4/24(土)16:45頃、田平教会を出発。
激しい潮の流れが見られる「平戸瀬戸」と呼ばれる
海峡にかかる平戸大橋を渡った。
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ホテルのチェックインにはまだ早いので、
小高い山の上に見えるお城に向かった。
この門のすぐ左の「北虎口書院」の
石碑が立っている所でお金を払い
こちらの階段を上っていく。 ↓
門の木材は太く古く、趣がある
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順路に従って進むと
鉄筋コンクリートで再建された天守
鎧兜などの展示品を見て
街の景色を眺めて…は
たいていどこのお城も同じだが…
天守閣の裏に建つ櫓に入ってみると
そこには、目をみはるばかりの
美しい陶磁器が展示されていた。
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「中野焼 団龍文皿」との解説がある。
この2つはどう見ても朝鮮の品。
朝鮮で作られたものなのか?
それとも
朝鮮から連れて来られた陶工が作った (作らされた) ものか?
そう思ったのは、この本を読んで
私はかなりのショックを受けたから。
246p~247pには ↑
「日本人の茶数寄は韓国人には大変な不幸を
もたらしたものでした。
それは、豊臣秀吉が朝鮮を攻略した
文禄・慶長の役を 一名
陶磁器戦争と呼んでいるのをみればわかります。
…中略…
韓国では田舎の農夫らがメシや汁を盛った器が
わび茶を学んだ大名らには
一国一城と換える貴重な宝物であったために
朝鮮に侵入した彼らには
この器と陶工を略奪してくる目的が
もっとも大きな比重を占めていたのです。
…以下略…
そんなことを考えながら回っていたら
その通りのことが書かれていた。
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「連れ帰った」は
実際は「拉致」だったんでしょうね?
秀吉が何であんな無謀な朝鮮出兵を強行したのか?
いくら秀吉の命令とはいえ
大名たちはこぞって朝鮮に行ったのか?
その理由の一つが陶磁器にあったとは
驚きだった。
が、これらの素晴らしい陶磁器を見て
彼らの心が、少しわかった気がした。
でも、連れて来られた陶工達は
帰国許可が出てからも帰国しなかった。
それは、朝鮮はヤンバン(貴族)が富を独占し
陶工は大切にされず
苦しい暮らしをしいられていた。
が、
日本では芸術家として尊敬され
楽な暮らしができたから。
と、
何かで読んだ記憶がある。
平戸城は石垣も美しく保存されている。
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南に海が見えるホテル蘭風に17時ちょうどにチェックイン
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2階のエレベータ前のホールから
レストランに続く廊下には
素晴らしい陶磁器が陳列されている。
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写真ではこれらの美しさは伝わらないが、
せめて思い出にと、撮影してきた。
茶の湯を楽しみ、自らの力を誇示するために、
貿易で富を得、藩財政を立て直すために、
大名たちは咽から手が出るほど、
陶工を連れて来たかったんでしょうね。
今回の旅で、そんなことがやっと分かった。
65歳にして。
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