医師でクララの兄ウィリイは、明治17年に成医会に参加しました。
この会は、慈恵医院の高木兼寛が作ったもので、ウィリイは、後に副会長になります。
この高木兼寛は、脚気の予防のために海軍でカレーを食べるように決めた人で、「ビタミンの父」と言われました。
また、他の日本人医師たちともたくさん交流があり、勝海舟の孫と結婚した、茅ケ崎南糊病院の高田畔安とも仲が良かったのです。
ウィリイの赤坂病院は、貧しい人々には、無料で、治療していましたが、高木兼寛も、貧しい患者のために、施療病院として有志共立東京病院を設立したのです。
この時、徳川銀行の窓口になって財産管理をしていた勝海舟が資金融資をしました。
そして、払い下げられた愛宕山下の東京府立病院を改修 して作ったのです。
勝さんは、極貧生活から出世した人ですが、自分は贅沢をしないで貧しい人々を助けた人でした。
写真は、26聖人のバプチスタが作った施療院と教会跡にできた本蓮寺です。
ここに、勝海舟も4年間住んでいました。
不思議な巡り合わせですね。
西坂の丘には、7匹の猫がいました。
2匹は、今年生まれたばかりです。
お乳の大きなお母さん猫がいましたが、餌をやっていた方曰く育児はほったらかしていると言うことでした。
その男性は、証券会社に勤めていて東京に住んでいたことがありましたが、地震が多くて数年前に長崎に帰って来たそうで背う。
昨年の3月11日は、なんだかそれの様子がおかしくて、変だなーと言う感じがしていたそうです。
長崎は、地震がないから山の斜面に家を建てることができると言っていらっしゃいました。
西坂の丘で祈っていると、いろんな方が声をかけてきます。
だから、御祈りができなくなってしまいます。
その時も、途中から失礼して、26聖人が歩んだ旧街道を浦上に向かって歩きました。
26聖人記念館の後ろの方が、罪人たちの処刑場でしたが、そこには家が建っています。
急な坂道を上がったり下がったりしながら、疲れ果てた体には、本当に厳しかっただろうと思いました。
途中で、道が分からなくなったので、銭座町から、電車に乗って方向転換をしました。
秋なので、テンプレートを、秋っぽい物に変えようと思っています。
26聖人の像お下から見た写真です。
メッセージをするパウロ三木の開いた手と、祈りの手です。