marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(534回目) (その2)「あの世のこと」を考えていた

2018-08-15 10:46:08 | 日記
 日本おけるいわゆるお盆に最も近い日曜日をキリスト教会では、「永眠者の記念礼拝」なるものをおこなっています。

◆「永眠者」とは、文字のごとくイエスを信じてこの地上を生き、天に帰った者は肉体は地上から消えたが天(ここにおける天とは距離的に遠隔や空間、時間など、つまりこの三次元的な物理的「場」とは異なる次元のようです)に於いて彼が再びこの地上に来られて、起きなさいと言われるまで眠っている人々ということになります。彼が再びこの地上に来られるときを「再臨」といっていますが、そのとき天使のようになりしっかりと、物理的感覚としてもクリアーに理解され復活すると言われます。 先、532回目の最後にイエスの言葉を書きました。
「『次の世に入って死者の中から復活するにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちはもはや死ぬことがない。天使に等しいものであり、復活にあずかる者として神の子だからである。・・・神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。』」(ルカによる福音書第20章25~38節)
 ここに於いて、過去の地上に生きて(肉体として)死んだ人は、肉体が亡くなっても今も生きているのである、ということを語っているのです。どういう人が・・・それは前に書かれている「復活するにふさわしいとされた人々」という。
◆何度か書いてきました新約聖書に於いて「生きる」とか「死ぬ」という言葉は、この肉体とは異なる次元でその生かしめている神の霊に繋がっているかどうかに掛かるようです。ですから、新約聖書(イエスがわれら人の命を生かしめている神の霊との関係を示された物語)において、この神の霊(これをイエスは明確に体現して示された)を念頭に置いて読めば、イエスの示された「永遠のいのち」ということがより深く理解されるように思われます。
 つまるところ僕らが目に見える人が生きていてもその霊を知らないで離れている人を「死んでいる人」、同じく神の霊と繋がっている人を「生きている人」と言われているようなのです。しかし、誰が?というその判断基準は被造物である不完全な僕ら側にはありません。聖書には、そのように読める箇所もあるが、その判断は決してこの不完全なこの地上の人の側に委ねられていないのです。宗教改革者、カルヴァンの「予定説」なるものの不人気さは、時代背景として仕方なかったか知れませんがここにあります。
◆断然注意すべくは、それならクリスチャンは全て天国にいくのか、そうでない人は行かないのか、他の宗教の人は、地獄なのか、あるいは迷う霊になるのか・・・ですが、それこそ、どのような宗教であっても、地上の肉なる人である僕らには分かりませんということになるのではないでしょうか。これまでの歴史に於いて、ゴミのような人が天地を創造された神の摂理(法則といってもいい)をわずかにかいま見たところで、天下ををとってきたように人々を裁き、争いを起こしてきたことをよくよく考えて見なくてはいけない。今もそうです。
 ただ一つはっきりしていることは、新約聖書のイエスは僕ら生命のあるその霊としての法則を明確に示された、もっとも永遠に生きるその霊との近道、否、その道そのものを示されたということです。これをキリスト者は、他の宗教を否定することなく一方的に声を大にして主張し続けるのです。
◆ここでも困難は、聞いた人々は一般化され流布された知識からは彼に近づくことができるでしょうが、しかし、彼は生きているのです。人それぞれがイエスというその方と直截、会話するまでにならないと、今も捜せばありあまる程の流布されている聖書の知識に流されて胡散霧散となるだけです。そこに、イエスが言われた「自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」というその自分を見つめるその言葉が要求されているのです。・・・ 続く