らの席が設けられ、
「さぁ座れ、お茶を飲め、お菓子を食え。」と「そんな、申し訳ない」と思っても向こうのペース。
どっちが珍しがられているのかわかりゃしない状態に突入。


結婚式の会場。飲めや(といってもアルコールなし)歌えの宴の最中でした


この会場の主役、新婚さんお二人。

新婚さんはビデオに撮られながらあちこちの席に挨拶をしている。
やがて僕らの席に来ると一緒にビデオ撮影。
照れまくりながらミャンマーの方々と写ったのでした。
綺麗に化粧した綺麗なお姉さんたちも沢山いて、
親切なお兄さんやお父さんたちも沢山いて、
言葉はほとんど通じなかったけれど、小一時間の間、大歓待を本当にありがとう。

ハプニングと同様、好奇心もまた出会いのきっかけである。
積極的な働きかけが出会いを生む。
ということを学んだミャンマーの旅でした。
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旅の出会い、というかハプニング、のようなもの ベトナム1997

2010年09月03日 | 旅の空の下
出会いが旅。
そんな旅行をしていると、ツアーの旅にはなかなか行けない。
それはそれなりに、楽しいこともあるのだが、
思いもかけない出会いやハプニングのある個人旅行の楽しさにはまると、
どうしても物足りない感じで終わってしまう。

さて、1997年のベトナム旅行以来、東南アジアを中心に旅を重ねてきたが、
その旅には必ずと言っていいほど、何らかの出会いがあり、ハプニングがあった。
それを少し整理しておこう。

まず、最初の旅となった1997年のベトナム3人旅。
最初のハプニングとも言えるのは、トラブルで始まった。
ホーチミンからダナンへ列車で移動し、ダナンから車でホイアンに入った。

この当時は、ベトナムへの旅行者はきわめて少なく、ホイアンも実にのんびりした町だった。
我々もまだバックパッカー的な発想はなく、ホイアンの宿はホイアンホテルという一流ホテルだった。
このホテルは今でも営業しているが、高級ホテルの中くらいの位置づけになるのだろうか。


ホイアンホテルの前で。2005年に行ったときもほとんど変わっていなかった。その時は勿論泊まらなかったが。

ここで、フエ行きの車を手配してもらうことになり、
責任者が「フランスニューカー」と「普通の車」のどちらがいいかと聞いていた。
「フランスニューカー」は45$、「普通車」は30$という。
ここは奮発して「フランスニューカー」にしようということになり、翌朝期待に胸弾ませて「フランスニューカー」を待った。
ところが、やって来たのは中古車屋も匙を投げるような年代のカムリ。

責任者は、手配がどうのこうのと逃げを売って、45$を値引きしようともしない。
頭に血が上った我々は、「何ば言よっとか!」的な熊本弁と、拙い英語で相手を罵倒するが、
強かな相手はのらりくらりと我々の悪態を躱し、
結局15$の値引きのはずが、9$までしか値引きさせられず、我々の完敗だった。

「フランスニューカー」のガタガタカムリは、フエに行く途中の山道では、エンジン負担を減らすためにエアコンを切り、
我々に窓を全開させ、エアコン車で汗をかきながらの道行きとなった。
ホイアンホテルという一流ホテルの従業員が、必ずしも一流とは限らないという教訓を得たハプニングであった。

さて、フエに2晩滞在し、観光も終えてハノイへの移動もまた寝台列車で行くことになった。
ハノイ行きの列車が出るまで、待ち時間が約5時間というとき、
フォン川沿いの公園で休憩している我々に子ども達が話しかけてきた。
いつの間にか同じグループの大人も加わって、
英語ありベトナム語の辞書を引きだしての会話ありで、すっかり仲良くなると、


フエで出会った子どもや青年たち。

一人の女性が我々を家に招待したいと言い出した。
今夜の列車でフエを発つことを告げると本当に残念な顔をした。
その心の温かさに触れた我々も残念でならなかった。
どうしようもない待ち時間はすっかり楽しい時間に変わって、肉体の疲労と反比例して気分は上々だった。

ホイアンホテルでの苦い経験もまた旅の思い出ではあるが、
やはり出会いやハプニングは楽しいものに限る。
フエの公園での出会いは、我々のそれからの旅のきっかけともなる出会いだった。
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ヒッチハイクで北海道(旅の原点) -2-

2010年06月08日 | 旅の空の下
ヒッチハイクというのは、そもそも人の車を当てにした甘えた旅行であるので、
今に比べたら車の量も極少なく、乗せてもらえないときもよくある。
だからといってじっと待ってるわけにはいかない。
そういうときは自分の足で歩くのだ。

網走の原生花園で昼寝をし、知床観光の拠点、斜里に向かって歩き始めたものの、
全くと言っていいほど車が来ない。たまに通りかかっても乗せてくれない。
夕方近くになって、いささか焦り始めた。
そういえば、網走の食堂のおばさんの、
「熊には気をつけろ」なんて脅かしをせせら笑っていたが、
暗くなり始めると、冗談じゃなく思えてきた。

近くに民家もなく、途方に暮れて歩いていると車のライト。
必死で止めて乗せてもらったのは、結婚を控えて一人旅をしているという若い男性。
宿も一緒にいいよといってくれたが、そこまで甘えるわけにはいかない。
斜里のバス停にはベンチがあり、簡単な屋根も付いている。
ここで寝ようと降ろしてもらって、しんからホッとして近くの食堂で夕食。

翌日は、今では世界遺産となった知床半島を、
昨夜乗せてもらった男性の好意に甘えて一緒に観光した。
乗せてもらった中で、これほど親切にしてもらったことはその後もなかった。

人の車に乗るというのは、いろんなハプニングもあるもので、
それについては次の機会で・・・。

野宿をすることに関してもいろんな人の好意や親切に助けられ、
熊に襲われることもなく、旅することができたことに感謝している。
次回は泊まったことの思い出をいくつか。
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ヒッチハイクで北海道(旅の原点) -1-

2010年05月28日 | 旅の空の下
自分の旅の原点だから、もう40年以上も昔の話だ。
大学のサークルの活動の一環として、
北海道の根釧パイロットファームという酪農地帯へのホームステイがあった。
ホームステイというと聞こえはいいが、住み込んで働くのだ。

場所は根釧というだけあって、釧路と根室の中間当たりを北上したところにある中標津。
本土からの入植者が多く、厳しい環境や仕事に耐えられず放棄された家も点々とあった。
そんな酪農家の一軒に一人ずつ入って、20日間寝食を共にし、
夏草を刈って、干し草にしたり、サイロに入れたりの作業や、
搾乳の手伝いや、牛の世話、早朝から日が暮れるまで結構ハードな毎日だった。

その労働で得た賃金は、20日間で約1万円。
住み込みの食事代等を引かれたと思えば仕方ない金額と思ったものだ。
そのなけなしの1万円で北海道を旅行しようというのだ。周遊券だって買えやしない。
ヒッチハイクで野宿。1万円は食うことにしかつかえない。
九州まで帰る列車用の金は使えない、というので寝袋を入れたリュックを担いで出発する。

仕事中に近所の農家の人と一緒に、自分のいる農家に半日ほど研修に来た釧路の畜産大学の女子大生2人がいた。
彼女たちと一緒に作業をしながら話したところ、釧路に来たときは寄ってくれといわれ、連絡先を書いてくれた。
まずはそこを目指そう。ということでヒッチハイクで釧路に着いたのは夕方。北海道の日暮れは早い。
釧路駅の近くから電話をすると、迎えに行くから待っていろという。
20分ほどで彼女らの1人が来て、バスで家に向かった。

当然彼女の実家だと思っていたので、家の人にどう挨拶するかなど考えていたが、
着いたのはなんとアパート。その一部屋に案内されると、もう一人の彼女がいる。
台所はついているが、6畳ほどの部屋に2人で住んでいるという。
いやいや、そんなところにお世話になるわけにはいかない、と思ったが、
もう外は真っ暗で、かなり強引に勧められて泊まることになった。

一間っきりの部屋にどうやって寝たかって?
彼女らは押し入れの上と下に布団を敷いて、客は畳の上に寝袋で寝たのである。
不思議と、悶々とすることもなく寝て、
朝は共同のトイレと洗面所に行き、歯を磨いていると、住人が次々と起きてくる。
その全てが女性で、ジロジロ見られて決まり悪いことこの上ない。
早々に礼を言って釧路駅までバスで送ってもらった。
次は網走を目指そう。その次は知床半島が待っている。
気を取り直して旅を始めよう。

後日談だが、釧路で泊めてくれた女子大生の内の一人は、
翌年九州に旅行した際、熊本の我が家と鹿児島にも寄ってくれた。
熊本の実家には自分がいなかったので両親がもてなしてくれたようだ。
はて、彼女のことや息子のことをなんて思ったのだろうか。
彼女たちとはそれっきりだった。
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カンパラへの遙かな道

2010年03月09日 | 旅の空の下
1971年1月、アフリカのウガンダでクーデターをおこし、
オボテ大統領を追放したアミンは、その後、国民を30万人以上虐殺したと言われ、
軍事独裁を敷き、黒いヒトラーなどと称された。
クーデター当初は国内外で歓迎されたらしいが、
その後の反対派の粛清などの言動が、海外からの支援を遠ざけたらしい。

当時、私は隣国のケニヤにいて、ウガンダに行く準備をしていた。
そのクーデターから約10日ほど後、ケニヤ・ウガンダの国境に行ったが入国できず、
クーデターから約一月後に再度入国を試みた。

国境をウガンダ側に入ったのが、既に夕方の4時過ぎで、
その頃、全国に敷かれた戒厳令の外出禁止時刻が午後6時。
早く宿を決めて入らないととんでもないことになる。
私は焦って、国境の村の、最初に目についた木賃宿に入ったのが5時過ぎだった。

一段落して、宿の窓から通りを眺めていると、
軍隊がジープに小銃を乗せてパトロールしている。
間に合ってよかった。物々しい通りを見ながら心からそう思った。

翌朝、カンパラに向かって出立したが、バスはあまり動いていず、
乗り合いの乗用車やワゴン車で、短い距離を乗り継いで行く。
その道すがら、至る所に兵士がいて、検問をしている。

若い兵士が多く、銃を向けて車を止めると、乗客を全て降ろし、
外国人の私はそのたびにパスポートを提示した。
何かをきっかけに、この兵士たちが我々に引き金を引いたらどうしよう。
銃を持つ兵士を目の前にして、なかなかその恐怖からは逃げられなかった。

その繰り返しの中で、やっとの事でカンパラに着いたが、
ウガンダの首都で何を見たか、そういった印象も含めてほとんど記憶にない。
数え切れない検問の路程に強いられた緊張の反動だったのだろうか。

その後、クーデターには英国が影で糸を引いていたという話もあり、
植民地として支配されたアフリカの悲劇が、この国にも及んでいたのかという念を抱いたものだ。
人が人を支配するという愚行から、人間は未だに抜け出せずにいる。
人間は決して賢者という境地に達することができない生き物なのだろう。

最後にもう一つ、岡村孝子と加藤晴子のデュオ、「あみん」の名は、
さだまさしを経て、アミンの名が巡り巡って命名されたものだということは最近知った。
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