欧米において、紀元前の哲学から宗教を経て、言葉による思考を粘りつよく追及してきた哲学、その原動力となったものは一体何なんだろうと改めて考える。
思考対象として明確であり、むろん、到底考えも及ばないものでも、改めて考えれば我々の肉体に影響を与えている、例えば「光」。それは影を作り、生物の成長を促す力も持つ。
天地の創造で神は「光あれ」との給う(旧約聖書:創世記)。アインシュタインは野原に横たわり、青空にまぶしく輝く太陽を考えた。今までの科学者に敬意を払いつつ。光を数式で捉えられないか。理論物理学、あくまで頭の中だけでの数式あれこれ。
それは世界を大きく変えた。エネルギーは質量に光速の二乗をかけたものと等価であり、しかも光速は不変であると。
天地創造の神に名を尋ねられ、私は「ある」というものだ、と宣われた。ギリシャのプラトンやアリストテレス以来、当然のことと疑問をも持たなかった哲学世界に、その存在にとことん言葉で煎じ詰めようとしたのが、ハイデガーではなかったか。
いづれ、神が創造された人を含めたこの被創造物を、ある者は科学として数式で、ある者はとことん人の言葉で突き詰める哲学として、果敢に挑戦してきた。
何を言いたいのだろうか。被創造物である人は、神の世界を知り、神に近づきたいと今も励んでいる。僕らが勉強するということは、つまるところ全てはそこに行き着くのではないだろうか。
20世紀最大の哲学といわれ、欧米の多くの哲学者に多大な影響を与えたが、日本の哲学本家の先生方もわかりずらい、と言われる、この書物を書いたハイデガーの哲学の根源はどこから来たのだろうか。
学生時代から、いつかは制覇せんとなぁ、などと勝手に思い上がっていたけれど、直接、読んでもチンプンカンプンだったのだけれど、後期高齢者の入り口で、そうか!と勝手に府に落ちる糸がほつれた思いに至ったのであった。・・・つづく
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