親愛なるJへ (2019年は今月3月6日から受難節に入りました)
◆年齢により仕事の一線から外れた僕なのだが、今も勤める工場において品質の外部監査が行われ中。 さて、僕があと数ヶ月で完全フリーとなったら、もう少し体力的にもへばらなくて、そう僕の残りの人生の3分の1を始めようと思うわけだ。御両親様を天国におくるためだったと思われくらいに今までの人生の時の3分の2を費やしたように感じている。自分の人生の困難さも含めて、僕のブログに時折でてくる、親を選べないということ(悪い意味ということではなく)・・・これはあたり前のことなのだがあえて言葉で、文字でそれを書かねばいけないということは、僕の追求している、人が生きているその通奏低音のような、つながりの目に見える肉体は、自分では選択のしようが無いという前提と、それを受け入れるに意味を見いだすため、つまり積極的な自己肯定を見いだそうとする暗中模索の時代を過ごしてきたということである。まったく僕は、一旗揚げようとか、好きな趣味を活かしたりして人生を楽しむなどということは、やはりというか到底できなくて、むしろその暗中模索が、僕の今までの人生だったと考えれば考えられなくもない。何しろ、考えをもって積極的に生きようと思えば、心臓がえらく痛くなって、情緒性はかなり不安定になり真昼でもすごい恐怖感に襲われるときがあったから、小さいころからそうだった。
◆だからというか・・・キリスト・イエスに僕が引かれるのは彼の癒やしの話にでてくる「生まれつき目が見えない」とか「生まれつき足が悪い」とか、というような当人が選べない肉体の制約を、イエスは解放する、癒やすという場面なのである。まさに、イエスは、肉体の本来の回復を起こすわけなのだが、当の原因でもあろう神との和解、あなたの罪は許された、という言葉で癒やすのであった。
◆肉体を癒やすことと、罪を許すこととどちらがたやすいかとイエスは問う。イエスは「私には罪を許す権威がある」というのであった。罪が許されるということは永遠の許しを得たに等しく、肉体というのは被創造物の一時の借り物に過ぎないと考えるとイエスが何を言いたかったのかが理解されてくるように思われたのだ。人生80年も生きるだろうか? そのひとときの肉体の回復より(無論、生まれつきの障害から癒やされることは願っても無いことなのだが、それ以上に)永遠の世界で完全な肉体をいただいて生き続ける方がいいだろうと誰しもが思うのではないだろうか。
◆だから、彼イエスは矛盾したと見えることも言うのだ。「精神を尽くし、思いを尽くし、主なるあなたの神を愛せよ。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」とこれは黄金律と呼ばれているそうなのだが、次のようにも言っている。「自分の十字架を負って我に従え。(更に、その前の記事には)自分の命であろうともこれを憎まないなら私の弟子ではありえない(ルカ福音書14の26)」。そして、昇天の際、弟子たちに「世界に出て行って私の弟子にせよ」と言う。・・・これをどう読むべきか。そこにはどうしても不完全な人という生き物の、神の似姿に創造されたと言われた人という生き物の不完全さ、これは神から離れたからなのだという理由がつけられるのだろうが、だからどうすればいいのだ、という答えを求める追求が無意識のうちにも誰しも心底にあるのではなかろうか・・・・それが人それぞれとしても宗教性(無論、既存のものばかりではない)を求め続ける持ちとなるのだろう。キリスト者はそこに自分の限界、自分の為にかかられたキリストの十字架(その痛みを同期する)を見いだすのである。
◆そういう生き様の中で最終的には、イエスの父なる神は、地上のすべての人類を取り巻くすべての障害からの脱出の推奨がなされているように思われるのだ、最後には自分自身からの肉体からの脱出を心がけるよう(これが新訳聖書で言いたい内容と総括できそうだが)、神の言葉を聞く者に勧めをしているのである。誰でもが地上の肉体を脱ぎ捨てる死を迎えるのだから。だから、キリストの十字架以外には永遠の世界への救いにはあずかれる方法はない とキリスト者は考える。彼は復活し、その復活はまさに不思議なぼんやりしたものではなく今、あなたが目で見て、触れているように、そのように復活するのであると。しかもすべてがベストな状態で・・・。彼を信じた者は、この地上で死んでもその霊がうろうろすることはない。次の復活の時まで、眠り続けるのであると。そして目覚めた時、次の世界で彼を信じた多くの人々と再会できるのだ。
ここまで付き合ってくれてありがとう・・・では、また
◆年齢により仕事の一線から外れた僕なのだが、今も勤める工場において品質の外部監査が行われ中。 さて、僕があと数ヶ月で完全フリーとなったら、もう少し体力的にもへばらなくて、そう僕の残りの人生の3分の1を始めようと思うわけだ。御両親様を天国におくるためだったと思われくらいに今までの人生の時の3分の2を費やしたように感じている。自分の人生の困難さも含めて、僕のブログに時折でてくる、親を選べないということ(悪い意味ということではなく)・・・これはあたり前のことなのだがあえて言葉で、文字でそれを書かねばいけないということは、僕の追求している、人が生きているその通奏低音のような、つながりの目に見える肉体は、自分では選択のしようが無いという前提と、それを受け入れるに意味を見いだすため、つまり積極的な自己肯定を見いだそうとする暗中模索の時代を過ごしてきたということである。まったく僕は、一旗揚げようとか、好きな趣味を活かしたりして人生を楽しむなどということは、やはりというか到底できなくて、むしろその暗中模索が、僕の今までの人生だったと考えれば考えられなくもない。何しろ、考えをもって積極的に生きようと思えば、心臓がえらく痛くなって、情緒性はかなり不安定になり真昼でもすごい恐怖感に襲われるときがあったから、小さいころからそうだった。
◆だからというか・・・キリスト・イエスに僕が引かれるのは彼の癒やしの話にでてくる「生まれつき目が見えない」とか「生まれつき足が悪い」とか、というような当人が選べない肉体の制約を、イエスは解放する、癒やすという場面なのである。まさに、イエスは、肉体の本来の回復を起こすわけなのだが、当の原因でもあろう神との和解、あなたの罪は許された、という言葉で癒やすのであった。
◆肉体を癒やすことと、罪を許すこととどちらがたやすいかとイエスは問う。イエスは「私には罪を許す権威がある」というのであった。罪が許されるということは永遠の許しを得たに等しく、肉体というのは被創造物の一時の借り物に過ぎないと考えるとイエスが何を言いたかったのかが理解されてくるように思われたのだ。人生80年も生きるだろうか? そのひとときの肉体の回復より(無論、生まれつきの障害から癒やされることは願っても無いことなのだが、それ以上に)永遠の世界で完全な肉体をいただいて生き続ける方がいいだろうと誰しもが思うのではないだろうか。
◆だから、彼イエスは矛盾したと見えることも言うのだ。「精神を尽くし、思いを尽くし、主なるあなたの神を愛せよ。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」とこれは黄金律と呼ばれているそうなのだが、次のようにも言っている。「自分の十字架を負って我に従え。(更に、その前の記事には)自分の命であろうともこれを憎まないなら私の弟子ではありえない(ルカ福音書14の26)」。そして、昇天の際、弟子たちに「世界に出て行って私の弟子にせよ」と言う。・・・これをどう読むべきか。そこにはどうしても不完全な人という生き物の、神の似姿に創造されたと言われた人という生き物の不完全さ、これは神から離れたからなのだという理由がつけられるのだろうが、だからどうすればいいのだ、という答えを求める追求が無意識のうちにも誰しも心底にあるのではなかろうか・・・・それが人それぞれとしても宗教性(無論、既存のものばかりではない)を求め続ける持ちとなるのだろう。キリスト者はそこに自分の限界、自分の為にかかられたキリストの十字架(その痛みを同期する)を見いだすのである。
◆そういう生き様の中で最終的には、イエスの父なる神は、地上のすべての人類を取り巻くすべての障害からの脱出の推奨がなされているように思われるのだ、最後には自分自身からの肉体からの脱出を心がけるよう(これが新訳聖書で言いたい内容と総括できそうだが)、神の言葉を聞く者に勧めをしているのである。誰でもが地上の肉体を脱ぎ捨てる死を迎えるのだから。だから、キリストの十字架以外には永遠の世界への救いにはあずかれる方法はない とキリスト者は考える。彼は復活し、その復活はまさに不思議なぼんやりしたものではなく今、あなたが目で見て、触れているように、そのように復活するのであると。しかもすべてがベストな状態で・・・。彼を信じた者は、この地上で死んでもその霊がうろうろすることはない。次の復活の時まで、眠り続けるのであると。そして目覚めた時、次の世界で彼を信じた多くの人々と再会できるのだ。
ここまで付き合ってくれてありがとう・・・では、また