まこねこまどかブログ

マンガ家まこねこの気ままな日記

明治こぼれ話・桑田繁太郎

2012年01月17日 | 明治人物伝

来週の日曜日は、4時から白馬賛美大会のための東京アンテオケ教会内の予選会が開かれます。
地方から、白馬に出場していたグループが移動されて来たので、またまた大混戦になる予定です。
4時から、7時まで、39グループ出場します。
久しぶりに司会に立つので、ドキドキハラハラです。
金曜日から風邪をひいていて咳がまたひどくなっているので、今朝はそのために必死で祈りました。
昨日読んだ本の中に、明治の初期に牧師になった桑田繁太郎のお話が出ていました。
彼はお金持ちの息子でしたが、早くにお母さんを失くしました。
稼業も傾いてしまい、親戚の家で育ちましたが、13歳の時クリスチャンになり同志社に入る夢を持っていました。
でもお金がないため、小学校の準教員の資格を取り、働きながらお金をためていたのです。
ところが、明治23年の紀元節の時、天皇陛下の写真に神道の儀式がなされ、それにお辞儀をするのを拒否したので、学校をやめることになりました。
その後、働きながらやっと同志社神学部に入り、楽しい生活を送るのですが、結核にかかり、余命1年半から3年と宣告されます。
そこで、残りの人生を神様に捧げ、全てをなげうって、薬も飲まないで死を覚悟して伝道しました。
すると、結核は、完全にいやされてしまいました。
ところが、同志社に新神学が入り込み、今までの聖書を否定するような自由神学が教えられるようになったのです。
そこで桑田は、当時、生きた信仰の教えのある松江のバックストンに会いに行き、いろいろ質問すると「祈りなさい。続いて祈りなさい。神様が教えてくださいます。」と言われて、信仰の確信が与えられました。
その後、桑田は、真の学びを求めて、東京の明治学院神学部に入りなおし、植村正久の教会に行きます。
ところが、結核が再発するので、夏季伝送に療養を兼ねて九十九里の松尾教会に派遣されました。
ここでも、体のことを考えないで、いっしんに伝道していたら、再び完全にいやされてしまいます。
その後、明治41年に大阪北教会の牧師となり昭和21年まで牧会し、大阪神学院の教頭などを勤めています。
いろんな、神の器がいらっしゃったのですね。(続明治人物拾遺物語・秋山繁雄著より)

コメント
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