今はすっかり雪化粧なのだが秋の海を思い出し、雪が強く降り始め、今は懐かしい風景。
彼の著作とつきあうと、内容を理解する、理解してもらうために限りなく解説だけで終わりそうなので、ハイデガーが本を著そうとした深層に強い宗教性があったとすれば、逆に彼を理解するためには巷に売られているテキスト(聖書)から理解することを試みればいいと思ったしだい。
理解するための先理解(前提)の共有化が図れるのではないだろうか・・・むろんすべては無理だけれど。それで、ぐっと宗教色を出して要点を書いてみたい。そのヒントは、新約聖書の使途パウロの多くの手紙にヒントがある。
パウロは、当時の文明のそして哲学の頂点であったマケドニア(ギリシャ)に神の啓示として導かれた。僕らが今、聖書を読め、その神学を学べるのはやはり時代を動かす神はおられるのだろうと思わずにはいられない。
これから手紙の箇所をそのまま記載する。そうすれば読む人は、ハイデガーがなぜ『現存在』とか、『世界ー内ー存在』とか、『本来性と非本来性』、『死への先駆』とか、もろもろの言葉が出てきた推察ができるのではないだろうか。その思いの多くは的外れではないはずである。・・・
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