「彼女の部屋に上がったことは確かなんですけどね。その後のことはあまり記憶にないんですよね」
「本当ですか?若い男が若い女性の部屋に上がって、その後の記憶が曖昧なんて、ウ~ン信じられないなぁ」
「本当ですって!」
「で、彼女の部屋に行った経緯はどういうことだったんですか?」
私が問うと、菊田さんはカミカゼを一口含んで当時のことを話し始めた。
カミカゼというカクテルはいかにも日本生まれのようだが、どうやらアメリカで考案されたようだ。

ベースはウオッカで、これにホワイトキュラソーとライムを1:1:1の割合で入れてシェイクする。
辛口且つシャープな口当たりのため、戦時の日本の空挺攻撃隊の名前を付けたと言われている。
「その頃私は学生でね。当時流行っていたキャバレーでアルバイトをしていたんです」
「キャバレーとは懐かしい。私がこの世界に入った頃にはもう廃れていましたが」
「そうね、1960~1970年代が一番盛んだったかな。ホステスを侍らせて派手な遊びをする人種が少なくなるに連れて客足が減って次々と店が姿を消したようです」
「栄枯盛衰はどんな商売にもありますからね。私の所のように小さい商売だっていつ怪しくなるかも知れません」
「この店は心配ないよ、と私のような門外漢が気楽に言って良いことではないな」
「いえいえ、そんなことはないです」
「そのキャバレーは県都で一番大きな店でね。ちょっとしたステージもあって、ホステスは常時100人以上は居たかな。その店でボーイをやっていたんです。今はウェイターと呼ぶけど、当時はボーイという呼称が普通だったね。」
「あれでしょう、ホステスさんが『ボーイさんお願い』と言って呼ぶんでしょう」
「そうそう!声で呼ばれるのは近くにいるときだけで、広い店ではほとんどホステスが合図するマッチやライターの灯りで呼ばれていました。だからホステスから名前や顔を覚えられることは少なかったですね。謂わば、ホステスが舞台の上の役者なら、ボーイは黒子です。そこに居るけど居ない者として扱われる。別にそれが不満ではないですよ、そういうもんだと割り切って仕事をしていますから」
「イケメンのボーイでもホステスさんにはモテなかったんですか?」
「いやいや、イケメンどころか野暮ったい学生アルバイトですから。それに金があるわけでもないし、金銭にシビアなホステスにモテる要素は全くありませんでした」
「じゃあ部屋に行った相手はホステスさんではなかったんですね」
「ええ、実はそのキャバレーには美容室があって、そこの美容師なんです」
「キャバレーに美容室を併設していたんですか。そりゃあ凄い!」
「100人を超えるホステスがいましたからね。そこの美容室は美容院より安くて、若いホステスの利用が結構ありましたね」
「で、あるとき・・・・・」
と言って件の経緯を菊田さんは話し始めた。
菊田はキャバレー「夢夜会」でアルバイトを始めて半年以上になる。最初は当座の小遣い稼ぎ程度に考え、ふた月くらいの気持ちでいたが、初めて見る夜の世界というか、キャバレーに集うホステスや客の生態とも言うべき人間模様が妙に面白くなって、それに仕事に慣れてくると特に難しくも辛くもないので、ずるずるとここまで来た気がする。
ボーイはほとんど短期で辞めていくものが多く、3ヶ月くらいで交代するのが常態だった。その仕事は注文を訊いて、それを厨房や飲み物がある場所からテーブルへ運ぶだけの単純作業だから、出勤初日からスタッフに入ることができる。 半年以上続いているのは、12,3人いるボーイの中で菊田ともう一人だった。そういうわけで、店のママや支配人からはそれなりに頼りにされていた。
あるとき、開店前に支配人に呼ばれた菊田は、
「菊田くん、実は今日渋井組の組長の出所祝いをうちの店でやることになっていてね、そのテーブルを君に担当して欲しいんです」
支配人はボーイに対してもいつものように丁寧な口調で言った。
「えっ、渋井組ってヤーさんですよね」
「そう、だから慣れないボーイに任せるわけにはいかないんです。お客さんは全員で10人くらいの人数になるようだけど」
「組長の出所祝いというと、客というのは皆ヤーさんなんでしょう」
「菊田くん、くれぐれもヤーさんとは口にしないで下さい」
「ええ、勿論それは分かっていますが、でも嫌だなぁ。桝山さんにやってもらえないんですか。桝山さんの方がこの店長いし」
「それが、桝山くんは風邪を引いたみたいで、2,3日休むと連絡があったんです」
「ウ~ン、しょうがないなぁ。分かりました。で、何時頃来るんですか、渋井組長は」
「8時頃という話です。くれぐれも粗相がないようお願いします」
「イチャモンをつけられないよう用心しますよ」
その返事に支配人は苦笑して離れて行った。
当夜の出所祝いに席は特に問題なく終わり、その様子を厨房責任者の桑原に話すと、
「そんなもんだよ。組長を囲んだ飲み会なら、参加者はほとんど幹部連中だから無茶はしないさ。何かとイチャモンつけるのは下っ端のチンピラだけだよ」
「桑原さんってヤーさんの世界の話に詳しいですよね。もしかして以前はその世界に・・・?」
「ばーか、夜の世界にいると自然と詳しくなるさ。ここのママさんだって、本当はあんな連中との付き合いは御免と思っているけど、なかなか周りが許してくれないんで仕方なく今日も受け入れたんだ」
「そうなんですね、そうですよね。ママが若いホステスに、あんなのと付き合っちゃいけないって言っていた男はいかにもチンピラ風でしたもん」
「チンピラはまだ仕事に慣れないホステスを狙って店に来ることが多いんだ。連中の手口を知ってるか?」
「いいえ、教えて下さい」
「あいつらはこの店で初めてホステスになったような、謂わば初(うぶ)な女の子を狙って、ほとんど毎日のように店に来ては、そのホステスを指名して、いわゆる恩に着せるのだ。そうやってそいつの言うことを聞かざるを得ない状況に追い込むんだ。ホステスにとっては指名をもらうというのは給料にも反映するし、店での格も上がるからね」
「汚いやり口ですね」
「ヤーさんのやり口はそんなもんさ。そうやってホステスを自分のものにすると態度は一変。店には来ずにそのホステスのひもになって、店に来るのはその子に小遣いをせびるときだけになる」
「可哀想に。ホステスは着飾って見栄えのいい外見だけど、見かけだけで判断してはなりませんね」
「そうさ、菊田はボーイだけど店には長いんだから、若いホステスには気をつけてやれよ」
「ええ、分かりました。でもボーイの言葉に耳を傾けるホステスなんていますかね」
「菊田、おまえは気づいていないかも知れんが、おまえの名前はママや支配人からよく聞くし、ホステスもよく噂しているぞ。結構店の皆から頼りにされてんだ」
「嘘でしょう、そんな気配は少しもありませんよ」
「おまえが鈍いだけだよ」
そう言い残して桑原はオーダーの入った唐揚げの揚がり具合を見に行った。
「菊田さんとその美容師さんの馴れ初めはどうなんですか?」
私が問うと、菊田さんはカミカゼをまた一口含んだ。
「彼女の名前は和ちゃんと言ってね。歳は20代前半かな、背が高くてほとんどのホステスの誰よりもきれいな女(ひと)でした」
と先の話を続けた
「本当ですか?若い男が若い女性の部屋に上がって、その後の記憶が曖昧なんて、ウ~ン信じられないなぁ」
「本当ですって!」
「で、彼女の部屋に行った経緯はどういうことだったんですか?」
私が問うと、菊田さんはカミカゼを一口含んで当時のことを話し始めた。
カミカゼというカクテルはいかにも日本生まれのようだが、どうやらアメリカで考案されたようだ。

ベースはウオッカで、これにホワイトキュラソーとライムを1:1:1の割合で入れてシェイクする。
辛口且つシャープな口当たりのため、戦時の日本の空挺攻撃隊の名前を付けたと言われている。
「その頃私は学生でね。当時流行っていたキャバレーでアルバイトをしていたんです」
「キャバレーとは懐かしい。私がこの世界に入った頃にはもう廃れていましたが」
「そうね、1960~1970年代が一番盛んだったかな。ホステスを侍らせて派手な遊びをする人種が少なくなるに連れて客足が減って次々と店が姿を消したようです」
「栄枯盛衰はどんな商売にもありますからね。私の所のように小さい商売だっていつ怪しくなるかも知れません」
「この店は心配ないよ、と私のような門外漢が気楽に言って良いことではないな」
「いえいえ、そんなことはないです」
「そのキャバレーは県都で一番大きな店でね。ちょっとしたステージもあって、ホステスは常時100人以上は居たかな。その店でボーイをやっていたんです。今はウェイターと呼ぶけど、当時はボーイという呼称が普通だったね。」
「あれでしょう、ホステスさんが『ボーイさんお願い』と言って呼ぶんでしょう」
「そうそう!声で呼ばれるのは近くにいるときだけで、広い店ではほとんどホステスが合図するマッチやライターの灯りで呼ばれていました。だからホステスから名前や顔を覚えられることは少なかったですね。謂わば、ホステスが舞台の上の役者なら、ボーイは黒子です。そこに居るけど居ない者として扱われる。別にそれが不満ではないですよ、そういうもんだと割り切って仕事をしていますから」
「イケメンのボーイでもホステスさんにはモテなかったんですか?」
「いやいや、イケメンどころか野暮ったい学生アルバイトですから。それに金があるわけでもないし、金銭にシビアなホステスにモテる要素は全くありませんでした」
「じゃあ部屋に行った相手はホステスさんではなかったんですね」
「ええ、実はそのキャバレーには美容室があって、そこの美容師なんです」
「キャバレーに美容室を併設していたんですか。そりゃあ凄い!」
「100人を超えるホステスがいましたからね。そこの美容室は美容院より安くて、若いホステスの利用が結構ありましたね」
「で、あるとき・・・・・」
と言って件の経緯を菊田さんは話し始めた。
菊田はキャバレー「夢夜会」でアルバイトを始めて半年以上になる。最初は当座の小遣い稼ぎ程度に考え、ふた月くらいの気持ちでいたが、初めて見る夜の世界というか、キャバレーに集うホステスや客の生態とも言うべき人間模様が妙に面白くなって、それに仕事に慣れてくると特に難しくも辛くもないので、ずるずるとここまで来た気がする。
ボーイはほとんど短期で辞めていくものが多く、3ヶ月くらいで交代するのが常態だった。その仕事は注文を訊いて、それを厨房や飲み物がある場所からテーブルへ運ぶだけの単純作業だから、出勤初日からスタッフに入ることができる。 半年以上続いているのは、12,3人いるボーイの中で菊田ともう一人だった。そういうわけで、店のママや支配人からはそれなりに頼りにされていた。
あるとき、開店前に支配人に呼ばれた菊田は、
「菊田くん、実は今日渋井組の組長の出所祝いをうちの店でやることになっていてね、そのテーブルを君に担当して欲しいんです」
支配人はボーイに対してもいつものように丁寧な口調で言った。
「えっ、渋井組ってヤーさんですよね」
「そう、だから慣れないボーイに任せるわけにはいかないんです。お客さんは全員で10人くらいの人数になるようだけど」
「組長の出所祝いというと、客というのは皆ヤーさんなんでしょう」
「菊田くん、くれぐれもヤーさんとは口にしないで下さい」
「ええ、勿論それは分かっていますが、でも嫌だなぁ。桝山さんにやってもらえないんですか。桝山さんの方がこの店長いし」
「それが、桝山くんは風邪を引いたみたいで、2,3日休むと連絡があったんです」
「ウ~ン、しょうがないなぁ。分かりました。で、何時頃来るんですか、渋井組長は」
「8時頃という話です。くれぐれも粗相がないようお願いします」
「イチャモンをつけられないよう用心しますよ」
その返事に支配人は苦笑して離れて行った。
当夜の出所祝いに席は特に問題なく終わり、その様子を厨房責任者の桑原に話すと、
「そんなもんだよ。組長を囲んだ飲み会なら、参加者はほとんど幹部連中だから無茶はしないさ。何かとイチャモンつけるのは下っ端のチンピラだけだよ」
「桑原さんってヤーさんの世界の話に詳しいですよね。もしかして以前はその世界に・・・?」
「ばーか、夜の世界にいると自然と詳しくなるさ。ここのママさんだって、本当はあんな連中との付き合いは御免と思っているけど、なかなか周りが許してくれないんで仕方なく今日も受け入れたんだ」
「そうなんですね、そうですよね。ママが若いホステスに、あんなのと付き合っちゃいけないって言っていた男はいかにもチンピラ風でしたもん」
「チンピラはまだ仕事に慣れないホステスを狙って店に来ることが多いんだ。連中の手口を知ってるか?」
「いいえ、教えて下さい」
「あいつらはこの店で初めてホステスになったような、謂わば初(うぶ)な女の子を狙って、ほとんど毎日のように店に来ては、そのホステスを指名して、いわゆる恩に着せるのだ。そうやってそいつの言うことを聞かざるを得ない状況に追い込むんだ。ホステスにとっては指名をもらうというのは給料にも反映するし、店での格も上がるからね」
「汚いやり口ですね」
「ヤーさんのやり口はそんなもんさ。そうやってホステスを自分のものにすると態度は一変。店には来ずにそのホステスのひもになって、店に来るのはその子に小遣いをせびるときだけになる」
「可哀想に。ホステスは着飾って見栄えのいい外見だけど、見かけだけで判断してはなりませんね」
「そうさ、菊田はボーイだけど店には長いんだから、若いホステスには気をつけてやれよ」
「ええ、分かりました。でもボーイの言葉に耳を傾けるホステスなんていますかね」
「菊田、おまえは気づいていないかも知れんが、おまえの名前はママや支配人からよく聞くし、ホステスもよく噂しているぞ。結構店の皆から頼りにされてんだ」
「嘘でしょう、そんな気配は少しもありませんよ」
「おまえが鈍いだけだよ」
そう言い残して桑原はオーダーの入った唐揚げの揚がり具合を見に行った。
「菊田さんとその美容師さんの馴れ初めはどうなんですか?」
私が問うと、菊田さんはカミカゼをまた一口含んだ。
「彼女の名前は和ちゃんと言ってね。歳は20代前半かな、背が高くてほとんどのホステスの誰よりもきれいな女(ひと)でした」
と先の話を続けた
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