関東地方は梅雨だと言うのに、暑くて良いお天気が続いています。
ところで、一昨日母から母の実家が壊され平地にされているという電話がありました。
駅から5分で角地の良いところですが、ずっと空き家になって朽ちかけていました。
老人施設に入っていた伯父(母の兄86才)が昨年の暮れに亡くなり、別の所にいたいとこが後を継ぎました。
母としては、伯父が入院している間ずっと管理していたので、一言行って欲しかったという思いがありました。
たとえ廃屋になっていたとしても思い出はたくさんあるので見届けたかったのだと思います。
そういった思いを大切にする人と、割り切ってお金だけで動く人などいろいろとあるものですね。
ダムの中に沈められた村などは、そういった思い出をたくさん抱えて沈んでいるのでしょう。
これで両親の実家が両方ともなくなってしまい、寂しくなりました。しかし、昨年甥が結婚して家を買い、子供が生まれたりして、新しい芽が大きく花開いています。
こうやって、人は繋がっていくものなのですね。
今日19日は、何の日か?
ジューク⇒シューク⇒シュークリームの日だそうです。ははは・・・。
なんでもごろ合わせがあるものですね。
日曜日は、父の日ですが、私はあまり父とは縁のない親子でした。
父はお酒に飲まれる人だったので、物心ついたころから拒絶反応がありました。
しかし、クリスチャンになってからも苦しみましたが、傷ついたことも感謝して行った時いやされたのです。
そのかいあって、父もクリスチャンになり、病床洗礼を受けました。
そして、2年前の白馬キャンプで持たれた全国ゴスペルグループコンテストの明けがた昇天しました。
今思うと、もう少し愛してあげればよかったと悔やまれますが、天国でまた会えるので、その時思いっきり「お父さん、愛してるよ。」と言ってあげるつもりです。死んだ後も、再開できるというのは幸せなことですね。感謝します。
今日は雑誌「雲の間にある虹」連載のまんが「ヤベツとエノクのQ&A」のペン入れをしています。
この連載も今回で60回なので、5年の最後になり、次回から6年目に入ります。
たぶん、あと数回で終わりになりなる予定です。
今は、その次の連載のストーリーを作っていますが、資料もたくさん集めなければなりません。こうして、マンガで神様のことを伝えることができて本当に幸せです。
小学校4年くらいの時、教会の子供のクリスマス会に1回だけ参加して、それ以来イエス・キリストを神だと信じて祈ってきました。
その後、学校から「天地創造・十戒・ベンハー」と立て続けに見に行き、神様のお話をまんがでわかりやすく伝えたいというビジョンが与えられました。
それが、数十年後の今実現しているということの素晴らしさを感じます。 本当に神様の召しと賜物は変わることがないですね。感謝です。
聖書では、私たちクリスチャンは、日々キリストに似た者となるとありますが、現実は、どこが似ているのだろうかと思うことばかりです。
もともと人間は罪の性質を持っているから仕方がありません。
でも、神様に従って歩んでいく時、肉の欲望ではなく神様が持っておられるご性質に似たものとなっていくのです。
それは、一歩一歩遅い歩みであり、時には落ちてしまうことすらありますが、失敗したら悔い改めて、そこからやりなおせば良いのです。
また、それぞれが持っている傷がいろんな働きの妨害になっていることがありますが、傷のない人間はいません。
その傷は、神様によってしかいやされることはありません。私は、前に「どうしてこんなことが許されたのですか?傷をいやしてください。」と、真剣に祈った時、いやしを求めるのではなくそれを許された神の主権を認め感謝しなさい。そうすれがいやされます。」と示されたので、感謝して行きました。
その結果、いつの間にか傷がいやされていたことに気づいたのです。だから、傷をそのままほっておかないで、傷ついたことや傷つけた人のことを感謝して行き、自分自身の内側を整えて行きましょう。
そうでないと、これから日本に信仰復興であるリバイバルが来た時、人々を受け入れる私たちの内側が荒れていては、折角来た方々を跳ね飛ばしてしまうことになりかねないからです。
Ⅰペテロ3:9「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、帰って祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」
私たちは、自分に何かひどいことをした人に対して仕返しを望むものです。
右の頬を打たれたら、左の頬をも出せと言われたイエス・キリストは、ご自身何の罪もない神の子なのに、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかってくださいました。一切言い訳もなさらず、毛を刈られる羊のように、ただ黙って父なる神様の御心に従われたのです。
自分を攻撃してくる方に、報復を与えるのではなく祝福を祈った時、相手がそれを拒否するなら、その祝福は2倍になって帰ってきます。
私たちは、ある時には誤解されいじわるされることが許され、誰からも理解されない所に追いやられることがあります。
しかし、天ではすべてを見ておられる方がいらっしゃいます。この神様の許しが無くては、問題は起きてきません。
また、問題の中でどのような対応をするのか、私たちは神様に見られているのです。
だから、この問題は私たちの祈りが強められ、より神様と近づくことになり、感謝が強められ、信仰が固くされるチャンスの時なのです。