日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

2月2日

2025-02-04 12:39:39 | 日記
エレミヤ書1:4~10 コリント113:1~13 ルカ4:21~30
☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
二日市教会主日礼拝説教 2025年2月2日(日)
ある宣教師―その3
☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
「ある宣教師」、本日は三回目になります。さて、1926年(大正15年)のアメリカ生まれのアンドリュー・エリスさんは大学卒業後神学校に行き牧師になりました。彼はすでに日本伝道を志していたので、ルーテル教会の本部は、彼を日本で農村伝道をする宣教師に任命しました。こうして、彼は終戦直後の日本に来て、任地の熊本にやってきました。そしてメイドイン・アメリカの大きなクルマで巡回する仕事を始めたのでした。なお、彼が住む家は熊本市内の大江という土地にありました。その家は二階建ての宣教師館で、二軒のうちの一つに単身者の彼が住むことになりました。彼がそこに入居したのは1952(昭和27)年で、その時26歳でした。
ところが、次の年の4月、阿蘇の根子岳が大噴火を起こし、516万トンと言われる灰を降らせました。それから二カ月後、停滞中の梅雨前線が活発化し、九州に平年の5倍の雨を降らせました。中でも、6月26日の雨がものすごく、阿蘇に積もった火山灰を巻き込んだ水が土石流となり、一気に熊本市を目がけて流れ始めました。そして、その濁流がことに白川に大量に流入したため、のちに白川大水害と呼ばれる被害をもたらしたのでした。

なお、この豪雨は九州全域に及んだので、公式には西日本水害と呼ばれています。福岡県の被害も甚大で、筑後川、遠賀川が大氾濫を起こし、その流域での死者・行方不明者は259名に達したと言われています。
しかし熊本の被害はそれを上回りました。熊本県の死者・行方不明者は563名、流出家屋は2585棟だったと記録されています。そしてその中でも、白川大水害は際立っていました。さらに、白川流域の大江地区が最大の被害を出しました。ここは大江小学校があるので大江校区とも呼ばれます。この大江地区での死者は200名に達したのでした。そしてこの大江地区にエリス先生は住んでいたのでした。
ところで、九州で9番目に大きい白川の流域の中で、大江地区の被害が突出したのはなぜなのか。大江地区を流れる白川には水前寺清子ゆかりの子飼橋という橋があります。その橋が急にトラブルを起こしたのでした。というのも、上流からやってくる流木が橋桁にかかり始めてついに満杯となり、ダムのように水を堰き止めたので、行き場を失った水が堤防を壊して町になだれこんだからでした。

当時小学3年生だった田尻康博さんという人の証言があります。「朝からの激しい雨で授業は早めに終わり家に帰った。夕方5時頃、土間に水が流れ込んできたので、母親と手をつないで外に飛び出した。近くの大江小学校に避難しようとしたが、水が腰のあたりまで迫ってきて、手が離れ急流に呑み込まれたが、必死に泳いで電柱に引っかかりたすかった。泣き叫ぶ母親と再会しそのまま途方にくれていると、すぐそばの産婦人科のドアが開いて中に入れてくれたので助かりました」。
さてこの日にエリス先生も、別の場所で水害に直面していました。そこも他と同じく大水になっていました。しかし夜の10時のラジオのニュースが「熊本の水はもう峠を越えた」と放送したので、これ以上にはならないと思いました。ところが、その直後の10時20分か30分頃のこと、グワーッというまるで特急列車の通過音のような音が聞こえました。その音がした時が、子飼橋の流木が土手を突き破った瞬間なのでした。するとすぐ「助けてくれー」という声がするので外を見るとひとりの少年がエリス先生に向かって助けを呼んでいました。先生はとっさに事態を理解し、外に出ると近所をまわり住民に宣教師館への避難を呼びかけました。当時の家屋は殆ど平屋でした。皆はすぐ逃げてきて二階に上がり、およそ70人が夜を過ごしました。

次の日、夜明け前の4時ごろから水が引き始め、6時には完全に引きました。けれども、それは終わりではありませんでした。なぜならどこの家も泥水だらけ、しかも当時はどこも畳敷きだったからでした。なおこの泥は阿蘇の火山灰が混じっていました。火山灰は水を含むとさらに粘るのでした。
エリス先生は宣教師館の泥を除去して、一階、二階の全部を地元の人たちのための避難所にしました。さらに、当時は無人だった隣りの宣教師館も解放しました。皆はそこに泊まり、先生自身は、友人の家に泊まりに行きました。
さて、道路は流されてきた畳や捨てられた畳で一杯で、押し寄せてきた泥に覆われていました。だから、復旧はおそらく半年はかかると言われていました。ところが、エリス先生が驚いたのは、大江地区は一カ月半でそれが片付いたことでした。また新しい畳も次々と運び込まれ、間もなく住民は自分の家に帰って寝ることが出来ました。
エリス先生はこう書いています。「最も感動したのは、みなさんの努力ですね。その時の態度です。あわてませんでした。つい数年前までの戦争中の体験もありましたから、それに戦時中の配給制度がまだ残っていましたから、近所の皆さんは九州学院の寮の前に並んで、配給の缶詰とかお茶をもらい、パニックになりませんでした。」なお、九州学院は大江地区にあったルーテル教会の学校です。

しかし、新しい生活になっても、熊本市内は火山灰にずっと悩まされ続けました。町はいつもほこりがいっぱいで、特に真夏の7、8月は目の前が何も見えなくなるくらいの火山灰の煙がもうもうとするのでした。
ところで、エリス先生にとってこの洪水は生涯忘れられない思い出となりました。なぜなら、何よりも地域の人々が先生を外国人扱いしなくなったからでした。先生はその1年前に日本に来て、大江に住み始めたばかりでしたから、子どもたちとはすぐ仲良くなりましたが、大人たちとは親しくはなっていませんでした。ところが、水害が終わってみると、自分はもうストレンジャー(見知らぬ旅人)ではなくなっていたのでした。まるで家族みたいになり、その後長いお付き合いになった人たちも出来たのでした。
エリス先生は自分の書いた本で、マタイ福音書の25章の35節の「旅をしていた時に宿を貸した」という言葉を取り上げ、その言葉どおりに自分は宿を貸したと書いています。しかしそれはたまたま広い二階の宣教師館があったからにすぎないと言うのでした。むしろ、その時まだよそものにすぎなかった自分が、洪水のために安心して落ち着ける「宿」を与えられた体験だった……。この貴重な体験が、彼のその後の人生の熊本を第二のふるさとにしてくれたのでした。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週 2月9日 顕現後第5主日
説教題:ある宣教師 その④
説教者:白髭義牧師

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 1月26日 | トップ |   
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事