草彅 剛の名前の名字「彅」の由来は、東北制覇に任命されたあの源義家にちなんだものらしい。NHKの「日本人のお名前」で出て来て、その名前の由来は秋田市内から13号線にのって田沢湖にいく途中の民芸座の「わらび座」が近くなって来た道沿いにその名前の部落は確かにあった。草彅部落と表示されている。昔、名字をもらうということは大層名誉なことであった。その部落民が、義家が通るために雑草の草刈りを総出でおこない、協力したがゆえにその「草彅」という名字を義家に賜ったということだった。義家は弓矢の名手で、その行先の草をなぎ倒して前を切り開いて、道を開け続けた故にその褒美として、分かるようにと「弓」(これは義家)の「前」の草を「刀」で「なぎ」倒して道を開いたから、この漢字が作られつけられたのだそうである。◆ところで、どうしてあの時代、彼は八幡太郎義家と言われたのであろう。八幡という名前そして、鎌倉幕府が開かれて今もそこにあるのは「八幡神社」である。「源」は、元々、八幡信仰なのである。それで、調べていくと日本中にある八幡神社の八幡とは、古来、多くの技術集団を持ち込んだ秦氏が信仰する神であったということが「神道大辞典」などに数行書いてある。その他、千葉にある同時に鹿島、鹿取なども古代帰化人が持ち込んで定着させたものだという。神宮という頭がついているから伊勢神宮と同格のクラスの高い地位の神社だった。その点、八幡という名前は至る所、神社や山や土地の名称、住所にまでそれがある。古代、秦氏はあたらし国作りをこの島国につくろうとこの国の隅々に使者を派遣したんだろうな。大変な技術を持った大集団だったらしいから、守り神である八幡(一節は、ヤー<旧約の神>ハタ<秦>)を意味したんではなかろうか。秦氏は、youtubeなどでも見ることができるが、中国の歴史においても「秦(しん)」という法律により統一した国を作り、自由を求めたその後の漢に敗れたが、その際、多くの秦の末裔がこの国に来たのあった。雅楽の東儀さんがいるが、はっきり祖先が秦の末裔であると話されている。◆聖書などを長年学んでいると何故なのだろうと疑問がいっぱい湧いてくる。新約聖書は、パウロが現在のトルコから西に福音を伝えて、西欧のキリスト教国の礎をつくった流れがあるけれど、起源前、ヤコブ12部族はモーゼからエジプトからの脱出ののち今のカナンの地に割り当ての地が与えられた。もともとカナン人が住んでいたのだがそれが今ももめている元凶。最終、北イスラエルと南ユダに分裂、アッシリヤやのちにバビロン捕囚などで国はなくなり世界に離散することになるが(紀元前)、北、南以外の残りの10部族は東への大移動があったらしい。今のイスラエル国歌にも東へ向かうという言葉があるらしい。秦の国の成立の歴史を見るともともとはあの戦国群雄割拠時代、西から来た牧畜民族であったと言われている。王に取り入るよう画策するロフイという男はレビ(ユダヤ人レビ)であったろうということだ。それぞれの部族は、移動式の礼拝所、それを司るレビ(司祭)がついて回り、それが最終日本に順次、渡来し帰化してそれぞれの神社を創建したものだろうと。◆レビは世襲制であったように日本の神主も世襲制である。帰化したレビは僧として天狗としても知られているが、平和であったが14000年も続いた縄文時代、この日本に歴史を進ませるために革命や画策をしはじめるユダヤ人が神の摂理として多く帰化したその黒子としてこの歴史の背後からこの国に姿をあらわしたのであった。この国に順次来た部族は、理想の国作りを目指した、中には中臣鎌足(後の藤原)のように天皇を巻き込み、仏教を政治に利用し、一族繁栄のみを画策した逸脱した帰化人の流れもあったが、底辺なるこの国の深層を流れていたのは、国土の平安で争いのない平和で豊かな国作りを目指したのであった。だから古代に大国主の尊などの国譲り物語などがあったのだろう。◆太陽が昇り、あがめる山々が有り、清い水の流れる川が流れる島国。日本の戦乱の世、その背後には長い将来を目指したそれは、古代神道が旧約聖書に係わる天地創造なる唯一の神の御心をもって理想の国作りをした決して表には出てこない、歴史としては文字に表されないこない黒子の思いが流れているのである。「源」は本来の源流を示す根のようなものだと、いざという時には政治も党派も関係ない唯一の神への思いをもって結集する。だから、それにそぐわないと思った時は、延暦寺も焼き討ちにし(織田信長)、上皇も島流しにし、平家にあらずば人にあらずと豪語した平家も滅ぼし、平等院鳳凰堂(個人のみの安楽)や同じ渡来の血をもち古代から天皇に食い込み、仏教を政治利用で画策し続けてきた藤原一族を岩手平泉で「源」は征伐したのであった。◆平和を願いもっとも長い武家社会をつくったのは260年つづいた徳川政権であろう。徳川家も「源」を名乗っているのである。源家茂などと書かれた手紙がきちんと残っているから。幼少の頃から人質に取られたりし辛酸を嘗めた家康が、どうして松平から徳川をなのったのだろう。その起源は、在原が旅の僧を養子としたことから始まるが、これがまさに黒子(レビのDNAを持つ)だった。そして、背後にあってサポートし続けた天海という謎の僧、天台宗といわれるが彼もそうなのである。この国の精神性には争いを好まない、しかし、同時に生き物としての怠慢さを併せ持つ人の歴史を考えた時、僕は神様というのはどうしたものか知らないが、そういう人類を創造され実際歴史を動かす神という存在をひとりのこらずこの国の人は何がしか感じ持っているのではないか。この国の歴史を学ぶとき、切った貼ったの行動を起こす思いの裏にとても次元の高い、あるはとても深い深層なる理由が流れていると思わざるを得ないのである。・・・
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