二日市教会主日礼拝説教 2023年1月1日(日)
降誕節第2主日
マタイによる福音書2章13~23節
新年をハイドンと共に
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
改めて、おめでとうございます。さて、昨年のテレビは、戦争の報道が相次ぎました。そのため私たちは、東ヨーロッパのキリスト教、正教のことが前より分かるようになってきたと思います。ところで、似たようなことですが、イスラム教国エジプトの中のキリスト教つまりコプト教会のことはあまり分かっているとは言えません。イスラム教徒による襲撃のニュースは時々見るにもかかわらずです。しかし本日のマタイ福音書は、私たちとコプト教会の間の橋渡しをそっとしてくれているのであります。
どういうことかというと、イエスの家族はヘロデの迫害から逃れエジプトに避難したからです。もちろん、赤ん坊のイエスがエジプト人に教えをしたという話ではありませんでした。しかし、あとの時代キリスト教をエジプト人が受け入れた際、その昔聖母子がエジプトにも来ていたことを知って、聖母マリアに対して親密な思いを抱くようになり、それが二千年後の今のコプト教会の熱烈な聖母崇拝につながっているからです。
さて、ここで話を変えますが、イエスの家族がエジプトにいた間にヘロデ王は死にました。そこで、聖家族は帰国したのですが、陰謀が渦巻く都市圏を避け、あまり人気がなかったガリラヤのナザレに移住したのでした。
なお、ナザレは町というより村で、人口もわずか、家から出るとすぐ田園地帯でした。イエスはのちに人々に「野の花、空の鳥を見よ」と教えましたが、彼が都会育ちだったら、そんな説教は出来なかったことでしょう。
ところで、そのイエスから1700年もあとですが、イエスとそっくりな環境で育った男の子がいました。その名前はフランツ・ヨーゼフ・ハイドンといいます。のちに大作曲家の彼も、幼少の頃の環境は野の花、空の鳥でした。今のオーストリアの国の片田舎で生まれ育ったからです。今でもそうなのですが、見渡すばかりブドウ畑で、空で鳥がさえずり、遠くから家畜の鳴き声が響いてきます。ちびっこハイドンは鳥や家畜の物まねが上手なことで評判でしたが、すでに音楽の素質もあらわしていたのでした。
さて、ハイドンは6歳の時、大人たちの考えで音楽の都ウィーンに行かされました。動物の物まねだけでは音楽家にはなれないからで、しかもウィーンでは、一流の少年合唱団に入団させられました。町にはあと一つ合唱団がありましたが、それは今のウィーン少年合唱団です。ただ、少年合唱団と言っても、大教会専属の聖歌隊のことで、宗教曲ばかり歌わされました。
さて、ハイドン少年は10年間この聖歌隊ですっかりお世話になりました。普通の子どもが受ける初等教育だけでなく音楽教育も受け、楽器の扱い・演奏法もみっちり仕込まれ、そうこうしているうちに17歳になると変声期を迎えたので、誰もそうだったようにハイドンも合唱団をお払い箱になりました。
つまり、これからは自分のご飯は自分で稼いで食べなさいということになり、最初は途方にくれましたが、さすが音楽の都、音楽のバイトの口はありました。それに、もう徹底的に音楽の教育を受けていたので、あとはチャンスの到来を待つのみでした。
なお、当時は音楽家として生きてゆくためには、誰かの使用人となって働かなければなりませんでした。自分を雇ってお金を払ってくれる人を見つけなければなりませんでした。具体的な話ですが、そのように雇ってくれるのはお金持ちであり音楽が大好きな、貴族の身分の人でした。しかも、貴族もピンからキリで、すぐ解雇されるケースもありました。
さて、その点ハイドンは運が良く、一人の貴族の館で30年も働くことができました。27歳の時からです。貴族は侯爵でしたが、侯爵にはお抱えの楽団があり、その楽団員のための従業員規則がありました。ハイドンはその楽団の副楽長として雇われましたが、それはいわば中間管理職で、ご主人の言うことも聞きながら、楽団員の世話もしなければなりませんでした。しかもご主人は大の音楽好きで、ひっきりなしに演奏の命令がきて、その都度新曲どんどん書かねばならず、実に多忙を極める30年でした。
しかし、30年目に主人の侯爵は死にました。その跡を継いだ人は音楽に興味がなく、楽団を解散させ、ハイドンもクビになりました。しかし、もうその時点でのハイドンにはかなりの貯えもあり、老後の不安はありませんでした。
ところが、58歳になっていたハイドンは次の仕事を探しました。なお、当時の58歳はもう高齢者でした。すでに死んだ人もたくさんいたくらいで、新しい人生なんて誰も考えたりしませんでした。ところが、ハイドンは新しい仕事を求めてイギリスに渡ったのでした。
当時、イギリスにはウィーンにないものがありました。それは、コンサートホール。音楽が好きな人たちが身銭を切って入場料を払い音楽を聴いてくれる建物・施設はウィーンにはなくロンドンにはあったからです。貴族や金持ちに囲われての音楽活動ではないことに新しさがありました。そのロンドンでハイドンは次々と新しい交響曲を書き、それがことごとくヒットし、イギリス滞在期間に彼が稼いだのは億を越えたのでした。
しかし、最大の収穫は、ロンドンで聴いたヘンデルの『メサイア』でした。なぜなら彼はその音楽から深いインスピレーションを与えられ、帰国後『天地創造』というオラトリオを書いたからです。そしてそれは彼の最高傑作となりました。日本のあるドイツ文学者が天地創造のことをこう書きました。「イギリスで聴いたヘンデルに触発されたものといわれるが、管弦楽の部分はハイドンが断然いい。とくに鳥の鳴き声や雷鳴を始めとする自然描写がみごとだ。幼少年時代のままのひびきである」。ハイドンは、天地創造の神を描写するのにふさわしい音楽人生を、幼少の時からすでに歩み始めていたのでした。
降誕節第2主日
マタイによる福音書2章13~23節
新年をハイドンと共に
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
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改めて、おめでとうございます。さて、昨年のテレビは、戦争の報道が相次ぎました。そのため私たちは、東ヨーロッパのキリスト教、正教のことが前より分かるようになってきたと思います。ところで、似たようなことですが、イスラム教国エジプトの中のキリスト教つまりコプト教会のことはあまり分かっているとは言えません。イスラム教徒による襲撃のニュースは時々見るにもかかわらずです。しかし本日のマタイ福音書は、私たちとコプト教会の間の橋渡しをそっとしてくれているのであります。
どういうことかというと、イエスの家族はヘロデの迫害から逃れエジプトに避難したからです。もちろん、赤ん坊のイエスがエジプト人に教えをしたという話ではありませんでした。しかし、あとの時代キリスト教をエジプト人が受け入れた際、その昔聖母子がエジプトにも来ていたことを知って、聖母マリアに対して親密な思いを抱くようになり、それが二千年後の今のコプト教会の熱烈な聖母崇拝につながっているからです。
さて、ここで話を変えますが、イエスの家族がエジプトにいた間にヘロデ王は死にました。そこで、聖家族は帰国したのですが、陰謀が渦巻く都市圏を避け、あまり人気がなかったガリラヤのナザレに移住したのでした。
なお、ナザレは町というより村で、人口もわずか、家から出るとすぐ田園地帯でした。イエスはのちに人々に「野の花、空の鳥を見よ」と教えましたが、彼が都会育ちだったら、そんな説教は出来なかったことでしょう。
ところで、そのイエスから1700年もあとですが、イエスとそっくりな環境で育った男の子がいました。その名前はフランツ・ヨーゼフ・ハイドンといいます。のちに大作曲家の彼も、幼少の頃の環境は野の花、空の鳥でした。今のオーストリアの国の片田舎で生まれ育ったからです。今でもそうなのですが、見渡すばかりブドウ畑で、空で鳥がさえずり、遠くから家畜の鳴き声が響いてきます。ちびっこハイドンは鳥や家畜の物まねが上手なことで評判でしたが、すでに音楽の素質もあらわしていたのでした。
さて、ハイドンは6歳の時、大人たちの考えで音楽の都ウィーンに行かされました。動物の物まねだけでは音楽家にはなれないからで、しかもウィーンでは、一流の少年合唱団に入団させられました。町にはあと一つ合唱団がありましたが、それは今のウィーン少年合唱団です。ただ、少年合唱団と言っても、大教会専属の聖歌隊のことで、宗教曲ばかり歌わされました。
さて、ハイドン少年は10年間この聖歌隊ですっかりお世話になりました。普通の子どもが受ける初等教育だけでなく音楽教育も受け、楽器の扱い・演奏法もみっちり仕込まれ、そうこうしているうちに17歳になると変声期を迎えたので、誰もそうだったようにハイドンも合唱団をお払い箱になりました。
つまり、これからは自分のご飯は自分で稼いで食べなさいということになり、最初は途方にくれましたが、さすが音楽の都、音楽のバイトの口はありました。それに、もう徹底的に音楽の教育を受けていたので、あとはチャンスの到来を待つのみでした。
なお、当時は音楽家として生きてゆくためには、誰かの使用人となって働かなければなりませんでした。自分を雇ってお金を払ってくれる人を見つけなければなりませんでした。具体的な話ですが、そのように雇ってくれるのはお金持ちであり音楽が大好きな、貴族の身分の人でした。しかも、貴族もピンからキリで、すぐ解雇されるケースもありました。
さて、その点ハイドンは運が良く、一人の貴族の館で30年も働くことができました。27歳の時からです。貴族は侯爵でしたが、侯爵にはお抱えの楽団があり、その楽団員のための従業員規則がありました。ハイドンはその楽団の副楽長として雇われましたが、それはいわば中間管理職で、ご主人の言うことも聞きながら、楽団員の世話もしなければなりませんでした。しかもご主人は大の音楽好きで、ひっきりなしに演奏の命令がきて、その都度新曲どんどん書かねばならず、実に多忙を極める30年でした。
しかし、30年目に主人の侯爵は死にました。その跡を継いだ人は音楽に興味がなく、楽団を解散させ、ハイドンもクビになりました。しかし、もうその時点でのハイドンにはかなりの貯えもあり、老後の不安はありませんでした。
ところが、58歳になっていたハイドンは次の仕事を探しました。なお、当時の58歳はもう高齢者でした。すでに死んだ人もたくさんいたくらいで、新しい人生なんて誰も考えたりしませんでした。ところが、ハイドンは新しい仕事を求めてイギリスに渡ったのでした。
当時、イギリスにはウィーンにないものがありました。それは、コンサートホール。音楽が好きな人たちが身銭を切って入場料を払い音楽を聴いてくれる建物・施設はウィーンにはなくロンドンにはあったからです。貴族や金持ちに囲われての音楽活動ではないことに新しさがありました。そのロンドンでハイドンは次々と新しい交響曲を書き、それがことごとくヒットし、イギリス滞在期間に彼が稼いだのは億を越えたのでした。
しかし、最大の収穫は、ロンドンで聴いたヘンデルの『メサイア』でした。なぜなら彼はその音楽から深いインスピレーションを与えられ、帰国後『天地創造』というオラトリオを書いたからです。そしてそれは彼の最高傑作となりました。日本のあるドイツ文学者が天地創造のことをこう書きました。「イギリスで聴いたヘンデルに触発されたものといわれるが、管弦楽の部分はハイドンが断然いい。とくに鳥の鳴き声や雷鳴を始めとする自然描写がみごとだ。幼少年時代のままのひびきである」。ハイドンは、天地創造の神を描写するのにふさわしい音楽人生を、幼少の時からすでに歩み始めていたのでした。
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