カミュ『異邦人』小説ふうに・・・昨日は書きかけで、日常の雑事の消化に負われてしまう。雨が降っては出来ない事も多数あり、で・・・
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5月中に完結して新たな季節に備えようと考えていたが、昨日は太陽がとてもきれいで(といっても直視出来る訳ではないから気分的表現ね)室内にいるのがとても時間的にもったいないと、主要な内容議事が終わったら、締めの「祈り」が終わる前に僕は会議が行われている礼拝堂から断って出てきてしまった。殆ど空には雲はなく、青空もとてもきれいで燦々というイメージがぴったりの太陽の光が木々の緑を反射させて外はとても気持ちがいい。
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宗教オタク(これはとても失礼な言い方になるな、で小説ふうなので以下お許しくだされ)であるならまだしも、とても真面目な実は心に悩みがあってその解消に神を信じているとかだったりして、でもこれも心の中なので分からないこと、ああ、これも失礼な言い方だが、いずれにしろその人がどういう身の上心情の人などに係わらず、標準的なお勧めは「イエス、つまりあの方を信じなさい」ということだ。無論、盲信ではなく説明が自分の言葉で出来なければいけないとうことが肝心なところ、いくいく(漸次)にしても。ここにおいて実は、異邦人にとっては、心の中の成長過程で?長い長い道のりがたいていはあるらしい。
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若いご夫婦であるなら、幼いお子さんが居られる場合、教会の尊いお役目になることは、お勧めしないというか、神様がお与えになってくださっているこの季節の自然の恵みに感謝して、それを体験、このような良き日、自然の草木の歓喜に共に家族共々、預かることの方がよほど神様はお喜びになられるのではないかと思ったりしたことが、何度かあったものだった。つまり、いろいろなお役目に推薦されてしまい、異邦人にはまさに貴重な休みの日の、しかも天気のよい日に礼拝後に教会に残ってご奉仕をしなくてはいけないとは・・・神様にご奉仕か、それとも神の創造されし自然のこの良き日を家族とともに太陽のよき青空の下、感謝すべきではないのか、というような心が異邦人であった僕などは、時折思ったものだった。
・・・ということで、これは誰しもが神と対等に対話するために(異邦人が)自律する途中では経験する事らしい。神様と対等にお話すようになるために些細な、けれど本人にとっては大真面目な事柄にもなる些細なことは他にも沢山経験していくのであるが、こういうことがあるから、キリスト教は嫌なのだと思う人が実は多いのではないかと、特に若者。それは当然、人生という個人史の中で若者は可能性の塊であるわけだからいきなり、いくら長い長い歴史があるとは言え、しかも内容的には自分の内省を迫る言葉を要求されるのであるからたまったものではないと感ずる訳だ。だから、逆に自分に係わる障害、苦難、困難をもっている方が「人生への何故」を自分の言葉で答えを得ようとして自分の言葉を模索する・・・途中でやめる事をしなければ、イエスの十字架にぶつかる。詩篇119編「苦しみあいしは我によきことなり、汝(神)の掟を知りたり」となる訳です。
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ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」という小説ではないが、押しつぶされそうな気がするものだが、実は、生まれつきの宗教的人間という方には、ストレートに信仰を持つ方もいらして、そういう方は母の胎の中から選ばれしとあるように、ま、そう方も居らることは、文句を言わず、まず聞きなさい、と神は言われていることも通ずる訳だ。いずれ、その段階からは、自分の悩みからもっと、人という生き物は・・・とかなり高い次元の考えに以降していく訳である。思考する人間は誰しもがその時点まで登って行き、具体から抽象への概念を考察していくようになるもので、まだ、その段階に行かない方々は、その人には、その時点で、何故、そのような態度、対応をとるのかも分からず、不安となるから、その場、自分のその時点で裁判官となって決め込んでしまうのである。
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ところで、僕は陪席での参加だったのだが何やら必ずこういう集いには落ち度があるのだが、会議の始まる前にやはり、資料を突然、41部コピーして欲しいのですがと言われ、つまり、準備するのを忘れたらしい、で急いでやってお役に立ったのが参加してよかった一つである。必ず、詰めの弱い方が居られて、どこか箍が外れているのであるのは、異邦人である世的厳しさから守られて許されていると思われるのか、観念的空論で満足する傾向に成りやすいもので、こういう意味では、世においては困難があると、厳しさを体現していないのは、また、準備に落ち度がありましたね、小事に忠なれば、大事に忠なりで・・・。僕などは、むしろキリスト教からかなり世的な合理性を学んだのである。マックス・ヴェーバーなどを少しでもかじってご覧なさい。目から鱗です。
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誰でもの日常の課題。あれやこれやと雑用があって、と書くと、それでは本筋は何かと言えば通常は日常の生活、それつまり、生活の糧を得るための手段であるところのお金、つまり給料をもらうところへの社会の組織への自分の時間の提供に対する対価を得るため。例えばこれは考えの一例なのだが、人が生きる目的とか、手段とか、その途中の思いとか諸々、無論それ以上に意識化できない(つまり言葉にできない)限りなくあるその行動の起因となっている理由。結局、考えを抽象化していくと「手段を得ることが目的だった」というのは人というものは一体何なんだろうねぇ・・・
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古い課題と言えば、科学技術徒やらで僕ら人の環境が如何にその人の五感を満たすために発達しようと人の脳みその延髄とやらは、つまり古層の基盤は有機物質としては替わらないのだが、外部環境の刺激により神経系に変化をもたらし単線から複線、さらに無数に複雑になりマルチタスク(同時に仕事をこなす)に適応すべく、脳神経系は発達を遂げていく。でも、心情(情緒性)に関する人の、それは言葉にできないするとすれば、これがまさにこの国では、これがくせ者であることを心すべし。
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そんなことを考えている人間は暇人だけだろうよ、とKがいう。
カミュの異邦人のムルソーは、女に対する性的な欲求はあるのだが、それを世的ルールに当てはめて結婚することを願う女に対して、そんなことはどうでもいいのだが、と面倒くさいことは嫌になるという主人公。アラビア人を殺してしまい、それが太陽のせいだといい。懺悔を聞きに来る司祭にたいしても自分の肉体を自分で納得しているのだから抹香臭い面倒なことはやめろと胸ぐらをつかみ追い出す。そして、気分がすっきりしたと、死刑を待っている。
思うところ、太陽の暑さ(湿気やそのためのだるさやいろいろなイメージが混在)に肉体のに思考が引きずられ、思考の神経系が脳みそ、前頭葉に行き届かない。脳神経回路、図では時折見る骨の関節のような形のシナプスという橋渡しをするドーパミンやらの伝達物質が総じて肉体の疲れという、それも厳密らしく言えば疲れのため、脳神経系がオーバーヒートしたため機能しなくなったという状態と言えばいいか。それで、カミュの手帖を読むと彼は、実際、結核を患っていた時があって、実はこれが肉体に引きずられているのであったのだろうなと思った次第であった。
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連休に入り、今日もいろいろ諸行事に参加、その間、家のあちこち傷んだ修理を業者に頼まずDIY補修する。・・・