marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その3)ミニマリストと貧乏症:僕らの生活と資本主義

2024-09-22 09:14:32 | 日記

 僕らの日常、政治、経済、そして食べること。

僕が時折、共産党のことをコメントするのは、あまり勉強しとらんけど、マルクスやヘーゲルなどを基本に古典哲学からイデオロギーの基礎を固めているのであれば、「自由」という言葉や、自信があるのなら「社会主義」などとことばを若者に簡単に流布しないほうが、潔よいのではないかと思うこと。

「哲学」から来たのであれば、その「言葉とその考え自体」を哲学して欲しいと願うがためです。「戦う哲学」まで言葉を駆使して欲しいのですね。

理想を追求する、プロセス過程を追及する、常に是正を求める党である、とするならば、哲学においても、理想論ばかりでなく、国を守りたいのか、人類の普遍性を求めるのか、そこにどういう問題が生じてくるのか、もっと「人間学」について、追及していって欲しい。(それをどこまでも追求すれば、必ずキリストの死に結びついていくと僕は思っているのですが・・・。大体、彼らの哲学はそこが起源)。

誰も12000年も続いた、争いの無い時代と言われる縄文時代に戻ろうとは思わないだろうから、資本主義のぶら下がりの基に、その後の社会を求めても、到達点には行きつかないように思う。

出来事の結果系で文句を言っても、なかなか難しい。現状の不正に対する抵抗、講義は大いに結構。しかし、「解放」を掲げる「哲学」(考え)は、それ自体に先条件を設定してしまっているのは、そのこと自体がおかしい。「共産主義」という言葉で、実情を解決するには自己矛盾が生じてくるように思われ・・・、というのは、主義を掲げること自体、すでに「自由」ではなくなるから。

「社会主義」と同じです、と割り切ってしまわないと苦しいところがありますね。今は、「社会主義」という文言を、話の際は、「共産主義」の前に着けるようになりましたがね。

僕は、もっと政府の不正や欠陥を糾弾することには、そして、憲法を守り平和を求める考えには、大いに賛同するものです。それ故、せっかく、キリストの死からなってきた政治哲学までの歴史の強化を、もっとこの国にも根付かせて欲しいと思うし、だからこそ、簡単に「自由」だとか「社会主義」と同等だ、などどいい始めないで欲しいと願うのです。

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それで、貧乏性なんですが、哲学を論じ、社会を変革しようと心がけるのであれば、もっとそれらの学問から派生して、いまの自民党も、まずは、憲法自体の言葉についても、もっと真摯に考えるべし、と思うんですがね。政治哲学なんてないのね。  で、身近な僕らの生活は、次回・・・

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・・・と、ここまで書いて、共産党員の知人から、これから駅前に小池さんがくるんだけど(11時から)、聞きにいかないか、とお誘いの電話があった。

返答:「今日は日曜にですよね。日曜日は、ダメです。これから出かけますので・・・」

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今日は朝から雨である。

 



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