これ、僕の見いだしたハイデガーが『時間と存在』を書こうとした原動力となったベースは、西欧人には当然のごとく流布されていたキリスト教人間学、神学にあり、と思ってみたこと。まず、これが一番の肝の一つ。神学で読み解かれてきたことが、哲学で宗教色を脱色すれば、こういう書き方にはなるだろうな、と思ったこと。もちろんすべてではないけれど。
無論、哲学も実証科学と同様、知られた名だたる先人の哲学者思考の言葉の蓄積をし、新しいもの、先に疑問に思われたことに総括のごとく追記されて行く。それまでに考えられた哲学を土台に思考の深化ごときが行われるのだけれど・・・。
その古代からの根本のことが『存在』。『ものがある』ということはそもそもどういうことなのか、ということだった。古代からの課題だったそうな。
だから、この書物についても、それまでの哲学者がいう、自分を含め、周囲の大衆と自然世界について解くことが、当たり前となっていることがそもそもそれでいいのか、とその常識となってしまった疑いもしなかった思考の土台を根本から壊そうとした説明が書かれる。
自分、周囲(大衆)、世界(自然)について、壊した思考を常識のように、身についた思考論理をもっと分解し精緻に追求してみましょうよ、と迫った代物であること。従って、『人間は・・・』などと説明をしようとすれば、既に読む人の『人間についての先解釈』が、先入観として入ってしまっているから、それも壊さないといけないと。『人間』を先理解を脱色した言葉『現存在』として表記していく訳。
全てにおいてそういう手法をとっていく。あるときは、ニュアンスを伝えるため、言葉の文法も変じていく。専門の哲学者もタジタジらしいから、原文(ドイツ語)にあたらないと本物とは言えないなどというのは、僕ら異国のド素人はまったく蚊帳の外となり、兎に角、なんのことだか??となる訳だ。
こんな感じで冒頭に書いた肝の一つにも触れずに、だだ周辺をうろつくことから始まってしまう本なのだ。両先生の解説本もそんな感じであった。
で、次回から、冒頭に述べた僕なりに解釈した肝の一端を披露して行きたい。・・・ つづく
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