ひねもすのたりにて

阿蘇に過ごす日々は良きかな。
旅の空の下にて過ごす日々もまた良きかな。

井戸の茶碗

2010年03月08日 | 日記(?)
先日、柳家さん喬の落語を聞く機会があった。
さん喬は、今は亡き柳家小さんの弟子である。
さすがの名人芸で、すっかり引き込まれてしまった。

演目の一つが古典落語で有名な「井戸の茶碗」。
井戸の茶碗というのは、高麗茶碗の中でも珍重されたらしいが、
この落語に出会うまで、全く知らなかった。

この茶碗の姿形を見ると、概ね素朴で、茫洋とした感じだ。
江戸の茶人に愛用されたらしいが、
侘び寂びを愛した彼らに珍重されたのも、むべなるかなと思われる。

「井戸の茶碗」の演目は、古典落語だけに多くの名人が演じていて、
話の大筋は決まっているので、
その合間の語りにそれぞれの落語家の特徴が出ている。

さん喬の「井戸の茶碗」は、笑いに対してのわざとらしさが無く、
人情話の風情も豊かで、
何よりも、情景が目の前に浮かんでくるという名人芸だった。
すっかり堪能して会場を後にした。

数日後、友人がCDを持ってきてくれて、
中に入っていたのが、立川笑志の「井戸の茶碗」だった。
まだ真打ちになる前の録音で、
11年間二つ目を努めたというだけあって、
立川流のレベルの高さを感じさせるものだった。

それにしても、落語は演じる噺家を目の前にしているときが一番おもしろい。
4月から暇になるので、しばし落語にはまってみようか。
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青春のコリア

2010年03月03日 | 旅の空の下
最初に韓国を旅行したのは、23才、まだ学生だった。
下関から関釜フェリーに乗り、釜山に上陸した。
当時韓国は民主化にはほど遠く、
クーデターで政権を取った大統領の朴正煕(パク・チョンヒ)は、
軍事独裁政治を敷き、先頃亡くなった金大中を日本のホテルから拉致した黒幕でもあった。

そんな状況だったので、夜12時以降は外出禁止の戒厳令が敷かれていて、
それでも泊まった安宿の親爺が、11時過ぎに
「ミドリマチに行こう。」と誘いに来た。
今から行ったんじゃ、絶対戒厳令に引っかかるじゃないかと反論しても、
「OK、OK」と聞かない。
なるほど、戒厳令下でもタクシーは走っていた。

3日ほど釜山に滞在し、列車で慶州に向かった。
慶州の安宿は、韓ドラ時代劇の部屋と全く一緒で、
観音開きの障子戸を開けると、3畳ほどのオンドル部屋があって、隅っこに布団がたたんである。
もちろん鍵などかかるはずもない。

この宿の親爺と、隣の薄汚い安食堂の親爺はマッカリが好きで、
私に奢るという名目で夕方になると一緒に飲んだ。
奢り奢られで滞在した3晩ともマッカリが夕食代わりだった。
ここ慶州では、初めて食べたビビンバの辛さに呆れ、
同じものを平然と食っている子どもになお呆れた。

慶州から再び列車に乗り、ソウルに入った。
さすがにソウルは当時でも大都会で、駅近くの安宿にチェックインした。
この宿の息子が出てきて、英語で話しかけた割には全く英語を解せず、
結局、「Can you speak English?」という英語だけが彼のボキャブラリーだったという、
いささかびびった私には、「馬鹿にしてんのか」と、笑うに笑えない話だった。

南山にはまだロープウェイはなく、歩いて登った記憶がある。
広い道路に架かる陸橋を歩いていたら、
明らかにその筋のお姉さんと思われる女性から声をかけられ、
どう対応していいか分からず、無言で通り過ぎた。

宿の、例の息子は息子で、夜になると部屋をノックして、
女性を世話するがどうだ、みたいなことをハングルで言ってくる。
言葉は分からないが、内容は何となく分かるものなのだ、この手の話は。
「で、どうしたか」ですって。
さあ、記憶にも記録にもないから、何とも。

当時は、韓国旅行というのは、女性からは一種の軽蔑の目で見られていて、
というのが、日本からの男どものツアー客の目的が、
いわゆるキーセン(妓生)パーティーという買春ツアーが主だったからである。
私のような個人旅行者はまだ希な存在で、
キーセンツアーの客と一緒にされるのは非常に心外だった。

ソウルでは4泊ほどした後、釜山まで戻り、再び関釜フェリーで下関まで帰った。
帰りの船室(大部屋)の中で、日本人男性ツアー客が大声で話している。
キーセンパーティーの、ほぼ自慢話だ。

そんな中、
私は、釜山で私を出汁にミドリマチにしけ込もうとした宿の親爺や、
飲み仲間になった慶州の日本語を操る宿の親爺と、飲んべえの食堂の親爺。
英語で話しかけて私をびびらせた宿の青年。
南山の途中で声をかけてきた儚げな女性。
そういう人たちを思い出しながら、また必ず韓国に来ようと密かに誓いを立てていた。

今では、ソウルの明洞などは、地図なしでも歩けるくらいになった。
それでも、昔日本が韓国の人たちにしたことを、
キーセンツアーで多くの日本の男たちが来たことを、
いつも心の片隅に置いておかねばならないと思っている。

今ではすっかり、黄昏のコリアになってしまったが、
せめて年1回は、青春の日を蘇らせるために、
ビビンバの辛さを味わいに来よう。
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世界の車窓から

2010年03月01日 | 旅の空の下
昨夜、久しぶりに中国列車大紀行のDVDを見た。
関口知宏が片道36,000㎞の列車の旅をするというものだ。
NHKで放送され、DVDになったものを、
東京にいる娘が、父の日のプレゼントということでくれたもので、
春編と秋編それぞれ4枚セットになっている。

今年の夏は、ずいぶん前から行ってみたかった、雲南省の麗江という町に行こうと思っている。
数年前、高倉健主演の映画、「単騎千里を走る」の舞台となったところでもある。
麗江の郊外に、束河村というところがあり、ここは映画の中の「長街宴」の舞台になったという。
先日テレビで、雲南省の元陽県の村で行われる長街宴の模様を放送していたが、
映画の長街宴もこれと同じだったのだろうか。

麗江は、雲南省の省都昆明からバスで8時間ほどのところで、
まず日本から上海に入り、そこから列車で43時間かけて昆明に着く。
その日のうちに飛行機で飛ぶか、再び寝台列車で麗江まで行くか、
それとも昆明に1泊して翌早朝バスで行くか、思案のしどころである。

北京に入って、そこから38時間ほど掛けて昆明まで列車で行くという方法もある。
何故こんなに列車にこだわるかというと、中国列車大紀行の影響が大である。
世界のいろんな国で列車に乗ったので、中国でも是非にという思いもある。

韓国の釜山からソウルまでのセマウル号。
タイのバンコクからシンガポールまでの乗り継ぎながらの国際列車。
タイでは、バンコクからチェンマイやウボンラチャタニーなど数回の寝台列車の旅。
ベトナムのサイゴン駅からハノイまでの統一列車。
今までの最長のシベリア鉄道。
インドのムンバイから乗った窓から熱風の入る列車。
タンザニアで不安に駆られながら乗ったサバンナを走る列車。
モロッコのカサブランカらフェズまでの2階建て列車。
スペインは、マドリッドとバルセロナ間のAVEという新幹線や、
バルセロナからグラナダまでの豪華寝台列車。
ペルーでは、最近洪水で甚大な被害の出たマチュピチュへの観光列車。

それぞれの国で、それぞれの土地で、
車窓からの風景はそれぞれの景色や息づかいを見せる。
しかし、様々な車窓からの景色を見ながら、私はいつも同じ感慨を持つ。
「ああ、ここにも人が暮らしている。」と。

ビルが林立する都会の中にも、
人影まばらな草原や田園の風景の中にも、
人は変わらず毎日の営みをしている。
その姿は、どこの国でも同じで、
その風景を見る度に私は故郷の阿蘇を思い出すのだ。

私は、もしかしたら、そのことを確認したくて旅に駆り立てられるのかも知れない。
地球という空間の中でも、
時代という時空の中でも、
人は変わらず毎日の営みをしていくものだということを確認するために。
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