再び会津若松に戻って参りました
「動く坂道」を使わず、☝ の人がいる場所から左折して、、、
飯盛山を上っていきます
白虎隊十九士の墓
中国の武神の名のもとに、4編成された
『玄武隊』『青龍隊』『朱雀隊』『白虎隊』
年齢によって編成され、白虎隊は総勢343名(推定)
15歳~17歳の少年
その中でも、士中二番隊は会津藩校日新館に学ぶエリート隊でした
正面の戸ノ口堰洞穴
白虎隊が抜け道に使った長さ150mの用水トンネル
さざえ堂の前を通り
山主飯盛本店
鶴ヶ城展望
本店のデッキから、左手の方角
飯盛分店前
少年武士慰霊碑
激しく壮絶な死を遂げた白虎隊士
今は飯盛山で、鶴ヶ城に向かい安らかに眠っています
お線香が、途絶えることなく焚かれて・・
白虎隊が自刃した地に下って行きます
会津若松の城下町が炎上しているのを見て、鶴ヶ城落城と勘違いし自刃したという
飯盛山
戊辰戦争後、会津藩は朝敵とされたために
白虎隊の遺体を明治政府はそのまま放置しておくよう命じ(埋葬禁止令)
埋葬の許可がおりませんでした
この場所で風雨に晒される少年たちの遺体は
衣服遺留品は盗賊に盗られ、動物に食べられ酷い状態でした
不憫に思った当時の山主飯盛正信が、村の吉田伊惣次と有志らと
夜な夜なコッソリと骨を拾い集め、今の墓前広場の一角に仮埋葬をしました
しかし、このことが西軍にわかり
遺体は掘り起こされ元のこの場所へ投げ捨てられ
正信爺は伊惣次と共に処罰され
その後許され出てきた時には正信爺は縄のようにやつれておりました
白虎隊の埋葬の許可がおりたのは、後の明治2年のことでした
「義に死すとも不義には生きず 」
江戸幕府の身代わりになったのが会津藩
徳川慶喜を最後まで守ったのですが、、、
涙なしに会津を見ることはできないです はい!
また単純な血に飢えた人斬り集団のような描写されている新選組
BSPで鞍馬天狗(大佛 次郞)を見たが、野村萬斎は良い(笑)として、血走った新選組の描写は誤解を招く
会津藩 新島八重の言葉
「私は何度考えてもわからない。天子様のため、公家様のため尽くしてきた会津が、
どうして逆賊といわれなきゃならないのか、会津の者なら皆知っている。
悔しくてたまらない。死んだ皆さまは会津の誇りを守るために、命を使ったのです。
どうか、それを無駄にしないでください。本当は日本中に言いたい。会津は逆賊ではない」
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