marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(570回)<No.2>親愛なるJへ 『般若心経』を聖書的に言えば、ひと言「肉の思いは死なり」

2019-07-19 08:55:40 | 日記
 
世界のベストセラーを読む(522回目)(その1)「潔めを受けつつ、栄えに進み」 告白の背後にある本当の出来事に目を留める

 掲載したかったメッセージの抜粋を以下に記します(以下◆の以降となります)。これは、日本基督教団出版局『信徒の友』『こころの友』編集長の林牧人牧師の地方教会での130周年記念礼拝に......
 

親愛なるJ

 添付のメッセージのお話は1日の内の小一時間のものですがブログの添付メッセージの文章は5日間連続で続いています。是非続けてお読みください。個人のブログなどはどうしても本人が気づかない癖のある思考が絡んでいるものですが、そのメッセージ自体は教会という場所で信徒とそれ以外の方々に公開されている内容です。聖書はいわゆる「聖」である理由はここにありです。教派的にはJ・ウエスレーのメソジストです。

世界のベストセラー聖書をどう読むかは、自分の言葉でイエスの言葉とどのように会話するかにかかっていると言っていいと思うのです。ところが、みんな人が書いた参考書をすぐにひっ張り出してくるのです。そんな時間が経過すると、その人の書いたものに、又、解説がつき始めるのです。それが流布され、それが正解となるのです。ですから、未信者が先生はどう読むのですかと尋ねると、このように解釈されている・・・とか言い始め、自分の言葉でない公になった古い解説を説明しだすのです。それでも一応、神様に携わる人だから尊敬のそぶりをしなくてはいけない。あのルターは神学には試練が必要だと言ったのです。フォーサイスという神学者は教会形成には神学が必要だと言ったのです。人それぞれ違うように、教会形成も異なるでしょう。この地上に存在する者は弟子と言われる方々でも自分の十字架をみんな背負っているものではないでしょうか。真理はひとつでも啓示は時代、国により異なるでしょう。そこでも彼(イエス)はその人類舞台での演出のインフラのすべてを我々に提示されたということです。黙示録がありますね。それに書かれているパトモス島のヨハネが書いた教会への神からの評価のどれに該当するのかくらいは良く考えて見る必要がありそうです。決して人々にはイデオロギーのようにこれだとあからさまに姿を表さない。

◆  無論、これは信仰的に言ってというと真逆のようですが、僕のようなド素人からすると、イエスの言葉に、僕ら人としての生き物がそのまま鵜呑みにすれば不条理極まりないものがあるように思いますね。選ばれたと自認する牧会者は、恐れ多いかどうか知りませんが、そのことを自分の言葉で捉えようとしていないのではないでしょうか。恐れ多いのかどうか知らないが、回答が得られないのです。とすれば、周囲の人間はそれ以上の触らぬ神にたたりなしであろうと思いますね。恐れ多いから「神に委ねよ」となるのでしょうか? 僕などは自分が委ねる何者なのかも知り得ない。ようやく罪と呼ばれる欠陥見えてきたところです。この国には、彼(イエス)を信じて(その度合いは僕らには分からない)、喜んで死んでいった人々がいたということですね。こんなおかしなことがありますか!

◆それでも自分の言葉で宣べ伝えるという弟子達の言動に不思議にも多くの心の中で目覚めたいと願う人々が共感するのです。それには、かなり後ろ向きの自分の十字架を理解する省察をかなり日々、生活の中で詳細に行って行かなくてはなりません。この限界を知ったら自分の魂が天国に迎えられるであろうこの地上での霊的改善を伴うシステムが見えてくる。そこに聖霊という介在の必要性も訳の分からんものとしてではなく見えてくる。他宗教ではこれをストレートに実行しようとするのが肉体を酷使するいわゆる修行と呼ばれるものだったのではないでしょうか。キリスト者は、まず聖霊の介在を願うべく、毎朝、祈りから始めるのです。自分の言葉での彼との対話です。

◆イエスの言葉の不条理というのは実は、聞く我々への神からの挑戦なのではないでしょうか。解説では無く、まさにあなたはどう生きるのか、何を信じているのか、です。「自分の十字架を負って我に従え」と言われましたね。自分の十字架の認識。なんとマイナーな後ろ向きの省察なのだ。しかし、大変な試練の中で選ばれし民族は、世界に神を不完全な人と言う生き物の言葉を使わずして生き様で神の概念を広めていった。彼は、あからさまに姿を見せない。地上の不完全な表せば消えていくエリートらによる定着される文言などには収まらない、もっと次元の高いものだからなのです。この地上において、それにはこの地上においてはなんと筆舌に尽くしがたい試練という逆説があったことでしょう。さて、・・・

◆この国の仏教の必ずといって唱えられる「般若心経」。これを聖書の記事からひと言言えば「肉の思いは死なり」ですね。いずれも今生の不条理な肉体という媒介をして僕らは生きているからそう思えるのです。よく、考えて見てください。人がイメージで生き、それを肯定するとすれば仏教は先祖の供養でしょう。過去に生きた先祖がともに歩むというイメージ。その物語性。聖書に垣間見られる脱出のイメージ、そしてイエスの厳しいと思われる言葉は、それを遮断する言葉なのです。親の因果が子に報いでもない、輪廻転生は次は天上界の永遠の生のみであると、つまり過去と現在にまとわりつく不浄な霊からの脱出。彼はいうのです。過去を捨てよ、それらは私の犠牲によって十字架につけられたのだ。我に従え、我らを迎えるのは、ただ輝かしい栄光の未来、天上の永遠に生きる世界なのであると・・・  今回は長くなってしまいました。健康に留意されてください。 Ω