河回村(ハフェマウル)は朝鮮時代からの伝統家屋、
韓屋(ハノク)が600年以上もそのままで残る貴重な伝統村
豊川・柳氏が代々暮らしてきた同姓村で、
儒学者(ソンビ)柳雲龍と文禄の役の際の領議政(現在の首相相当)の柳成龍兄弟を輩出した
現在も両班(ヤンバン、昔の貴族階級)の子孫が
先祖から受け継いだ家屋を守りながら暮らしています =KONEST参照=
さっそく田舎道に入ると、門柱に番号を書いた標札がある
文化財の登録番号を書いているのかしら・・・
重要民俗資料には間違いないし
お天気もよく、そぞろ歩きには申し分ない
ワクワク歩いていたので、
住居人がいたっていう事に編集で気がついた!ミアナムニダァ
畑の黒色のビニールの下は朝鮮人参の栽培かもしれない、
朝鮮人参は大変な時間と手間がかかると聞いた
ガイドさんがドンドン進んで行くので、いつも一人とり残されて・・・
藁葺屋の門構えと手入れの良いエントランス?
すばらしいです
河東古宅
1836年に竜宮県監徳(地方官)を歴任した柳教睦が建立、
村の東方に位置するため「河東古宅」と呼ばれている
コの字型のアンチェ(母屋)と
西方に突き出るように建っているサランチェ(男性の居間)が
連なり弓字型をしている
独立した大門棟は本棟とは違って藁葺屋となって、素朴で清潔感を出している
これは本棟は瓦葺きで、
正門を藁葺きにしてあるのは常に努力することを忘れないためだとか
土壁が息づいています
手前の壁は新しそうですが、右側の壁は瓦をタテに重ねています
和敬堂(北村宅 )ファギョンダン(プッチョンテク)
1797年に柳師春がサランチェ(男性の居間)、ナルゲチェ(本棟に着いている間)を建て
1872年のその曽孫である柳道性がアンチェ(母屋)、
さらに大きいサランチェ(男性の居間)、祠堂を建てた
規模も大きく雄壮としており名門家としての格式を備えた士大夫家屋
(当時は99間、現在は72間)
和敬堂の意味は、和をもって両親につかえ、敬をもって王に仕えるという意味
ペ・ヨンジュンさんが泊まったという屋敷らしい
和敬堂の別棟 母屋かな?
時代劇を見ていると、こんな作りになっているワ
三神堂神木(サムシンダンシンモク) 護守樹
樹齢600年を越える欅の木で村の中央に位置している
子供を授け、子供の出産と成長を助けるといわれています
土塀の囲いの中の狭いスペースなので、後ろから撮影しても全体姿を撮ることは難しい
白い紙が樹の周りのロープと仮面樹?の頭についているが、
これは祈願文を書いてくっつけています
白い紙とペンは用意されています、
聞くところによると日本人が‘おみくじ’のように木に結んだのが始まりとか
そして風水的にも最も気の良い場所とされ、パワースポットとしても必訪
養真堂
=河回村で最も古い家屋=
豊山に暮らしていた柳従恵公が河回村に入村し
15の族譜(家系図)を最初に完成させた柳泳の号に由来しており
立厳古宅という懸板は、柳雲龍と柳成龍の父親である立厳柳仲鄙の号に由来している
養真堂のオンドル の焚き口、今でいう床暖房の仕組み
(薯童謠ソ・ドンヨの時代劇でリュウマチで病んでいた村人を
湿気だと気が付きオンドルが考えられたと言うのを観た)
韓国での建物は木材・石などすべて不揃いで稚拙で幼稚に見えるが
家屋全体をみると手作りの完成度は高く素朴で味がある
この地方は冬は寒く、夏は高温多湿で猛暑になるらしい、
建物の作りは風通しよくなっています
塀の内側に盛土になっていたので上がってみると、現在お住まいの方がいらしゃいました
お庭には菖蒲の花と、やはり朝鮮人参の栽培でしょうか、
本当にチェソンハムニダァ
建物の紹介は、安東河回村管理事務局発行の日本語版参照
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