NEST OF BLUESMANIA

ミュージシャンMACが書く音楽ブログ「NEST OF BLUESMANIA」です。

音曲日誌「一日一曲」#137 ラッキー・ピータースン「Nothig But Smoke」(I'm Ready/Verve)

2023-08-16 05:00:00 | Weblog
2010年9月5日(日)

#137 ラッキー・ピータースン「Nothig But Smoke」(I'm Ready/Verve)





ラッキー・ピータースン、92年のアルバムより。ボブ・グリーンリーとラッキーの共作。

筆者が思うにラッキー・ピータースンくらい、「ハク」のいっぱいついた中堅ブルースマンは他にいまい。

64年ニューヨーク州バッファロー生まれ。5才にしてウィリー・ディクスンの肝煎りでオルガニストとしてデビュー。早熟の神童として注目され、17才でリトル・ミルトンのバックバンドを率いるようになり、その後ボビー・ブランドのバンドを経て、89年ソロとなる。アリゲーターを経て92年、名門レーベル・ヴァーヴに移籍するといった、まことに華麗なる経歴の持ち主なのだ。父親がブルース・クラブを経営していた関係で、幼い頃よりブルースな環境にどっぷりつかって育ってきたことも大きい。まさにブルース界のサラブレッド。

ソロになってからは、本来のパート、オルガンよりもギターのほうに力点をおくようになり、現在ではどちらかといえば「ギタリスト」としてのイメージが強くなっている。

派手にチョーキングし、大きくタメるタイプのギター・プレイは、アルバート・キングやアルバート・コリンズの影響が強いとよくいわれる。

白人でいえば、スティーヴィー・レイ・ヴォーンの線か。SRV同様、非常に万人受けする要素をもったギターだと思う。王道ブルースギターといってもいい。

きょうの一曲は、ヴァーヴ移籍第一弾のアルバムからのスローブルース。ラッキーの歌、ギターを全面的にフィーチャーしたナンバー。

本来副業パートだったギターを、オルガンと同じくらい達者に弾きまくるラッキー。ホントに器用なひとだと思う。

歌の方もなかなかいい。派手やかさはないが、のどの渋さで勝負するタイプ。

本人も「プレイヤー」というよりは「ブルースマン」としての意識が強く、インタビューなどでもそういう趣旨の発言が多い。非常に歌に重きをおいていることがよくわかる。

ソロ歴も20年を突破した。なかなか来日する機会はないが、御年46才。これからがブルースマンとしていよいよ脂の乗ってくる世代だけに、もっとガンガン、自己の存在をアピールしてほしいもんだ。

ブルースの担い手は白人、アジア人とどんどん広がっているものの、やはり本来の担い手である黒人にこそ頑張ってほしい。

黒人ならではのボーカル表現、ギタープレイを聴かせるラッキー。まちがいなく、20年後には大御所になっているだろう器だ。

弱冠30手前にしてこの貫禄。若きブルースの王者、ラッキー・ピータースンの勇姿をとくと見てほしい。

母屋はこちらです。

音曲日誌「一日一曲」#136 タンパ・レッド「So far, So Good」(Great Piano/Guitar Duo 1941-1946/EPM)

2023-08-15 05:00:00 | Weblog
2010年8月29日(日)

#136 タンパ・レッド「So far, So Good」(Great Piano/Guitar Duo 1941-1946/EPM)





1930年代~40年代に活躍したシンガー/スライド・ギタリスト、タンパ・レッドとビッグ・メイシオ(p)の共演盤より。タンパ・レッドの作品。

タンパ・レッドは本名ハドスン・ウィテイカー。1904年、ジョージア州スミスヴィルに生まれる。

幼少期をフロリダ州タンパにて過ごし、髪が赤毛だったことからこのニックネームになったという。

彼が24才となった1928年にシンガー/ピアニスト、ジョージア・トムとのコンビで「It's Tight Like That」を大ヒットさせ、その名が広く知られるようになる。

レガシー、ヴィクター、ブルーバードなどのレーベルで、精力的にレコーディング。戦前だけでも200曲以上を録ったそうだ。

きょうの一曲「So far, So Good」は、41年以来シカゴで知り合い、生涯の盟友となるビッグ・メイシオとのコンビでの録音。

彼らの代表的ヒット「Worried Life Blues」とはだいぶん趣きの違った、明るい雰囲気のブルースだ。

やはりこれは、歌を担当したタンパ・レッドの、相方の重厚な歌声とは対照的な、非常に軽い歌い口によるところ大だろうな。

もし同じ曲をビッグ・メイシオが歌っていたら、かなりイメージが違っていたはずだ。

そのあたりがいかにもブルースなのだと思う。歌い手の個性がモロに反映され、同じメロディ、節回しでも陽性のブルースになったり、陰性のブルースになったりする。

いわゆる技巧を感じさせない素朴な歌声なのだが、よーく聴き込めば決してヘタではない。非常に個性的なタイプのシンガーだと思う、タンパ・レッドは。

さりげなく挟まれるスライド・ギターのソロ、そしてカズーのユーモラスな演奏もいい感じだ。

「ギターの魔術師」とよばれたその腕前は、代表曲「Black Angel Blues」あたりを中心に、ロバート・ナイトホーク、アール・フッカーといった後進のスライド・ギタリストたちに多大な影響を与えている。

スライド・ギタリストではないが、B・B・キングもタンパ・レッドのような流麗なギターが弾きたくて、あのスクウィ-ズ奏法を編み出したとか。

そういう意味で、20世紀ポピュラー・ミュージックにおいて、きわめて重要なアーティストだっだといっていい。

歌のほうは、まあご愛嬌なんだが、聴けば聴くほどそのよさがわかってくるような、独特の味わいがある。歴史的な名演、ぜひチェックしてみてほしい。

母屋はこちらです。

音曲日誌「一日一曲」#135 サンタナ「Travelin' Blues」(Early Classics/Blumountain Records)

2023-08-14 05:00:00 | Weblog
2010年8月22日(日)

#135 サンタナ「Travelin' Blues」(Early Classics/Blumountain Records)





サンタナの、CBSデビュー以前のレコーディングより。チャールズ・ブラウンの作品。

サンタナのリーダー、カルロス・サンタナは1947年メキシコ生まれ。62年、10代の半ばにアメリカはサンフランシスコに移住。このことがカルロスの人生を大きく変えた。

当時はホワイト・ブルース・ムーブメントが始まろうとしていたころ、多感なカルロス少年は、その動きをフィルモアをはじめとする西海岸のライブハウス、モンタレー・フェスティバルのようなイベントで感じとり、大いに影響を受けた。たとえば、ポール・バターフィールド。たとえば、マディ・ウォーターズといった具合だ。彼らに憧れ、カルロスもブルース・ギターを弾くようになる。

66年、カルロスは自身のバンドを結成。サンタナの前身であるサンタナ・ブルース・バンドである。

そのころの彼らのレパートリーは、B・B・キング、レイ・チャールズといった黒人ブルースマンのナンバーのカバーが中心だった。

そして、ティンバレス、コンガといったラテン・パーカッションはまったく使っていなかった。あくまでも「ブルース」バンドだったからである。

きょうの一曲はその頃録音されたもの。西海岸系ブルース・ピアニスト、チャールズ・ブラウンのおなじみのナンバーである。

ここではピアノではなくオルガンを使い、小粋な西海岸ブルースというよりは、やや泥臭いアレンジだ。ジョン・メイオール率いるブルースブレイカーズ風のスタイルともいえる。

実際、ギターのプレイを聴くと、エリック・クラプトンあたりの影響がモロに感じられ、サンタナらしさ、オリジナリティといえるものはまだ確立されていない。

ブラインドフォールド(目隠し)テストをしても、カルロスのプレイと正しく当てられるひとは、まず、いないんじゃないかな。クラプトン? ピーター・グリーン? マイケル・ブルームフィールド? てな感じで。その演奏スタイルも、どこか借り物っぽいといわざるをえないのである。

その後カルロスは、己れのアイデンティティを確認し、それがブルースというよりはラテン・ミュージックであると意識したことから、自分なりの音楽作りを始めるようになる。

オリジナル曲を作り、パーカッショニストを迎えたころ、カルロスは決断した。バンド名からブルース・バンドを削り、「サンタナ」としたのである。

これが、「ラテン・ロック」誕生の瞬間だった。

自らの血が欲する音楽をうちたてたカルロスの、その後の快進撃は、ここに書くまでもないだろう。69年アルバム「サンタナ」でデビュー以来、60代となった現在でも、精力的な活動を続けるカルロス、そしてサンタナ。

彼らがオリジナリティを打ち立てるまでの「模索期」を知ることが出来る、貴重な記録。ぜひ、聴いてみてほしい。

音曲日誌「一日一曲」#134 憂歌団「ファンキー・モンキー・ベイビー」(ゴールデン☆ベスト/フォーライフ)

2023-08-13 05:00:00 | Weblog
2010年8月14日(土)

#134 憂歌団「ファンキー・モンキー・ベイビー」(ゴールデン☆ベスト/フォーライフミュージックエンタテイメント)





憂歌団によるキャロル・ナンバーのカバー。大倉洋一・矢沢永吉の共作。94年発表。

憂歌団は木村充揮(当初は秀勝)、内田勘太郎、花岡献治、島田和夫の4人により70年頃大阪にて結成、75年レコードデビュー。98年の活動停止に至るまで不動のメンバーで活動した、日本ブルース界の草分け的バンドだ。

SHOW BOAT(トリオ)、フォーライフ、ワーナーミュージックと3つのレーベルを渡り歩き、その演奏スタイルも初期のアコギ中心のものから、後期のエレクトリックを取り入れたものまで変化していったが、基本はずっとブルースだった。

憂歌団の魅力は、なんといってもそのライブ演奏にある。ステージに登場するや、しごく当然のように酒を飲み始めながら演奏する、そんなライブなのだ。観客も、もちろん飲む。そうやって演者と観客が和やかに一体化していく。従来のバンドにはまずなかった、リラックスした雰囲気。子供にゃわかんない世界だね。

ギターの内田の、戦前ブルースを基本にした通好みのプレイも人気の理由のひとつだったが、なんといっても、リード・ヴォーカル木村のダミ声が、このバンドの看板だった。一聴して彼のものとわかる、えもいわれぬしょっぱい声で、ファンを魅了し続けていたのである。

時には女性の声かと聴きまごうような、やさしい歌声を聴かせたかと思うと、一転、荒くれ男、酔いどれ男の猛々しさを見せたり、とにかくその歌は、他の追随をゆるさぬ迫力とオリジナリティに溢れていた。

そんな彼らが94年にリリースしたカバー・アルバム「知ってるかい!?」に収められていたのが、きょうの一曲。説明するまでもない、キャロル最大のヒット曲だ。

原曲は典型的なアップテンポのロックンロールだが、憂歌団は彼ら流に少しだけテンポダウン、ピアノサウンドをフィーチャーしたシャッフルにアレンジしてみせた。

これが実にいい感じだ。木村は矢沢永吉とはまたひと味違ったエグみのあるシャウトで、原曲以上にファンキーなノリを出している。

矢沢、清志郎あたりの陰にかくれて、あまり語られることのない木村だが、間違いなく日本を代表する、本物のシンガーだと思う。

歌詞のユーモラスな、いわゆるノベルティ・ソングがレパートリーに多いためか、いささか色もの的な扱いを受けやすい憂歌団だが、その実力は侮り難いものがある。

これを機会に、他の代表曲「嫌んなった」「10$の恋」「胸が痛い」あたりもぜひ聴いてみてほしい。

木村充揮ほど歌に「艶っぽさ」のあるシンガーはそういない、絶対そう感じるはずだよ。


音曲日誌「一日一曲」#133 キャロル「やりきれない気持」(ゴールデン・ヒッツ/マーキュリー・ミュージックエンタテインメント)

2023-08-12 05:00:00 | Weblog
2010年8月7日(土)

#133 キャロル「やりきれない気持」(ゴールデン・ヒッツ/マーキュリー・ミュージックエンタテインメント)





キャロルのサードシングル。73年2月リリース。大倉洋一・矢沢永吉の共作。

キャロルについて、いまの若いリスナーたちが知っていることは「その昔、矢沢永吉がデビューしたバンド」、そんな程度だと思うが、リアルタイムでキャロルの出現を体験した世代にとっては「存在そのものが、未曾有の衝撃」、そんな感じだった。いやホントに。

キャロルは1972年6月、ベース、ボーカルの矢沢永吉が書いた、一枚のバンドメンバー募集ビラから始まった。

「ビートルズとロックンロールの好きなヤツ、求ム!」

これにこたえて集まったのが、ジョニーこと大倉洋一(g,vo)、内海利勝(g)、ユウ岡崎(ds)だった。バンド名は、大倉が命名したという。

いまでいうところのライブハウス(「ヤマト」など)で活動を始めたところ、あっという間に人気が出て、10月にはテレビ番組「リブ・ヤング」に出演というビッグ・チャンスが舞い込む。

出演して即日、レコーディングの契約。12月にはシングル・デビュー。なんというスピード出世(笑)。

以降、怒濤の毎月シングルリリースが続く。きょう聴いていただく「やりきれない気持」はその第3弾で、その攻勢は6月に彼ら最大のヒット「ファンキー・モンキー・ベイビー」が出るまで7か月も続いた。

なにもかもが新記録ずくめのキャロルだったわけだが、キャロルがこれまでのバンドと最も違っていたのは「彼ら本来の不良性まる出しのファッションでデビューし、それがそのまま受け入れられた」ということだった。

彼らの少し前に一世を風靡したグループサウンズの連中、いやいや海外のご本家・ビートルズ、ストーンズでさえ、デビュー時には一般ウケするよう、それなりに不良性を抑えたファッションで登場したのにである。これは、ホント、衝撃だった。

ハンブルグ時代のテディボーイ・スタイルのままで突然登場した、ビートルズ・チルドレン。これには、現役の不良はいうにおよばず、元不良、さらには非不良層まで魅せられたんである。まさに革命だった。

いま改めて考えてみるにキャロルは、世界中に無数に存在する、あるいはしてきたビートルズ・フォロワーの中でも、もっともヒップでいかしたバンドだったと思う。

キャロルに先立ってビートルズ・フォロワーとして注目されていたのが、72年6月デビューのチューリップだった。が、このキャロルの出現で、見事にかすんでしまった。

大学のフォークサークルの匂いのする非不良、つまり草食でいかにも安全パイ的なチューリップに比べて、キャロルは肉食のガテン系。断然ワイルドでセクシーな不良の匂いをぷんぷんとさせていた。

歌も演奏もあきらかにキャロルのほうがうまい。となれば、「不良な男性は怖いですぅ」なんて言うオタク女子を除けば、男も女も、こちらにひきつけられるに決まっている。

当時の筆者も、自身不良としては中途半端で、髪型をリーゼントに変えこそしなかったが、「チューリップは音も見かけもダサい。キャロルのほうが上」と思っていた。

というわけで、前フリが長くなってしまったが、きょうの一曲、聴いてほしい。リードボーカルはジョニー大倉。

キャロルの曲は、ヒットしたのはどちらかといえば矢沢がリードをとったものが多いのだが、ジョニーの甘い声もなかなかいい。

後にはその出自をカミングアウト、俳優としても活躍。矢沢のような、なかば神格化されたスターへの道はたどらなかったものの、ジョニーもシンガーとして素晴らしいものをもっているし、日本語・英語をたくみに織り交ぜた作詞術にも、時代を先取りしたセンスを感じる。

ファッション的には、どちらかといえばメジャーデビュー後のビートルズの線を狙っていた矢沢に対して、あくまでもテディボーイスタイルにこだわって、キャロルの独自性、革新性をリードしたのがジョニーと聞くと、キャロルとは矢沢というよりはジョニーのバンドだったのかもしれない。

永遠の、そして唯一無二の不良バンド、キャロル。

その音楽のキャッチーさは、日本のポップ音楽史上でも突出したものだと思う。CHECK IT OUT!


音曲日誌「一日一曲」#132 ザ・フー「Magic Bus」(The Singles/Polydor)

2023-08-11 05:05:00 | Weblog
2010年7月31日(土)

#132 ザ・フー「Magic Bus」(The Singles/Polydor)





ザ・フーのシングル。68年9月リリース。メンバーの一人、ピート・タウンジェンドの作品。

セールス的には全英で26位止まりと、あまりふるわなかったものの、彼らにとって非常に重要なレパートリーとなった作品だ。

名盤「ライブ・アット・リーズ」('70)で聴かれるように、彼らのコンサートの最終パートで必ず演奏され、ライブを最高潮に盛り上げるナンバーであった。

この曲は当時、アメリカ限定のコンピレーション・アルバム「Magic Bus」以外では聴くことが出来ず、日本では「ライブ・アット・リーズ」がリリースされるまで、ほとんど知られることがなかった。

約2年、幻の名盤というかコレクターズ・アイテム状態だったわけだが、いま聴くに69年の「トミー」のいくつかの名曲群と比較しても、まったく聴き劣りしない出来ばえだ。

まず、そのビートに、はっきりとした特徴がある。当時の日本ではほとんど知られていなかったジャングル・ビート、すなわちボ・ディドリーが得意とする、「アイム・ア・マン」などで聴かれる、あのリズムである。

ジャングル・ビートをさらに溯れば、ニューオーリンズのセカンド・ラインに行き着くわけで、この曲はもろにアメリカ・オリエンテッドな音なのだ。

アコースティック・ギターのイントロに始まり、賑やかなパーカッションのバッキングを従え、延々と繰り返されるシンプルなリフレイン。

次第にサイケデリックなギター・プレイへと突入していくも、シングルサイズでフェイドアウトしてしまう。どこがサビとかいう曲ではないので、とにかくエンドレスで続くのであろうなと感じさせる、麻薬的な曲調なのだ。そこで、この曲の威力が最も発揮されるのは、ライブにおいてということになる。

「ライブ・アット・リーズ」では、通常のバンド用のアレンジになっていて、8分近くの長尺で聴く者をノックダウンしてくれる。こちらもぜひ、聴き比べてほしいものだ。

チャートインの成績でわかるように、ポップ・チューンとしては、いまひとつ訴求力が足りない、地味なナンバーかもしれない。

だが、その音楽的な充実度は、見事なものだと思う。

ボ・ディドリーの亜流に終わらず、自らのオリジナリティを盛り込みつつ、骨太なサウンドを構築していたザ・フー。

同時期のヤードバーズ、ストーンズなどと比べてみても、68年当時もっとも先進的なロック・バンドであったといって、間違いないだろう。

そのエモーショナルなボーカル、コーラスは、あまたある白人バンドの中でも頭ひとつ以上突出した存在であった。

ニューオーリンズR&Bの本質をいちはやく体現したその比類なき才能、とくと確認してほしい。


音曲日誌「一日一曲」#131 ハウンド・ドッグ・テイラー「Giive Me Back My Wig」(Hound Dog Taylor & the Houserockers/Alligator)

2023-08-10 05:00:00 | Weblog
2010年7月24日(土)

#131 ハウンド・ドッグ・テイラー「Giive Me Back My Wig」(Hound Dog Taylor & the Houserockers/Alligator)





シンガー/スライド・ギタリスト、ハウンド・ドッグ・テイラーのデビュー・アルバムより。71年リリース。テイラー自身のオリジナル。

ハウンド・ドッグ・テイラーは1915年、ミシシッピ州ナッチェス生まれ。ハウリン・ウルフの「ナッチェス・バーニング」で歌われた街だ。本名はなんと、セオドア・ルーズベルト・テイラーという。えらくVIPな名前をつけられてしまったものである(笑)。

小作農として働くかたわら、20才頃からギターを始める。故郷周辺のジューク・ジョイントでの演奏活動を経て、42年シカゴへ移住。

いくつかのレーベルからシングルをリリースするも、ほとんど日の目を見ることなく30年近くくすぶっていた状態のテイラーを高く評価したのが、ブルース・イグロアという青年だった。彼は、テイラーのレコードを出したい一心で、勤務していたデルマークを辞して、アリゲーター・レーベルを立ち上げたのである。

このときから、テイラー、そしてアリゲーターの快進撃が始まった、ということだ。

記念すべきレーベル第一号が、まさにこの「Hound Dog Taylor & the Houserockers」なるアルバム。

デビュー盤とはいえ、すでに50代後半を迎えていたテイラー。その完成度はハンパなく高かった。

この一枚の成功後、73年にはセカンド・アルバム「Natural Boogie」を出し、75年には初のライブアルバムを準備していたが、テイラーが60才の若さでガンにより死去。ライブアルバムは死後リリースされる。

亡くなる前の、ほんの5年間だけ、スポットライトが当たったわけだが、残されたわずか数枚のアルバムによって、テイラーはブルース界において特別の存在となり、いまだに根強いファンが多いのである。

テイラーのサウンドの特徴は、まずそのエグみのある歌声、そして迫力満点のギター・サウンドにあるといえるだろう。

テイラー自身のスライド・ギターも、ナチュラル・ディストーションが目一杯かかっていて相当エグいのだが、もうひとりのギタリスト、ブルワー・フィリップスのプレイもかなりヤバい。ときにはリズム・ギター、ときにはベース、ときにはリード・ギターのようにと変幻自在のプレイで、テイラーを完璧にフォローしている。テッド・ハーヴェイのドラムスも、やたら元気がいい。スタジオ録音といっても、まるでライブのような熱さだ。

彼らの演奏のスゴさは、きょうの一曲を聴いていただければ、十二分に納得していただけるだろう。

ブルースにもさまざまなスタイルなものがあるが、ハウンド・ドッグ・テイラーらの演奏は、その中でももっともホットであり、パンキッシュであり、ロックであると思う。若い世代にもおススメ。

一度聴けば、その強烈な刺激にやみつきになること請け合い。ぜひ、猛犬テイラーのひと噛みにやられてみて。

音曲日誌「一日一曲」#130 リッチー・サンボラ「The Wind Cries Mary」(The Adventure of Ford Fairlane/Elektra)

2023-08-09 05:31:00 | Weblog
2010年7月18日(日)

#130 リッチー・サンボラ「The Wind Cries Mary」(Original Soundtrack Recording:The Adventure of Ford Fairlane/Elektra)





リッチー・サンボラのソロ・デビュー曲。90年リリース。米映画「フォード・フェアレーンの冒険」のサントラより。

サントラ・アルバムを物色していると、収録曲の中に、たまにものすごい掘り出し物が見つかったりする。きょうの一曲もまさにそんな感じだ。

リッチー・サンボラといえば、83年のデビュー以来、ボン・ジョヴィのリード・ギタリストとして誰ひとり知らぬ者がない、そんな存在だが、普段はジョン・ボン・ジョヴィのバックでギターを黙々と弾く、そんなイメージの彼も、実は何枚かのソロCDを出している。

きょうの一曲はその口火となったわけだが、彼のソロ・アルバムには未収録なので、なかなか聴く機会がない。おおかたの皆さんは、今回が初聴であろう。

ボン・ジョヴィはアメリカのバンドだが、先輩格のエアロスミス、キッスなどと同様、ブリティッシュ・ハード・ロックの影響を強く受けている。クリーム、レッド・ツェッぺリン、そしてジミ・ヘンドリクス(ジミはアメリカ人だが、英国デビューなので入れておく)。

リッチー・サンボラは特にエリック・クラプトンに憧れてギターを弾き始めたようだ。91年にリリースしたソロ・デビュー・アルバム「Stranger in This Town」中の「Mr. Blues Man」という曲ではリッチーの熱烈ラブコールに応えて、ECがゲスト参加しているほど。

ECとともに、リッチーにとって神のような存在のギタリストが、ジミヘン。というわけで、彼の初ソロ・レコーディングはこの「風の中のマリー」となった。

この曲は、ジミの英国デビュー盤「Are You Experienced?」収録のナンバー。静謐なイントロから始まり、ゆったりしたテンポながら、次第にギタープレイがエキサイティングしていく様子が鮮烈なバラード。

ここでは、歌、ギターともにリッチーがえらくカッコいいのだ。

ボン・ジョヴィでの見事なコーラス・ワークから察せられるように、彼もなかなかの歌い手。

ジョンの陽性でやんちゃな感じの歌声とはまた違った、ちょいシブめといいますか、ブルーズィな声が印象的であります。

そしてもちろん、ギターのほうもパーフェクト。ワウなどのエフェクターを巧みにあやつり、トリッキーでエモーショナルなフレーズを繰り出すさまは、まさにジミの霊が降りてきた、というイメージ。

ジミのもつカラーをそこなうことなく、リッチー自身の個性も加味した、見事なトリビュート版となっとります。

ジミへンがもっともモダンなブルースマンであったように、リッチーも最高に素晴らしいブルースマンなのだということがわかるナンバー。

リズム・セクションのタイトなノリも相まって、ジミへン・カバーとして出色の一曲なんで、ぜひ聴いて欲しいです。


音曲日誌「一日一曲」#129 MY LITTLE LOVER「Hello, Again ~昔からある場所~」(evergreen/トイズファクトリー)

2023-08-08 05:24:00 | Weblog
2010年7月11日(日)

#129 MY LITTLE LOVER「Hello, Again ~昔からある場所~」(evergreen/トイズファクトリー)





MY LITTLE LOVERのサード・シングル。95年リリース。小林武史プロデュース。

同年5月デビューしたMY LITTLE LOVERは、akko、藤井謙二、小林武史の3人によるユニット。

「Man & Woman/My Painting」「白いカイト」の2曲のあとを受けてリリースされた本シングルは、彼らの最初のスマッシュ・ヒットとなった(オリコン2週連続1位)。

テレビドラマ「終らない夏」の主題歌という初タイアップの効果もさることながら、決めてはやはり楽曲の出来の素晴らしさ、そういうことじゃないかと思う。

マイラバの特徴というか最大のウリは、リードボーカルakkoの「声」にあることは間違いないだろう。決して「美声」とか「うまい歌」じゃないんだが、耳に妙に残る声なのだ。舌っ足らずで中性的、やや甘ったるいあの声なくしては、マイラバのサウンドは成立しなかったに相違ない。

「Hello, Again ~昔からある場所~」はこれまで美吉田月、Mi、JUJUの3アーティストによってカバーされていて、最近ではデジカメのCMソングとなったJUJUのバージョンがよく知られていると思うが、JUJUの美声や歌唱力をもってしても、この曲についてはどうしてもakkoに軍配が上がってしまう。

思春期の少年の心境をうたった歌詞に、akkoの中性的な歌声が、このうえなくフィットしているのである。

ある意味、ZARD坂井泉水にも通じる、ヘタウマの系譜といいますか。本当は下手なんていっちゃ失礼なんだが、いわゆる実力派シンガーとは違った魅力があるということですわ。

この曲、歌詞は小林が担当。曲は最初に藤井がプロトタイプを作ってきて、それを小林とで揉んで完成形にしたという共作。

筆者的に一番シビれた箇所といえば「記憶の中で ずっと二人は 生きて行ける」の転調のところだな。これが曲最大のフックといっていい。ちなみにこれは藤井作のプロトタイプ段階で既にあったという。

前半(いわゆるAメロ、Bメロと呼ばれるところ)がわりと淡々と進んできていたが、そこに来てグッとひきしまる。作曲者の見事なセンスを感じるところだ。

そしてもちろんバックグラウンドの音も見過ごすことは出来ない。藤井のギターリフやソロ、小林のアコースティック基調の緻密なアレンジ。こういったものが渾然一体となってマイラバらしさを生み出している。

それはひとことでいえば「清冽さ」ということになると思う。

男と女のドロドロ、みたいな世界は、マイラバには似合わない(その後、図らずもそういう問題に直面してグループは空中分解するという皮肉な道をたどるのだが)。

ファーストアルバムのタイトル「evergreen」そのままに、永遠に青春な音楽、それがMY LITTLE LOVERの世界なのだ。

芸術とは従来誰も気づかなかった「価値」を発見すること、というふうに筆者は考えているのだが、さしずめマイラバは、akkoのような歌声の魅力を発見したといえる。美声や圧倒的な声量を誇るシンガーよりもリスナーをひきつけてやまないものが、akkoにはあるのだ。

15年経っても、名曲はやはり名曲。必聴です。

音曲日誌「一日一曲」#128 ジャズ・ジラム「Key To the Highway」(Jazz Gillum: The Essential/Classic Blues)

2023-08-07 05:00:00 | Weblog
2010年7月4日(日)

#128 ジャズ・ジラム「Key To the Highway」(Jazz Gillum: The Essential/Classic Blues)





シンガー/ハーピスト、ジャズ・ジラムの代表的ヒット。40年録音。ビッグ・ビル・ブルーンジー、チャールズ・シーガーの作品。

ジャズ・ジラムことウィリアム・マッキンリー・ジラム(正しい発音はギラム)は1904年、ミシシッピ州インディアノーラ生まれ。かのB・B・キングと同郷である。

ジラムもBBと同じように故郷を出て23年にシカゴに移住、シカゴでボス的存在だったブルーンジーのもとで本格的な音楽活動を始める。34年から49年にかけて、ブルーバードやビクターにて100曲以上を録音している。

さて、きょうの一曲はエリック・クラプトンがカバーしたことで20世紀の名曲として広く知られることになったが、もともとこのジラム版が最初に世に出たのである。

完全なブルーンジーのオリジナルではなく、ピアニスト、チャールズ・シーガーのブルース(12小節)をもとに、ブルーンジーが8小節ブルースに改作している。

ブルーンジーのパーカッシヴなギターをバックに歌われるジラム版「キー・トゥ・ザ・ハイウェイ」は、実にいい意味で「いなたい」。その素朴な歌声はもとより、高音域を生かしたハーモニカ・プレイが絶品だ。

ブルース・ハーピストの多くは、「セカンド(あるいはクロス)・ポジション」といって、曲のキーより4度上のキーのハープを使うことが多い。音の配列の関係で、このほうがブルーノートが出しやすいからだ。たとえば、Gの曲を吹くときはCのハーモニカを使うといったふうに。

ジラムの場合、これをせずにキー通りのハープ(これをファースト・ポジションという)で吹いている。これがなんともひなびた味わいを出しているんである。

シカゴに移住してジャズ・ジラムなどというスタイリッシュな芸名を名乗っているわりには、田舎くささ丸出し。でも、そこがいい。

田舎に住む貧しい労働者の、大都会への憧れを歌ったこの曲には、ジラムのような素朴な味をもったミュージシャンがもっともふさわしい。そう思う。

都会(まち)にいてふるさとの心を忘れず。これぞカントリー・ブルースマンの鑑なり。ぜひ一聴を。

音曲日誌「一日一曲」#127 オーティス・スパン「I Got Ramling On My Mind #2」(Otis Spann Is The Blues/Candid Records)

2023-08-06 05:00:00 | Weblog
2010年6月27日(日)

#127 オーティス・スパン「I Got Ramling On My Mind #2」(Otis Spann Is The Blues/Candid Records)





オーティス・スパンのソロ・デビュー・アルバムより。ロバート・ジョンスンの作品。ボーカルはロバート・ロックウッド・ジュニア。

オーティス・スパンといえば、マディ・ウォーターズのバック・バンドのピアニストとしてあまりにも有名だが、その一方、60年代からはソロ・レコーディングもしばしばおこなっている。

この「Otis Spann Is The Blues」はその第一弾。ジャズ評論家にしてプロデューサーのナット・ヘントフによりプロデュースされた。ニューヨーク録音。

ギターのロックウッドとのデュオで、ボーカルも二人が交互に担当しており、この一曲は作者ジョンスンの義理の息子であるロックウッドによって歌詞等がアレンジされている。

「(I Got) Ramling On My Mind」は、エリック・クラプトンの歌によって、いまや音楽ファンなら知らぬ者もない名曲という扱いを受けているが、当時はまだ、ブルースファンしか知らぬマイナー・ナンバーであったことだろう。クラプトンがブルーズブレイカーズで初カバーをするだいぶん前のことでもある。

だが、とにかく、この一曲の出来映えは素晴らしい。躍動感あふれるスパンのピアノ、息のぴったりあったロックウッドのギター、そしてハイト-ンのシャウトが心をゆさぶるようなボーカル。まさにこの曲のベスト・テイクと呼ぶにふさわしい。

なんのリズム楽器も伴わなくても、ギターとピアノだけでこれだけのグルーヴを生み出せるとは! やはり、プレイヤーの力量が桁外れというしかない。

このアルバムが高い評価を受け、スパンはいくつかのレーベルでアルバムを発表していくことになる。

きょうの一曲では聴けなくて残念だが、スパンはそのピアノだけでなく、歌声のほうも枯れた味わいがあってなかなかいい。シンガーとしても十分な才能を兼ね備えたひとだったのだ。

だが70年、40才の若さでガンのため亡くなってしまう。その溢れるようなピアノの才能をまだまだ発揮出来ただけに、悔やまれる死だ。

50~60年代のスパンの演奏、そして歌声は、いまだに聴く者の魂に響き続けている。彼こそが、まさに生きたブルースなのだ。


音曲日誌「一日一曲」#126 ジミー・ヤンシー「Shake 'Em Dry」(Best of Jimmy Yancey/Blues Forever)

2023-08-05 05:58:00 | Weblog
2010年6月20日(日)

#126 ジミー・ヤンシー「Shake 'Em Dry」(Best of Jimmy Yancey/Blues Forever)





ピアニスト、ジミー・ヤンシーのベースとのデュオによる演奏。ヤンシーのオリジナル。

ジミーことジェイムズ・エドワード・ヤンシーは1894年イリノイ州シカゴ生まれ(98年とも)。51年に同じくシカゴで亡くなるまで人生の大半をシカゴで過ごしている。シカゴ・ブルースマンは、他の地域から移住してきた者が結構多いが、彼の場合は、文字通り生粋のシカゴっ子なのである。

20代の初めからハウスパーティやクラブ等で演奏して生計を立てていたが、初レコーディングは39年で40代半ばになってから。小レーベルでデビューした後、その圧倒的な腕前を認められ大手レーベル、ビクターから再デビュー。51年までに100曲以上を残している。代表曲は「ヤンシー・スペシャル」「ホワイト・ソックス・ストンプ」「ステイト・ストリート・スペシャル」など。

デビュー当時、すでに地元では実力派ブギウギ・ピアニストとして名が通っており、彼より少し若いミード・ルクス・ルイス、パイントップ・スミス、アルバート・アモンズといった人気ピアニストにも、その独自な演奏スタイルが大きく影響を与えたという。

非常に力強く堅実なビート感覚、特にその左手の自由自在なプレイは、N.O.の天才プロフェッサー・ロングヘアにまで影響を与えたというから、ブルース・ピアノ界に冠たる存在といえるだろう。

きょうの一曲は、ラグタイム的な味わいのインスト・ナンバー。ヤンシーはラグタイム・ピアニストである兄、アロンゾ・ヤンシーからピアノの手ほどきを受けているので、彼のプレイにもそういった要素を散見できる。

ほのぼのとした雰囲気の小品だが、こういうなごみ系というか、リラックスしたプレイを得意とする一方で、「ホワイト・ソックス・ストンプ」のような激しいテンポのブギウギもうまい。緩急自在のピアノなのである。

シカゴっ子らしく、地元の野球チーム、シカゴ・ホワイト・ソックスの大ファン。25年間チームのグランド・キーパーをつとめたというから、相当な野球キチでもあったヤンシー。曲名にも、モロに使われているぐらい。

ヴォードビル芸人一家に生まれ育ち、幼少時からタップ・ダンスや歌を得意としてきただけあって、その音楽にはエンタテインメントのエッセンスが溢れている。

ヤンシーなくして、その後のブルース・ピアノの発展はなかっただろうと思われるくらい、卓越したリズム感をもったヴァーチュオーゾ。なかなか聴く機会はないと思うので、これをきっかけにぜひ。


音曲日誌「一日一曲」#125 ジミー・リード「Honest I Do」(I'm Jimmy Reed/Vee Jay)

2023-08-04 05:07:00 | Weblog
2010年6月12日(土)

#125 ジミー・リード「Honest I Do」(I'm Jimmy Reed/Vee Jay)





ジミー・リード、56年のヒット・シングル。リードのオリジナル。

50年代ブルース界有数のヒットメーカー、ジミー・リードについてこれまでほとんど取り上げることがなかったが、もちろん軽く見ているわけではない。個人的にもお気に入りのブルースマンだし、彼の輝かしいヒット実績を考えると、ブルース界のトップテンに入れておかしくない人だと思う。

ジミー・リードことマティス・ジェイムズ・リードは、1925年ミシシッピ州リーランド生まれ。

幼少からの友人、エディ・テイラーとともに、40年代前半シカゴ近郊に移住。以降、本格的にミュージシャンとしての活動を開始、ブルースの花道を歩んでいくことになる。

53年、チャンス・レーベルよりデビュー。同年、名門ヴィージェイと契約、64年の同レーベル倒産にいたるまで、数々のヒットを生み出していくことになる。

今日聴いていただく「Honest I Do」はリード最大のヒット。いわば名刺代わりの一曲だ。

彼の他の多くの作品と同様、相棒エディ・テイラーの弾く特徴的なウォーキング・ベースに乗って歌われるブギ・ナンバー。

タイトル通りに、ただ一人の女性への心の底からの愛を語る、究極のラブソング。彼の最愛のひと、メアリー・リー・リードに捧げた一曲ということになる。

この曲、メロディが実に覚えやすく美しいのだ。リードのちょっと朴訥でとぼけた味わいの歌唱もあいまって、好感度が高い。こりゃあ、ヒットしないわけがないね。

彼はこの曲も含め、ヴィージェイ時代に11曲をビルボードのポップチャートに、14曲をR&Bチャートにランクインさせている。これは、他のどのブルースマンも達成できなかった最高記録なのだ。もう黒人音楽の域を超えて、国民的なシンガーとして認められていたといっていい。

ただ、このようにヒット運には恵まれていたものの、リードは実生活では強度のアルコール依存症でよれよれ、ボロボロだったという。

すぐれたアーティストには、なにかしら創作上の苦しみがつきまとうものだろう。売れっ子リードも、命をすり減らすようにして、名曲群を世に出していたに違いない。

76年、カリフォルニア州オークランドにて50才で亡くなっている。いかにも短命である。

この曲がまさに示しているように、彼はあまりに真摯過ぎて、人生を器用にわたっていくことが出来なかったんだろうなと思う。

酔いどれ、でもひたすらハートフルなブルースマン、ジミー・リードの真骨頂な一曲。その高音が印象的なハープ・プレイも絶品だ。ぜひ聴いてほしい。

音曲日誌「一日一曲」#124 ビージー・アデール「Fly Me to the Moon」(Swingin' With Sinatra/Green Hill Productions)

2023-08-03 05:19:00 | Weblog
2010年6月6日(日)

#124 ビージー・アデール「Fly Me to the Moon」(Swingin' With Sinatra/Green Hill Productions)





1937年生まれのベテラン白人女性ジャズピアニスト、ビージー・アデールの最新作より。バート・ハワードの作品。

ケンタッキー州ケイブシティに育ち、5才からピアノを習った彼女は、音楽大学へと進み、セッションミュージシャンとなる。

30代前半にはジョニー・キャッシュのバックを務めていたが、彼女の本来のバックグラウンドはジャズで、80年代にはサックス奏者デニス・ソリーとともにカルテットを結成。

彼女自身のファースト・リーダー・アルバムを録音するのは、1990年代に入ってから。ビージー・アデール・クルーザー名義の「Escape to New York」('90録音)だが、これを発表するのは98年。その前に「Frank Sinatra Collection」で97年ソロ・デビューというかたちとなった。

きょう聴いていただく(映像だから観ていただくでもあるが)一曲は、シナトラのみならず、歌ではアニタ・オデイ、ナンシー・ウィルスン、演奏ではオスカー・ピータースンなど、さまざまなアーティストが取り上げ、好評を博したスタンダード中のスタンダード。

もともとは54年に「In Other Words」という原題でバート・ハワードが作曲したものだが、次第に最初のフレーズからとった「Fly Me to the Moon」というタイトルのほうが通りがよくなり、現在ではもっぱらそのタイトルで知られている。

このロマンティックな歌詞をもつ極上のラブソングを、ビージーもひたすら美しくメロディアスに奏であげている。

一聴するに、有名なオスカー・ピータースン版あたりの影響はもちろんだが、さらにいえば昨年77才で亡くなったエディ・ヒギンズの影響も感じられる。

ヒギンズ同様、非常に端正で、破綻のない演奏。ジャズピアノを志す全ての人々にとってよきお手本になる、そんな感じのプレイなのである。

裏を返せば、スリリングな要素、実験的な要素といった面白みはないのだが、ジャズというものが既に「完成期」に入ってしまった、つまりこれ以上新しいものを取り込んで変化していく可能性がほとんどなくなってしまった現在において、こういう決まりきったスタイルの演奏も、またありかなと思う。

こういうスタイルは、昔よく「カクテル・ピアノ」などと揶揄されていたものだが、ジャズがこの先もしっかり生き残っていくためには、一般大衆に好まれるカクテル・ジャズ的なありようも必要なのではなかろうか。

事実、彼女のCDは、現在ほとんど目立った売りもののない、日本のジャズ市場では、珍しくコンスタントに売れているらしい。それもコアなジャズファンというよりは、ごくフツーのリスナーに。

映像の冒頭で自己紹介をするビージーを観るに、アメリカのどこにでもいそうなおばあちゃん、って感じなのだが、いったんピアノに向き合うと、70年近いキャリアなくしては出せない、端正で優美な響きのピアノ・プレイを聴かせてくれる。

よい音楽は、一日にして成らず。何十年もの経験をへて、熟成していくものだということを感じる。

ほどよく歌い、かつスイングするビージーの演奏を聴いて、こころも体もリラックスしてほしい。

音曲日誌「一日一曲」#123 リル・サン・ジャクスン「Get High Everybody」(Restless Blues/Document)

2023-08-02 05:00:00 | Weblog
2010年5月22日(土)

#123 リル・サン・ジャクスン「Get High Everybody」(Restless Blues/Document)





シンガー/ギタリスト、リル・サン・ジャクスンのインペリアルにおける録音より。ジャクスンの作品。

リル・サン・ジャクスンは本名メルヴィン・ジャクスン、1915年テキサス州タイラー生まれ、76年同州ダラスにて60才で亡くなっている。

もともとはゴスペルを歌っていたが、ブルースにも興味を持つようになる。第二次世界大戦時は従軍し、帰還後本格的にミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせることになる。

まずはゴールド・スター、モダンにて録音、続いて50年以降はインペリアルにて約50曲ものシングルを出すことになる。

とりわけ、「Rockin' and Rolloin'」は大ヒットとなり、一躍人気シンガーとなる。のちのロックンロール黄金時代を予感させるようなタイトルだが、わりとゆったりしたテンポの弾き語りで、ロックというよりはブルースな一曲。

54年までは破竹の快進撃だったジャクスンも、インペリアルを離れた50年代後半からは表舞台から遠ざかってしまう。

60年に再発見され、アーフリーにてレコーディング。このときは、インペリアルにおいてメインであったバンド・スタイルではなく、彼本来の弾き語りであった。

人生のほんの一時期(12年ほど)、メジャーシーンで活躍したミュージシャンなのだが、50年たった今もCDが再発され聴かれているのは、草葉の陰の本人にとっても「望外の喜び」といったところではなかろうか。

彼の持ち味は、その力の抜けた素朴な歌声にあると思う。ちょっと鼻にかかった感じが、いなたくてGOOD。

今日聴いていただく「Get High Everybody」は、アップテンポのシャッフル。タイトル通り、ノリノリのダンス・ナンバーである。

バックのバンドは。完全にジャンプ仕様。ホーンセクションをバッチリ従えているが、彼のギタープレイは残念ながら表には出てこない。ジャクスンはまるでスタンダップ・ブルースマンのようだ。

せっかくメジャーブレイクしたのにその路線から降りてしまったのは、ジャクスン自身、こういうスタイルはあまりお好みでなかったのかもね。

ジャクスンのもうひとつの魅力、ギタープレイについてはここでは語らないが、興味のあるひとはアーフリーから出ている「Blues Come to Texas」を聴いてみてくれ。これもまたオツな味わいがある。

知る人ぞ知るテキサス・ブルースマン、リル・サン・ジャクスン。彼の音楽もまた、20世紀の重要な遺産だと思うね。