創世記2:18~24 ヘブライ1:1~4,2:5~12 ルカ16:22~31
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二日市教会主日礼拝説教 2024年10月6日(日)
金持ちとラザロ―その2:死後☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
イエスのたとえ話シリーズで、ルカ16章の金持ちとラザロを2回にわたって取り上げることにし、前回は、登場人物の金持ちと貧乏人のラザロの生前のことを取り上げました。今回はその続きで、死後のことを取り上げますが、それは16章22節以下です。22節に、「この貧しい人は死んだ」、「金持ちも死んで葬られた」と書かれているからです。
ところで、彼らの死後を考えるには、生前のことを知る必要もありそうです。特にこの二人、生前と死後が180度違っているからです。ラザロの生前はどう見ても悲惨でしたが、死ぬとすぐ天使に伴われてアブラハムのもとに連れて行かれました。一方金持ちは毎日きれいなものを着て、おいしいものを食べて贅沢三昧の暮らしでしたが、死後は陰府つまり地獄の炎でもだえ苦しむ羽目になったからです。
しかし聖書には、金持ちだったら誰でも地獄に行くという考えはありません。そうではなく生前の行いで決まるのです。問題点がいっぱいある生き方をしたから地獄行きになるのです。けれども、金持ちの生前が出ている22節を読んでも、彼が何か悪いことをしていたとは思えません。いい服、ごちそうの日々は世間の妬みの対象にはなっても、だから地獄行きとはならないからです。従って、金持ちの罪はむしろ彼の死後の言動から読み取る必要があるのです。
そこでまず見ておきたいのは、24節に書かれている金持ちのアブラハムに向かっての発言です。なぜなら、彼はアブラハムにラザロの地獄への派遣を要請したからです。「私は炎の中でもだえ苦しんでいる。冷たい水を飲ませてくれるよう言ってください。」しかしこの発言は、激怒を招く性質のものでした。なぜなら、神の代理人である人物に、あれをしろ、これをしろと指図することが許されない不遜な行為だったからです。
しかも、アブラハムに大事にされているラザロを召使いよばわりしたのですから、金持ちが生前からいかに高慢だったかが知れるというものです。しかしながら、温厚で忍耐強いアブラハムは激怒するのでなく、むしろ丁寧に金持ちに対応しました。すなわち、あなたのおっしゃりたいことは理解しましたが、でも残念なことにラザロはそちらには行けないのです。なぜなら、私たちとあなた方の間には、越すに越されぬ深い淵があるからです。
つまり、ラザロがそこに行くのは物理的に不可能というわけですが、普通に考えても、越すに越されぬ深い淵のことは、今さら言われなくても誰でも知っていることです。まあ、金持ちだけが暑さで頭がおかしくなっていたので、ラザロが水を自分の所にもってくるなんて簡単なことだと思っていたのでした。
しかし、口にしなくても誰でも知っていることを、アブラハムがあえてここで口にしたのにはわけがある、と考えてよさそうです。そのことはあとで考えますが、この発言のあと金持ちは、またまたラザロの派遣の要請をしています。今度は、自分の家の用事を口実に行かせようとしたのでした。まずしく、全身ができものだらけだったラザロを最後の最後までこき使おうとしたのでした。
さて、アブラハムと金持ちが会話をしていた時、ラザロはどうしていたかというと、沈黙を守っていました。ところが、そう見えてラザロは、とんでもない行動を取ろうとしていた。なぜなら、金持ちのところに行こうとしていたからでした。冷たい水を飲ませるために。それに気づいたアブラハムが「行こうとしても超えられない淵がある」のだよと、ラザロに聞こえるようにくぎを刺したのでした。
ということは、ラザロは金持ちの地獄に行くことは出来たのでした。要するに、天国から地獄への道はいつも開かれている。希望する人がいればの話ですが、今まで希望する人は一人もいなかった。ところが、一人あらわれた。それがラザロだったのでした。
以上は、地獄という「下方向」の方に降りて行こうとしたラザロと、生前から貧乏人や(アブラハムさえも)押しのけて「上方向」に心が向いていた金持ちの、実に対照的で、強烈に印象的な話でした。なお、イエスのたとえ話は、実生活の参考になったり、信仰心の鼓舞してくれたり、犯した罪の悔い改めに導いたりすることは全然目的になっていません。だから、何か役に立つ教訓が引っ張り出せなかったとがっかりする必要もないのです。とにかくじっくり味わうことさえできれば、イエスの目的はもう達成されているからです。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次回 10月13日 聖霊降臨後第21主日
説教題:失われた銀貨
説教者:白髭義 牧師
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二日市教会主日礼拝説教 2024年10月6日(日)
金持ちとラザロ―その2:死後☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
イエスのたとえ話シリーズで、ルカ16章の金持ちとラザロを2回にわたって取り上げることにし、前回は、登場人物の金持ちと貧乏人のラザロの生前のことを取り上げました。今回はその続きで、死後のことを取り上げますが、それは16章22節以下です。22節に、「この貧しい人は死んだ」、「金持ちも死んで葬られた」と書かれているからです。
ところで、彼らの死後を考えるには、生前のことを知る必要もありそうです。特にこの二人、生前と死後が180度違っているからです。ラザロの生前はどう見ても悲惨でしたが、死ぬとすぐ天使に伴われてアブラハムのもとに連れて行かれました。一方金持ちは毎日きれいなものを着て、おいしいものを食べて贅沢三昧の暮らしでしたが、死後は陰府つまり地獄の炎でもだえ苦しむ羽目になったからです。
しかし聖書には、金持ちだったら誰でも地獄に行くという考えはありません。そうではなく生前の行いで決まるのです。問題点がいっぱいある生き方をしたから地獄行きになるのです。けれども、金持ちの生前が出ている22節を読んでも、彼が何か悪いことをしていたとは思えません。いい服、ごちそうの日々は世間の妬みの対象にはなっても、だから地獄行きとはならないからです。従って、金持ちの罪はむしろ彼の死後の言動から読み取る必要があるのです。
そこでまず見ておきたいのは、24節に書かれている金持ちのアブラハムに向かっての発言です。なぜなら、彼はアブラハムにラザロの地獄への派遣を要請したからです。「私は炎の中でもだえ苦しんでいる。冷たい水を飲ませてくれるよう言ってください。」しかしこの発言は、激怒を招く性質のものでした。なぜなら、神の代理人である人物に、あれをしろ、これをしろと指図することが許されない不遜な行為だったからです。
しかも、アブラハムに大事にされているラザロを召使いよばわりしたのですから、金持ちが生前からいかに高慢だったかが知れるというものです。しかしながら、温厚で忍耐強いアブラハムは激怒するのでなく、むしろ丁寧に金持ちに対応しました。すなわち、あなたのおっしゃりたいことは理解しましたが、でも残念なことにラザロはそちらには行けないのです。なぜなら、私たちとあなた方の間には、越すに越されぬ深い淵があるからです。
つまり、ラザロがそこに行くのは物理的に不可能というわけですが、普通に考えても、越すに越されぬ深い淵のことは、今さら言われなくても誰でも知っていることです。まあ、金持ちだけが暑さで頭がおかしくなっていたので、ラザロが水を自分の所にもってくるなんて簡単なことだと思っていたのでした。
しかし、口にしなくても誰でも知っていることを、アブラハムがあえてここで口にしたのにはわけがある、と考えてよさそうです。そのことはあとで考えますが、この発言のあと金持ちは、またまたラザロの派遣の要請をしています。今度は、自分の家の用事を口実に行かせようとしたのでした。まずしく、全身ができものだらけだったラザロを最後の最後までこき使おうとしたのでした。
さて、アブラハムと金持ちが会話をしていた時、ラザロはどうしていたかというと、沈黙を守っていました。ところが、そう見えてラザロは、とんでもない行動を取ろうとしていた。なぜなら、金持ちのところに行こうとしていたからでした。冷たい水を飲ませるために。それに気づいたアブラハムが「行こうとしても超えられない淵がある」のだよと、ラザロに聞こえるようにくぎを刺したのでした。
ということは、ラザロは金持ちの地獄に行くことは出来たのでした。要するに、天国から地獄への道はいつも開かれている。希望する人がいればの話ですが、今まで希望する人は一人もいなかった。ところが、一人あらわれた。それがラザロだったのでした。
以上は、地獄という「下方向」の方に降りて行こうとしたラザロと、生前から貧乏人や(アブラハムさえも)押しのけて「上方向」に心が向いていた金持ちの、実に対照的で、強烈に印象的な話でした。なお、イエスのたとえ話は、実生活の参考になったり、信仰心の鼓舞してくれたり、犯した罪の悔い改めに導いたりすることは全然目的になっていません。だから、何か役に立つ教訓が引っ張り出せなかったとがっかりする必要もないのです。とにかくじっくり味わうことさえできれば、イエスの目的はもう達成されているからです。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次回 10月13日 聖霊降臨後第21主日
説教題:失われた銀貨
説教者:白髭義 牧師
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