菊田が美容師の和ちゃんを初めて見たのはバイトを初めて2ヶ月程経った頃、
2階にある美容室に行く和ちゃんに、階段横にある従業員更衣室から出たときぶつかりそうになったときだった。
「あっ済みません!」
と頭を下げる菊田に、彼女はにこりと微笑むと、
「新しいボーイさんね」
「いえ、もう2ヶ月になります」
「あら、ご免なさい。でも初めてよね、よろしく。美容室の山下和美です」
「へ~、ここって美容室があるんですか。あっ済みません、僕はボーイの菊田翔平です」
「学生さん?」
「はい、K大学の5年生です」
「大学は4年生までじゃないの?」
「学費さえ払えば、8年生までは在学できますから。山下さんはここ長いんですか?」
「フフッ、山下さんなんて呼ばれたの久しぶりよ。ここでは皆『和ちゃん』て呼んでるから、それでいいわよ」
「和ちゃんさんですか・・・」
「ぷっ、ちゃんにさんは付けないんじゃない」
「そうでした、済みません」
「謝ることはないわ。じゃあ頑張ってね菊田くん」
和ちゃんの頑張れは、ボーイとしてなのか、学生としてなのか、考えている間に、彼女の姿は階段の上に消えていった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/12/f0c0d3710ffe85be46d0f11cdf9c5676.png)
彼女の第一印象は、飾り気のない気さくな人柄だということもあるが、何よりも女性にしては大柄でスタイルも良く、ともかく綺麗な人だった。
その出会いのせいか、その日の菊田は仕事中にも、そこはかとない甘やかな気持ちで過ごした。自分には関係ない人だと言い聞かせてはいたものの・・・。
その後、店で半年になり、最も古株の一人に至るまで、和ちゃんとは何度か言葉を交わすようになったが、プライベートなことは殆ど話題にならず、せいぜい菊田が属している大学のサークルの話程度だし、和ちゃんはホステスの噂話に出てくるボーイやガイド(客を玄関から席まで案内する係)の差し障りのない話をするくらいだった。
それも仕事前の僅かな時間や、お互いに暇な時間が重なって休憩しているときだったので、仲を深めるようなことにはならなかった。
和ちゃんとの会話では、彼女は店の個々のホステスについては決して口にしない人で、そういったけじめのはっきりした所がママに可愛がられている理由だったろう。
その日は少し早出で、午後5時前に店に入ると、まだホステスの姿もなく、支配人も来ていなかった。
従業員更衣室に向かおうとすると、フロントのカウンターにいたママが、
「翔平くん!ちょっと頼みがあるけどいいかな?」
「はあ、いいですが、何でしょうか」
「実は和ちゃんが具合が悪くて休むと連絡があったのよ」
「珍しいですね、和ちゃんが休むなんて」
「だからちょっと心配でね、翔平くんに様子を見てきて欲しいんです」
「僕がですか!和ちゃんの住まいを知りませんけど」
「それは私が教えるから大丈夫よ。どうやら熱があるらしいから薬を買って、それに食事も心配だから、そこのデパートの地下で弁当も買って、ほかにも飲み物やらもお願いね」
と言って私の時給の5,6倍の札を渡された。
私はママから渡された住所と、そこへ行く大まかな方法が書かれた紙を持って外に出た。
まずは薬をと、アーケード街にある薬局で解熱剤を買う。次にその先の市電の通りに面したデパートの地下に行き、弁当を物色する。
和ちゃんの好みがよく分からない。ただいつか肉はあまり食べないと言っていたような気がしたので、サラダのパックと白身魚の入った弁当を買った、
次は飲み物かと思ったが、飲み物くらい家にあるだろうと思って、市電を降りて彼女のアパートへ行く途中にあるスーパーに寄ってカップアイスを2つ買ってアパートの部屋を訪ねた。
ノックの音に応える和ちゃんの声は、気のせいか弱々しく聞こえた。
「和ちゃん、菊田です。ママの使いできました」
ドアを開けた和ちゃんはパジャマ姿で熱があるのか、少し顔が赤っぽく、辛そうだったが、それでも。
「ありがとう、菊田くんには申し訳なかったわね」
と詫びを言った。
「いえいえ、たいしたことないです。こちらが解熱剤で、こっちは弁当とサラダです。ママからは飲み物を何かと言われましたが、熱があるならアイスクリームの方がいいかと思って、勝手にアイスにしました。2個あるので冷凍庫に入れておきますね」
「嬉しい!」アイスを食べたかったのよ。やっぱり菊田くんを指名して良かった」
「はあ、指名って何ですか?」
「ママに電話したらね、従業員に薬やらを届けさせるからと言うので、じゃあ菊田くんに持たせて下さい、っていう指名よ」
「ふ~ん、でもなんで僕なんですか?」
「だってホステスさん以外で親しいのは菊田くんだけだし」
「そうなんですか、和ちゃんはボーイ仲間では憧れの君で、結構誰とも話をしているのかと思っていました。でも、親しいって言ってくれて嬉しいです」
「ママも知っているから、菊田くんに頼むのに抵抗がなかったのじゃない。それに菊田くんが真面目で、ホステスとの噂一つないのも信頼されているのよ」
「それって男としてはちょっと寂しいような」
「お客さんの殆どは女目当ての中で、菊田くんみたいに女性をあまり気にしない人は新鮮なのよ。だからホステスの中には、菊田くんに好意を持っている子もいるみたいよ」
「まさか、そんな気配は微塵もないです」
「フフ、鈍いのよねぇ菊田くんは。女の気持ちは分からないでしょう」
「厨房の桝山さんみたいなことを言いますね。いいんです鈍くて。じゃあ、少しでも食べて薬を飲んで、しっかり休んで下さい。僕は仕事に行きます」
「ありがとう、ママによろしく言っておいてね。今度お礼に何かご馳走するわ」
「和ちゃんの部屋での話はこんなものだったような気がします」
「それ以上のことは何もなく?」
私が問うと、
「ええ、ただのお使いでしたから」
「菊田さん、やっぱり随分女性に疎かったようですね、その頃」
その後、菊田さんと和ちゃんはどうなったかですって?もちろん私は聞いておりますよ。
お知りになりたければ、名も知らぬ駅に来ませんか。
2階にある美容室に行く和ちゃんに、階段横にある従業員更衣室から出たときぶつかりそうになったときだった。
「あっ済みません!」
と頭を下げる菊田に、彼女はにこりと微笑むと、
「新しいボーイさんね」
「いえ、もう2ヶ月になります」
「あら、ご免なさい。でも初めてよね、よろしく。美容室の山下和美です」
「へ~、ここって美容室があるんですか。あっ済みません、僕はボーイの菊田翔平です」
「学生さん?」
「はい、K大学の5年生です」
「大学は4年生までじゃないの?」
「学費さえ払えば、8年生までは在学できますから。山下さんはここ長いんですか?」
「フフッ、山下さんなんて呼ばれたの久しぶりよ。ここでは皆『和ちゃん』て呼んでるから、それでいいわよ」
「和ちゃんさんですか・・・」
「ぷっ、ちゃんにさんは付けないんじゃない」
「そうでした、済みません」
「謝ることはないわ。じゃあ頑張ってね菊田くん」
和ちゃんの頑張れは、ボーイとしてなのか、学生としてなのか、考えている間に、彼女の姿は階段の上に消えていった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/12/f0c0d3710ffe85be46d0f11cdf9c5676.png)
彼女の第一印象は、飾り気のない気さくな人柄だということもあるが、何よりも女性にしては大柄でスタイルも良く、ともかく綺麗な人だった。
その出会いのせいか、その日の菊田は仕事中にも、そこはかとない甘やかな気持ちで過ごした。自分には関係ない人だと言い聞かせてはいたものの・・・。
その後、店で半年になり、最も古株の一人に至るまで、和ちゃんとは何度か言葉を交わすようになったが、プライベートなことは殆ど話題にならず、せいぜい菊田が属している大学のサークルの話程度だし、和ちゃんはホステスの噂話に出てくるボーイやガイド(客を玄関から席まで案内する係)の差し障りのない話をするくらいだった。
それも仕事前の僅かな時間や、お互いに暇な時間が重なって休憩しているときだったので、仲を深めるようなことにはならなかった。
和ちゃんとの会話では、彼女は店の個々のホステスについては決して口にしない人で、そういったけじめのはっきりした所がママに可愛がられている理由だったろう。
その日は少し早出で、午後5時前に店に入ると、まだホステスの姿もなく、支配人も来ていなかった。
従業員更衣室に向かおうとすると、フロントのカウンターにいたママが、
「翔平くん!ちょっと頼みがあるけどいいかな?」
「はあ、いいですが、何でしょうか」
「実は和ちゃんが具合が悪くて休むと連絡があったのよ」
「珍しいですね、和ちゃんが休むなんて」
「だからちょっと心配でね、翔平くんに様子を見てきて欲しいんです」
「僕がですか!和ちゃんの住まいを知りませんけど」
「それは私が教えるから大丈夫よ。どうやら熱があるらしいから薬を買って、それに食事も心配だから、そこのデパートの地下で弁当も買って、ほかにも飲み物やらもお願いね」
と言って私の時給の5,6倍の札を渡された。
私はママから渡された住所と、そこへ行く大まかな方法が書かれた紙を持って外に出た。
まずは薬をと、アーケード街にある薬局で解熱剤を買う。次にその先の市電の通りに面したデパートの地下に行き、弁当を物色する。
和ちゃんの好みがよく分からない。ただいつか肉はあまり食べないと言っていたような気がしたので、サラダのパックと白身魚の入った弁当を買った、
次は飲み物かと思ったが、飲み物くらい家にあるだろうと思って、市電を降りて彼女のアパートへ行く途中にあるスーパーに寄ってカップアイスを2つ買ってアパートの部屋を訪ねた。
ノックの音に応える和ちゃんの声は、気のせいか弱々しく聞こえた。
「和ちゃん、菊田です。ママの使いできました」
ドアを開けた和ちゃんはパジャマ姿で熱があるのか、少し顔が赤っぽく、辛そうだったが、それでも。
「ありがとう、菊田くんには申し訳なかったわね」
と詫びを言った。
「いえいえ、たいしたことないです。こちらが解熱剤で、こっちは弁当とサラダです。ママからは飲み物を何かと言われましたが、熱があるならアイスクリームの方がいいかと思って、勝手にアイスにしました。2個あるので冷凍庫に入れておきますね」
「嬉しい!」アイスを食べたかったのよ。やっぱり菊田くんを指名して良かった」
「はあ、指名って何ですか?」
「ママに電話したらね、従業員に薬やらを届けさせるからと言うので、じゃあ菊田くんに持たせて下さい、っていう指名よ」
「ふ~ん、でもなんで僕なんですか?」
「だってホステスさん以外で親しいのは菊田くんだけだし」
「そうなんですか、和ちゃんはボーイ仲間では憧れの君で、結構誰とも話をしているのかと思っていました。でも、親しいって言ってくれて嬉しいです」
「ママも知っているから、菊田くんに頼むのに抵抗がなかったのじゃない。それに菊田くんが真面目で、ホステスとの噂一つないのも信頼されているのよ」
「それって男としてはちょっと寂しいような」
「お客さんの殆どは女目当ての中で、菊田くんみたいに女性をあまり気にしない人は新鮮なのよ。だからホステスの中には、菊田くんに好意を持っている子もいるみたいよ」
「まさか、そんな気配は微塵もないです」
「フフ、鈍いのよねぇ菊田くんは。女の気持ちは分からないでしょう」
「厨房の桝山さんみたいなことを言いますね。いいんです鈍くて。じゃあ、少しでも食べて薬を飲んで、しっかり休んで下さい。僕は仕事に行きます」
「ありがとう、ママによろしく言っておいてね。今度お礼に何かご馳走するわ」
「和ちゃんの部屋での話はこんなものだったような気がします」
「それ以上のことは何もなく?」
私が問うと、
「ええ、ただのお使いでしたから」
「菊田さん、やっぱり随分女性に疎かったようですね、その頃」
その後、菊田さんと和ちゃんはどうなったかですって?もちろん私は聞いておりますよ。
お知りになりたければ、名も知らぬ駅に来ませんか。