浮かない顔をして、Tさんが戸を開けて入ってきた。
「どうしたの、お疲れみたいだけど?」
と、マキちゃんがおしぼりを渡しながら問いかける。
「いや、疲れてるわけじゃないんだけど」
Tさんは、どうしようかというような躊躇いがちな視線をわたしに向けた。
人のプライバシーを覗く趣味はわたしにはないが、
お客さんが何か話したいことがあれば、それを聞いてやるのもバーテンダーの仕事の一つだと思っている。
カウンター1枚で向き合った客とバーテンダーだからできることでもあるのだ。
Tさんは、「セックス・オン・ザ・ビーチ」に手を伸ばすと、思い切ったように話し始めた。
「セックス・オン・ザ・ビーチ」は御存知のように、
トム=クルーズ主演の映画「カクテル」で一躍人気になったカクテルである。
ウォッカをベースに、メロンリキュールとクレーム・ド・フランボワーズ、
それにパイナップルジュースを加えてステアする。
Tさんは大の映画ファンで、映画に出た(と思われる)カクテルをよく注文する。
甘めのカクテルに、と思って作ったつまみを、マキちゃんが皿に盛ってTさんに出す。
新鮮な四葉(スーヨー)きゅうりを、5mm厚くらいに輪切りにし、
ビールとたっぷりの塩昆布に、ほんのひとつまみの砂糖を入れた付け汁を作る。
そこにきゅうりの輪切りを丸1日漬けて、
きゅうりに塩昆布をまぶして皿に盛り、七味唐辛子をサッと振りかけたものである。
四葉きゅうりは、中国浙江省の杭州が原産地と言われているが、
噛んだときのシャキシャキ感がよく、わたしがもっとも好む種類のきゅうりである。
さて、Tさんの話。
新しい商品のプレゼンのために、お得意さんに行った帰りのこと。
呉服町の電停で市電を待っていたとき、通りがかったカンちゃんが歩道から、
「Tさん、階段で転んで怪我しないようにね!」
と大声で呼びかけたそうである。
電車待ちの人が数人いて、Tさんは、カンちゃんの大声に閉口して、
さらには言っていることの意味もよく分からず、視線を合わせず、手だけを振ったそうだ。
多分わたしだってそうするだろう。
電車に乗ったとき、Tさんは、カンちゃんの言ったことは既に忘れていた。
それを思い出させたのは、勤めを終えて会社を引けるときのこと。
タイミング悪くエレベーターが満員で、たまには運動がてらいいかと、階段を下りたのだが、
その途中、誰がこぼしたのか、水が敷いたようになっている段があって、
それを避けようと段を飛び越したとき、踵を踏み外して一気に転んだ。
ただ幸いなことに、踊り場まで3段ほどしかなかったので、大けがにはならなかった。
それが約1週間前のことで、Tさんはもう普通に歩いている。
Tさんとカンちゃんは、わたしの店で出会っている。
カンちゃんは、週に1回は顔を見せてくれるお得意さんで、
年齢は、30才を少し超えるくらいか、明るくて屈託のないお客さんである。
たしか、Tさんとは映画の話しで意気投合し、2度ほど店で一緒になったはずである。
「カンちゃんて、どんな人なんですか。」
と、Tさんはその話しのあとに、わたしに問いかけてきた。
「映画好きの、気の置けないお客さんですが。」とわたしが答えると、
「いや、そう意味じゃなくて、なんで僕が転ぶと分かったんでしょう。」
「さあ?」いっていいものか、わたしは迷いながら返事をした。
カンちゃんに不思議な力があるのかどうか、窺い知れないが、
カンちゃんに関するこういった類の話は、Tさんで3人目になる。
そのうち1回はわたしに関することなので、よく覚えている。
ある日、カンちゃんが店を出る前に、ドアの前に立ち止まって振り返ると、
「マスター、今日の帰りはエレベーターじゃなくて階段がいいよ。」
と言って、何もなかったようにドアを開けて帰って行った。
Tさん同様、わたしも店の用事にかまけて、カンちゃんの言ったことは数分もしないうちに忘れていた。
午前2時に店を終えて、わたしはドアに鍵を掛けると、いつものようにエレベーターに乗り込んだ。
ところが、途中でブンというような音を立てて、突然エレベーターが停止し、
どんなにフロアーの数字を押しても動かない。
初めての経験でパニックになったわたしは、扉を叩くが開くはずもなく、
やっと気づいた非常ボタンを押し続け、30分以上経って救助された。
わたしがカンちゃんの言ったことを思い出したのは、翌日階段を上がって店に行く途中のことだった。
その次にカンちゃんが店に来たとき、わたしは尋ねた。
「実はこれこれでね、カンちゃんどうして分かったの?」
「うーん、なんて言ったらいいのかな、マスターの後ろの方にエレベータの中の様子がちらっと見えたんだよね。」
「そんなんが見えたときは、その人に何かしら災難があるということに気づいてさ。」
「それって、未来が見えるってこと?」と、わたし。
「そんなんじゃないと思うんだよね、多分。というのがさ、今までに3回ほどこういうことがあってね。」
「いくつか共通する事象があって、まず僕の知り合いの人にしか見えない。」
「次に、何かしら階段に関することで、もう一つは災難というか、事故というか、そんなことだけが起きるようなんだ。」
市電の電停で待っているTさんの向こうに、その時カンちゃんは何を見たのだろう。
わたしはカンちゃんのことを話そうかどうか、どうにも踏ん切りがつかないまま、Tさんの前にマティーニを置いた。
マティーニはヘミングウェイの小説にも出るし、いろんな映画でも飲まれているポピュラーなカクテルだが、
どうやらTさんは、お気に入りのオードリー=ヘプバーン主演の「麗しのサブリナ」で使われたから飲むようになったらしい。
1995年にジュリア・オーモンド主演で、「サブリナ」という題名でリメイクされたが、
やはり、ヘプバーンには及ぶべくもない、というのがTさんのご意見だった。
Tさんの問いに、わたしは
「よく分かりませんね。」と答えるしかなかった。
カンちゃんの能力が果たして未知の力なのか、確かめる術もなく、
なにしろ中途半端な予知能力であるため、カンちゃん自体が半信半疑でいる。
そんなふうになったのが、通り町の地下道を降りるとき、転んで頭を打ったあと、
しばらく脳震盪で横になったのがきっかけらしい、などという話ではあまりに説得力がない。
「じゃあ、今度カンちゃんに会ったとき確かめるかな。」とTさんは呟いて、マティーニに口をつけた。
カンちゃんに会って、自分の未来を予知して欲しいですって。
お客さんが、カンちゃんの言う3つの条件に合っているなら、それも可能でしょうね。
ただし、予知できてもそれは災難に限ってるらしいのですが、
それでもよければ、一度名も知らぬ駅に来ませんか。
※この話及び登場人物も基本的にはフィクションです。
「どうしたの、お疲れみたいだけど?」
と、マキちゃんがおしぼりを渡しながら問いかける。
「いや、疲れてるわけじゃないんだけど」
Tさんは、どうしようかというような躊躇いがちな視線をわたしに向けた。
人のプライバシーを覗く趣味はわたしにはないが、
お客さんが何か話したいことがあれば、それを聞いてやるのもバーテンダーの仕事の一つだと思っている。
カウンター1枚で向き合った客とバーテンダーだからできることでもあるのだ。
Tさんは、「セックス・オン・ザ・ビーチ」に手を伸ばすと、思い切ったように話し始めた。
「セックス・オン・ザ・ビーチ」は御存知のように、
トム=クルーズ主演の映画「カクテル」で一躍人気になったカクテルである。
ウォッカをベースに、メロンリキュールとクレーム・ド・フランボワーズ、
それにパイナップルジュースを加えてステアする。
Tさんは大の映画ファンで、映画に出た(と思われる)カクテルをよく注文する。
甘めのカクテルに、と思って作ったつまみを、マキちゃんが皿に盛ってTさんに出す。
新鮮な四葉(スーヨー)きゅうりを、5mm厚くらいに輪切りにし、
ビールとたっぷりの塩昆布に、ほんのひとつまみの砂糖を入れた付け汁を作る。
そこにきゅうりの輪切りを丸1日漬けて、
きゅうりに塩昆布をまぶして皿に盛り、七味唐辛子をサッと振りかけたものである。
四葉きゅうりは、中国浙江省の杭州が原産地と言われているが、
噛んだときのシャキシャキ感がよく、わたしがもっとも好む種類のきゅうりである。
さて、Tさんの話。
新しい商品のプレゼンのために、お得意さんに行った帰りのこと。
呉服町の電停で市電を待っていたとき、通りがかったカンちゃんが歩道から、
「Tさん、階段で転んで怪我しないようにね!」
と大声で呼びかけたそうである。
電車待ちの人が数人いて、Tさんは、カンちゃんの大声に閉口して、
さらには言っていることの意味もよく分からず、視線を合わせず、手だけを振ったそうだ。
多分わたしだってそうするだろう。
電車に乗ったとき、Tさんは、カンちゃんの言ったことは既に忘れていた。
それを思い出させたのは、勤めを終えて会社を引けるときのこと。
タイミング悪くエレベーターが満員で、たまには運動がてらいいかと、階段を下りたのだが、
その途中、誰がこぼしたのか、水が敷いたようになっている段があって、
それを避けようと段を飛び越したとき、踵を踏み外して一気に転んだ。
ただ幸いなことに、踊り場まで3段ほどしかなかったので、大けがにはならなかった。
それが約1週間前のことで、Tさんはもう普通に歩いている。
Tさんとカンちゃんは、わたしの店で出会っている。
カンちゃんは、週に1回は顔を見せてくれるお得意さんで、
年齢は、30才を少し超えるくらいか、明るくて屈託のないお客さんである。
たしか、Tさんとは映画の話しで意気投合し、2度ほど店で一緒になったはずである。
「カンちゃんて、どんな人なんですか。」
と、Tさんはその話しのあとに、わたしに問いかけてきた。
「映画好きの、気の置けないお客さんですが。」とわたしが答えると、
「いや、そう意味じゃなくて、なんで僕が転ぶと分かったんでしょう。」
「さあ?」いっていいものか、わたしは迷いながら返事をした。
カンちゃんに不思議な力があるのかどうか、窺い知れないが、
カンちゃんに関するこういった類の話は、Tさんで3人目になる。
そのうち1回はわたしに関することなので、よく覚えている。
ある日、カンちゃんが店を出る前に、ドアの前に立ち止まって振り返ると、
「マスター、今日の帰りはエレベーターじゃなくて階段がいいよ。」
と言って、何もなかったようにドアを開けて帰って行った。
Tさん同様、わたしも店の用事にかまけて、カンちゃんの言ったことは数分もしないうちに忘れていた。
午前2時に店を終えて、わたしはドアに鍵を掛けると、いつものようにエレベーターに乗り込んだ。
ところが、途中でブンというような音を立てて、突然エレベーターが停止し、
どんなにフロアーの数字を押しても動かない。
初めての経験でパニックになったわたしは、扉を叩くが開くはずもなく、
やっと気づいた非常ボタンを押し続け、30分以上経って救助された。
わたしがカンちゃんの言ったことを思い出したのは、翌日階段を上がって店に行く途中のことだった。
その次にカンちゃんが店に来たとき、わたしは尋ねた。
「実はこれこれでね、カンちゃんどうして分かったの?」
「うーん、なんて言ったらいいのかな、マスターの後ろの方にエレベータの中の様子がちらっと見えたんだよね。」
「そんなんが見えたときは、その人に何かしら災難があるということに気づいてさ。」
「それって、未来が見えるってこと?」と、わたし。
「そんなんじゃないと思うんだよね、多分。というのがさ、今までに3回ほどこういうことがあってね。」
「いくつか共通する事象があって、まず僕の知り合いの人にしか見えない。」
「次に、何かしら階段に関することで、もう一つは災難というか、事故というか、そんなことだけが起きるようなんだ。」
市電の電停で待っているTさんの向こうに、その時カンちゃんは何を見たのだろう。
わたしはカンちゃんのことを話そうかどうか、どうにも踏ん切りがつかないまま、Tさんの前にマティーニを置いた。
マティーニはヘミングウェイの小説にも出るし、いろんな映画でも飲まれているポピュラーなカクテルだが、
どうやらTさんは、お気に入りのオードリー=ヘプバーン主演の「麗しのサブリナ」で使われたから飲むようになったらしい。
1995年にジュリア・オーモンド主演で、「サブリナ」という題名でリメイクされたが、
やはり、ヘプバーンには及ぶべくもない、というのがTさんのご意見だった。
Tさんの問いに、わたしは
「よく分かりませんね。」と答えるしかなかった。
カンちゃんの能力が果たして未知の力なのか、確かめる術もなく、
なにしろ中途半端な予知能力であるため、カンちゃん自体が半信半疑でいる。
そんなふうになったのが、通り町の地下道を降りるとき、転んで頭を打ったあと、
しばらく脳震盪で横になったのがきっかけらしい、などという話ではあまりに説得力がない。
「じゃあ、今度カンちゃんに会ったとき確かめるかな。」とTさんは呟いて、マティーニに口をつけた。
カンちゃんに会って、自分の未来を予知して欲しいですって。
お客さんが、カンちゃんの言う3つの条件に合っているなら、それも可能でしょうね。
ただし、予知できてもそれは災難に限ってるらしいのですが、
それでもよければ、一度名も知らぬ駅に来ませんか。
※この話及び登場人物も基本的にはフィクションです。