marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(568回) (神学者)『野呂芳男』と (歴史学者)『田中英道』

2019-07-17 05:54:02 | 日記
 
世界のベストセラーを読む(519回目)(その1)不条理を解明しようとすることが人として生涯を生き通すことなのだ

 西日本では大雨で又、大変な被害。この国の地形の移り変わり、ぼくら人の手では如何ともできない天災について。ともかく犠牲は最小限に、早く復旧されることを心から願います。 僕のいると......
 

◆1年前を振り返ってという添付文書がついている画面は、投稿文書の文字数が限られているようなので(文字を小さくはしているのですが)、表題の結論のみを記録に残したい。自己アイデンティティーを求めてきた僕にとって追求してきたことがらが、公になって(僕個人の中で繋がりはじめて)きているようで嬉しく思いました。それを箇条書きにして記録にとどめます。2点。

◆1942年、小説「異邦人」や「シューシュポスの神話」で「不条理の哲学」を打ち立てたカミュを評論している野呂芳男という神学者の「民衆の神 キリストー(実存論的神学)」:ぷねうま社 <2015年第1刷> に次のような記事がありました。・・・p24「・・・カミュのキリスト教理解は主にローマ・カトリシズムからきているもののようである。ローマ・カトリシズムの神観は、言うまでもなく中世的であって、客観的・世界観的に神を認識しようとの努力である。神を世界観的に認識する以上、そのような神の支配する世界には究極的には、不条理は存在しないは筈である。ところが不条理は厳然と存在するのであるから、もし神が、この神のこの世界の究極的な支配者として世界観的に考えられるならば、殺神(deicide)こそ人間の義務であるとカミュは主張する。・・・私は、カミュの世界観的なキリスト教へのこの反逆に賛成する。・・・」

◇僕が、以前ブログの中でシモーヌ・ヴェーユのことを書いた時、彼女がカトリックでなくプロテスタントであれば、違った思想形成をされたのではないかと書いたことがあった。これに通ずるものであると僕は思う。中世・・・そう、現在もエキュメニカルなどで人の良心に繁栄されるであろうと神観に訴えかける人の思いを一緒くたする中にも、少し待った方がいいと語っているのが実在するキリストではないかと僕は思っているのです。

◆歴史学者 田中英道、この先生の連続講義は、youtubeで流れていますのでご覧になれます。キリストを知った今では殆ど霊的雰囲気をあまり感じなくなったのですが、日本中になぜ似たような名前の神社があるのか。作りが何故似ているのだろうかとか、あちこちにある石の板碑、古代からのこの国の人々の信仰心というもの、それが今の人々の心の中につながるものがあることにも心引かれていましたので、講義の中で「日本人がキリスト教を信ずる底辺には古来からの神道が流れている(話の中で曾野綾子や渡辺昇一も出てきたところも面白い)」と語られていたところに僕はまったくそうだと同感したのですね。イスラエルの失われた10部族の話や日本中にある(僕の田舎にもある)八幡神社や聖徳太子のブレーンだった秦河勝など、僕が考えてきたことにすべて繋がってきているようでとても嬉しく思ったのです。 ・・・


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