列王記上17:8~16、 ヘブライ9:24~28、 ルカ15:1~13
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二日市教会宗教改革主日礼拝説教 2024年11月10日(日)
「放蕩息子のたとえ その1.反逆」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
わたしたちはこれまで、イエスのたとえ話を取り上げてきました。そのたとえ話は一つ一つが奥深いものなのですが、特に印象的なたとえ話は「放蕩息子のたとえ」だと思われます。なぜなら、多くの人がこの話を通して放蕩息子と自分を重ね合わせ、人生についてあれこれ考える経験をしてきたからです。そのとおりで、このたとえ話には、考えることがいっぱい出てきます。そこで、数回に分けて考えることにしたいと思ったのですが、とりあえず三回に分けてみたいと思います。
さて、その第一回は、今のルカ15章の11節から16節までを取り上げます。弟息子が父親からもらった財産をお金に換え都会に出て行き、お金を使い果たして豚飼いになるまでの話です。
それでは詳しく見てゆきます。ある父親に二人の息子がいました。ある時弟のほうが父に財産を譲ってくれるよう申し出ました。(ところが父はまだ生きている)。それなのに「お父さん、私に財産の分け前をください」と言ったのでした。この生前相続は当時も法律で認められていました。ただし、財産の三分の二は長子と定められていたので、弟の取り分は残りの三分の一でした。いずれにしても、父親の承諾が条件でした。ということは、この話の場合の父は生前贈与を承諾したことになるのです。ただし法律にはその先も書かれていました。なぜなら、子が親から生前に財産を譲渡されても、それには厳しい条件があったからです。というのも法律は、子が譲り受けたあとの財産に関する権利のことも定めていたからです。
どういうことかというと、その権利には、①所有権と②処分権の二つがあったからです。この話で言えば、相続された弟息子は財産を所有できるのだが、父が生きている間は処分が出来なかったからです。(つまり、所有権はあるが処分権はない)。当時の財産は土地でした。弟は土地の所有権は獲得したのですが、その土地を処分して換金することは禁じられていたのでした。
ところが、本日の話によると「全部を金に換えて、遠い国に旅立った」と言われていますから、弟はその土地を処分したのでした。なお、法律がそれを禁じた理由は、たとえば外国人とか得体の知れないよそ者に売ってしまったら、それはトラブルのもとになるからでした。当時の人たちの土地に対する考え方は、まかり間違えば土地は村の共同体の生存を脅かしかねないというものでした。そういうことなので法律も、生前相続の土地の処分は禁じていたのですが、例外としてそれを父親が承諾したのであれば仕方がないと考えられていました。
とはいえ一般論として、親が自分の生存中に土地売却を許すのは考えられないことでした。なぜならそれは、父親が自分の手で自分の息を止める行為に等しいと思われていたからです。それなのに、この父親はそれを承諾したのだった。いったいこの父親はいかなる父親だったのだろうか。これはたとえ話を考える上での大事なポイントの一つになります。
ところで、以上を振り返ってみれば、弟息子は人間関係の断絶ということを二重にやらかしています。どちらも彼が生まれ育った環境に関するもので、その一つが父親との関係の断絶でした。そしてもう一つ同郷の人たちとの関係の断絶でした。なぜなら、生前相続でも財産処分権を行使したのは「父親殺し」に他ならず、村の人間を無視して土地を売却したのは許されざる行為だったからです。
ところで、これは次回見ることになる18節ですが、弟息子は村に戻って言うセリフをこう準備しています。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」。この中で抜けているのは、「村の人たちに対しても」なのです。次回の話では村の人間がどう扱われているのかも大事なポイントになるのであります。
つまり、弟息子が故郷に帰って受け入れてもらえるためには、父親からだけでなく、共同体の人たちからもそうしてもらえる必要があったのでした。このことも、次回今の話の続きを読む際には忘れたくない要素になるはずです。
なお、放蕩息子の話の最大のテーマは赦しです。イエスはそのためまず「赦されるはずがない」罪を話しで取り上げています。もちろん、最終的には赦しに導かれてゆくはずなのですが、その赦しがびっくりさせられるような赦しなので、赦されるはずがない罪深さの話が先行する。これもまた、放蕩息子を読む際に心得ておきたい大事な点となるのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 11月17日 聖霊降臨後第26主日
説教題:放蕩息子のたとえ ②
説教者:白髭義牧師
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二日市教会宗教改革主日礼拝説教 2024年11月10日(日)
「放蕩息子のたとえ その1.反逆」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
わたしたちはこれまで、イエスのたとえ話を取り上げてきました。そのたとえ話は一つ一つが奥深いものなのですが、特に印象的なたとえ話は「放蕩息子のたとえ」だと思われます。なぜなら、多くの人がこの話を通して放蕩息子と自分を重ね合わせ、人生についてあれこれ考える経験をしてきたからです。そのとおりで、このたとえ話には、考えることがいっぱい出てきます。そこで、数回に分けて考えることにしたいと思ったのですが、とりあえず三回に分けてみたいと思います。
さて、その第一回は、今のルカ15章の11節から16節までを取り上げます。弟息子が父親からもらった財産をお金に換え都会に出て行き、お金を使い果たして豚飼いになるまでの話です。
それでは詳しく見てゆきます。ある父親に二人の息子がいました。ある時弟のほうが父に財産を譲ってくれるよう申し出ました。(ところが父はまだ生きている)。それなのに「お父さん、私に財産の分け前をください」と言ったのでした。この生前相続は当時も法律で認められていました。ただし、財産の三分の二は長子と定められていたので、弟の取り分は残りの三分の一でした。いずれにしても、父親の承諾が条件でした。ということは、この話の場合の父は生前贈与を承諾したことになるのです。ただし法律にはその先も書かれていました。なぜなら、子が親から生前に財産を譲渡されても、それには厳しい条件があったからです。というのも法律は、子が譲り受けたあとの財産に関する権利のことも定めていたからです。
どういうことかというと、その権利には、①所有権と②処分権の二つがあったからです。この話で言えば、相続された弟息子は財産を所有できるのだが、父が生きている間は処分が出来なかったからです。(つまり、所有権はあるが処分権はない)。当時の財産は土地でした。弟は土地の所有権は獲得したのですが、その土地を処分して換金することは禁じられていたのでした。
ところが、本日の話によると「全部を金に換えて、遠い国に旅立った」と言われていますから、弟はその土地を処分したのでした。なお、法律がそれを禁じた理由は、たとえば外国人とか得体の知れないよそ者に売ってしまったら、それはトラブルのもとになるからでした。当時の人たちの土地に対する考え方は、まかり間違えば土地は村の共同体の生存を脅かしかねないというものでした。そういうことなので法律も、生前相続の土地の処分は禁じていたのですが、例外としてそれを父親が承諾したのであれば仕方がないと考えられていました。
とはいえ一般論として、親が自分の生存中に土地売却を許すのは考えられないことでした。なぜならそれは、父親が自分の手で自分の息を止める行為に等しいと思われていたからです。それなのに、この父親はそれを承諾したのだった。いったいこの父親はいかなる父親だったのだろうか。これはたとえ話を考える上での大事なポイントの一つになります。
ところで、以上を振り返ってみれば、弟息子は人間関係の断絶ということを二重にやらかしています。どちらも彼が生まれ育った環境に関するもので、その一つが父親との関係の断絶でした。そしてもう一つ同郷の人たちとの関係の断絶でした。なぜなら、生前相続でも財産処分権を行使したのは「父親殺し」に他ならず、村の人間を無視して土地を売却したのは許されざる行為だったからです。
ところで、これは次回見ることになる18節ですが、弟息子は村に戻って言うセリフをこう準備しています。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」。この中で抜けているのは、「村の人たちに対しても」なのです。次回の話では村の人間がどう扱われているのかも大事なポイントになるのであります。
つまり、弟息子が故郷に帰って受け入れてもらえるためには、父親からだけでなく、共同体の人たちからもそうしてもらえる必要があったのでした。このことも、次回今の話の続きを読む際には忘れたくない要素になるはずです。
なお、放蕩息子の話の最大のテーマは赦しです。イエスはそのためまず「赦されるはずがない」罪を話しで取り上げています。もちろん、最終的には赦しに導かれてゆくはずなのですが、その赦しがびっくりさせられるような赦しなので、赦されるはずがない罪深さの話が先行する。これもまた、放蕩息子を読む際に心得ておきたい大事な点となるのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 11月17日 聖霊降臨後第26主日
説教題:放蕩息子のたとえ ②
説教者:白髭義牧師
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