イザヤ25:6~9、 ヨハネ黙示録21:1~6、 マルコ5:38~43
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二日市教会宗教改革主日礼拝説教 2024年11月3日(日)
「亡き人を覚える」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
本日は、全聖徒主日という、キリスト教関係以外の人は聞き慣れない名前です。ルーテルはそうなのですが、永眠者記念日と呼ぶ教会もあります。それはともかく、キリスト教がこの日を長い歴史の中でどうとらえていたかを見ておきます。
さて、ポイントは聖徒という言葉です。この聖徒はイコール聖人なので、全聖人主日と呼んでもかまいません。大昔、最初のキリスト教にとっての聖人は、火あぶりされたり、猛獣の穴に投げ込まれたりした殉教者を指していました。その聖人たちを一年に一回まとめて記念する日として全聖徒主日というのが定められました。
のちに殉教の時代は終わりましたが、尊敬に値する立派な信仰者たちが聖人と呼ばれ記念されました。そうしているうちに今度は、洗礼を受けている者は誰もが聖人であるという考えが広まりました。洗礼を受けていれば既に救われているという理屈からでした。そういう時代はもう社会全体がキリスト教になっていましたから、亡くなった人は誰でも全聖徒礼拝で記念される対象になったのでした。とは言っても、その中には泥棒もいるし、悪徳政治家もいるのですが、それは別問題と考えられました。
以上はヨーロッパでの話です。ところが時代が立つとヨーロッパやアメリカの人間が日本にキリスト教を伝えるようになりました。そして、日本人も洗礼を受けるようになるのですが、ややこしいことが起きました。なぜなら、自分が洗礼を受けても、ほかの家族や親族は誰も洗礼を受けないということになりがちだったからです。そうすると、洗礼を受けた人と受けてない人が同じ墓に入った場合どう折り合いをつけたらよいのか、色々整理がつかないことになったからです。
しかし、この問題はキリスト教国の欧米にはありませんでした。誰もが生まれてすぐ洗礼を受けクリスチャンになったからです。ところが日本人は、親も先祖もしっかり寺や神社の世話になっていました。ここでキリスト教は初めて、考えを改めるべき事態に直面したのでした。だから、それまでの欧米的キリスト教唯我独尊の考えが正されないと前進できないことも分かってきました。今日本のキリスト教はそのジレンマにいます。欧米的価値観との戦いはしばらく大変だと思います。
ところで話は変わりますが、私は12年前までは広島県のある町で牧師の仕事をしていました。ある日教会に一人の女性がたずねてきました。ひろみさんという人でしたが、彼女はそれまでの自分の身の上のことを話してくれました。結婚して、二人の年子の男の子を授かったのだが、運転していたクルマの中で、幼い二人の命を自分の手で奪ってしまった。逮捕され裁判になったが、情状酌量となり、執行猶予付きで刑に役したあと刑務所を出て、今は保護司のもとに通いながら生活を始めている。その最中に私の所に訪ねてきたのでした。
その話をしている時、彼女は二人の子がいっしょの写真を見せてくれました。そして彼女は、キリスト教の勉強がしたいと言いました。それからの彼女は、毎週自転車で通ってくるようになりました。
ところがある時彼女は入院になりました。そこで病院を訪ねると、そこは精神科の病院でした。退院後はまた通ってくるようになりました。なお彼女の家は両親とも創価学会ということでした。しかし、彼女が教会に通うことに反対はしなかったようでした。むしろ、家で畑をしていた父親は、時おり取れたての野菜を娘に持たせて、彼女はそれを自転車のバスケットに入れてやってきました。
そして、そのうち彼女は礼拝にも出席するようになりました。ただしそれは、いちばん片隅に座り、そっときてそっと帰る感じでした。ところが、ある時彼女は、全聖徒主日のことを知り、話を持ち掛けてきました。それは、全聖徒主日の礼拝の時にズラリと並ぶ故人写真の中に、自分の子どもたちの写真をこっそりもぐりこませることは許されないでしょうかというものでした。
そこで私の判断で、写真を聖壇の布の下に入れることにしました。そうすれば誰にも分かりません。彼女は礼拝が終わるとそれをすぐ引き取って帰りました。それは彼女なりの真剣な行動でしたが、それにしては楽しそうにやっていました。
そういうこともふくめて、彼女は約2年通ってきましたが、その内私は福岡に転勤となりました。けれども、私には一度も暗い表情など見せたことのない彼女でしたから、あまり心配もせず別れました。
けれども、福岡に移ってしばらくした時、広島の人から、彼女が死んだという情報が伝えられました。死因は自殺。自宅でした。家の人が見つけたとのこと。聞いた時私は、彼女は息子たちのあとを追ったのだと思いました。
彼女のことは、多々考えることもありました。けれども、私の記憶にいちばん残されたのは、クリスチャンでも教会員でもない彼女が、子どもたちの写真をたずさえて、十字架の足もとの聖壇に接近した瞬間でした。その時の彼女のうれしそうな表情は、神の祝福を受けている証拠に違いありませんでした。神の愛は、区別も差別もひょいと乗り越え、自由に、自在に働きかけるからです。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 11月10日 聖霊降臨後第25主日
説教題:「放蕩息子のたとえ その①」
説教者:白髭義 牧師
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二日市教会宗教改革主日礼拝説教 2024年11月3日(日)
「亡き人を覚える」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
本日は、全聖徒主日という、キリスト教関係以外の人は聞き慣れない名前です。ルーテルはそうなのですが、永眠者記念日と呼ぶ教会もあります。それはともかく、キリスト教がこの日を長い歴史の中でどうとらえていたかを見ておきます。
さて、ポイントは聖徒という言葉です。この聖徒はイコール聖人なので、全聖人主日と呼んでもかまいません。大昔、最初のキリスト教にとっての聖人は、火あぶりされたり、猛獣の穴に投げ込まれたりした殉教者を指していました。その聖人たちを一年に一回まとめて記念する日として全聖徒主日というのが定められました。
のちに殉教の時代は終わりましたが、尊敬に値する立派な信仰者たちが聖人と呼ばれ記念されました。そうしているうちに今度は、洗礼を受けている者は誰もが聖人であるという考えが広まりました。洗礼を受けていれば既に救われているという理屈からでした。そういう時代はもう社会全体がキリスト教になっていましたから、亡くなった人は誰でも全聖徒礼拝で記念される対象になったのでした。とは言っても、その中には泥棒もいるし、悪徳政治家もいるのですが、それは別問題と考えられました。
以上はヨーロッパでの話です。ところが時代が立つとヨーロッパやアメリカの人間が日本にキリスト教を伝えるようになりました。そして、日本人も洗礼を受けるようになるのですが、ややこしいことが起きました。なぜなら、自分が洗礼を受けても、ほかの家族や親族は誰も洗礼を受けないということになりがちだったからです。そうすると、洗礼を受けた人と受けてない人が同じ墓に入った場合どう折り合いをつけたらよいのか、色々整理がつかないことになったからです。
しかし、この問題はキリスト教国の欧米にはありませんでした。誰もが生まれてすぐ洗礼を受けクリスチャンになったからです。ところが日本人は、親も先祖もしっかり寺や神社の世話になっていました。ここでキリスト教は初めて、考えを改めるべき事態に直面したのでした。だから、それまでの欧米的キリスト教唯我独尊の考えが正されないと前進できないことも分かってきました。今日本のキリスト教はそのジレンマにいます。欧米的価値観との戦いはしばらく大変だと思います。
ところで話は変わりますが、私は12年前までは広島県のある町で牧師の仕事をしていました。ある日教会に一人の女性がたずねてきました。ひろみさんという人でしたが、彼女はそれまでの自分の身の上のことを話してくれました。結婚して、二人の年子の男の子を授かったのだが、運転していたクルマの中で、幼い二人の命を自分の手で奪ってしまった。逮捕され裁判になったが、情状酌量となり、執行猶予付きで刑に役したあと刑務所を出て、今は保護司のもとに通いながら生活を始めている。その最中に私の所に訪ねてきたのでした。
その話をしている時、彼女は二人の子がいっしょの写真を見せてくれました。そして彼女は、キリスト教の勉強がしたいと言いました。それからの彼女は、毎週自転車で通ってくるようになりました。
ところがある時彼女は入院になりました。そこで病院を訪ねると、そこは精神科の病院でした。退院後はまた通ってくるようになりました。なお彼女の家は両親とも創価学会ということでした。しかし、彼女が教会に通うことに反対はしなかったようでした。むしろ、家で畑をしていた父親は、時おり取れたての野菜を娘に持たせて、彼女はそれを自転車のバスケットに入れてやってきました。
そして、そのうち彼女は礼拝にも出席するようになりました。ただしそれは、いちばん片隅に座り、そっときてそっと帰る感じでした。ところが、ある時彼女は、全聖徒主日のことを知り、話を持ち掛けてきました。それは、全聖徒主日の礼拝の時にズラリと並ぶ故人写真の中に、自分の子どもたちの写真をこっそりもぐりこませることは許されないでしょうかというものでした。
そこで私の判断で、写真を聖壇の布の下に入れることにしました。そうすれば誰にも分かりません。彼女は礼拝が終わるとそれをすぐ引き取って帰りました。それは彼女なりの真剣な行動でしたが、それにしては楽しそうにやっていました。
そういうこともふくめて、彼女は約2年通ってきましたが、その内私は福岡に転勤となりました。けれども、私には一度も暗い表情など見せたことのない彼女でしたから、あまり心配もせず別れました。
けれども、福岡に移ってしばらくした時、広島の人から、彼女が死んだという情報が伝えられました。死因は自殺。自宅でした。家の人が見つけたとのこと。聞いた時私は、彼女は息子たちのあとを追ったのだと思いました。
彼女のことは、多々考えることもありました。けれども、私の記憶にいちばん残されたのは、クリスチャンでも教会員でもない彼女が、子どもたちの写真をたずさえて、十字架の足もとの聖壇に接近した瞬間でした。その時の彼女のうれしそうな表情は、神の祝福を受けている証拠に違いありませんでした。神の愛は、区別も差別もひょいと乗り越え、自由に、自在に働きかけるからです。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 11月10日 聖霊降臨後第25主日
説教題:「放蕩息子のたとえ その①」
説教者:白髭義 牧師
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