軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

軽井沢文学散歩(4)正宗白鳥

2018-06-22 00:00:00 | 軽井沢
 今回は正宗白鳥(まさむね はくちょう)。明治から昭和にかけて活躍した小説家、劇作家、文学評論家。1879年(明治12年)3月3日、岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)の生まれ。本名は正宗忠夫(まさむね ただお)。

 名前は知っているものの作品を挙げてみろと言われると出てこないということで、私には馴染みの薄い存在である。ただ、「現代日本文学大系16・正宗白鳥集」(1969年 筑摩書房発行)には次のような記述も見られるので、代表作が思い浮かばないのは私だけではないのかもしれない。

 「百科事典や文学辞典の『正宗白鳥』の項には、『小説化・戯曲家・評論家』とあるものの、評論家の彼には権威があるが、小説家、戯曲家の彼は、あまり人気がない。
 しかし、小林秀雄は、白鳥の小説は『みなおもしろいよ。ただ正宗さんという人物がわからないとおもしろくない。自然主義ではない。才はないさ。才というよりはもっと違ったものを持っちゃった人だ。』と言っている。
 数年前、私は『正宗白鳥・文学と生涯』という本を書いた時、明治末葉の自然主義台頭期に、花々しく売り出した当時と、功成り名遂げて老熟した年代の彼の本が、どれだけ売れたかを調べてみて、それが近年の純文学の新人にすら、遥かに及ばないのを知って、唖然とした。・・・
 ・・・白鳥の代表作と言えば、何だろう。戯曲なら『人生の幸福』『安土の春』、評論なら『作家論』『自然主義盛衰史』を挙げることが出来るが、小説となると、容易ではない。さきに述べた『何処へ』や『微光』、それに『入り江のほとり』『牛部屋の臭ひ』『人間嫌ひ』『今年の秋』などを挙げるのが、通説であろうが、私に言わせると、代表作がない、というのが彼の特色である。・・・」(付録、正宗白鳥の生涯 後藤 亮)

 一方、軽井沢町の公式HPによると、軽井沢とのかかわりは深く、正宗白鳥が初めて軽井沢を訪れたのは1912年(大正元年)、伊香保を訪れた折のことで、33歳であった。その後、1940年(昭和15年)61歳の時に六本辻に別荘を建て、以後夏を中心に過ごしている。第二次大戦中の1944年(昭和19年)8月に疎開してから1957年(昭和32年)まで同所に住んだということなので、これまでに紹介した室生犀星、堀辰雄、立原道造と同時期に軽井沢に滞在していた。


明治・大正期に生まれ活躍した文士と、その中の室生犀星、堀辰雄、立原道造と正宗白鳥(赤で示す)

 立原道造は1939年に没しているので、軽井沢での正宗白鳥との直接のかかわりはないようだが、堀辰雄が軽井沢に最初の住まいを構えたのが1938年のことで、1941年には1412番山荘を手に入れ、以後、1944年(昭和19年)までは夏になるとこの山荘で過ごしている(当ブログ2017.11.10付参照)から、同時期に軽井沢の住人であったことになる。

 また、室生犀星記念館のパンフレットには次のような記載がある(当ブログ2017.10.13 公開)ので、交流のあったことが知れる。

 「この旧居は、昭和6(1931)年に建てられたもので、亡くなる前年の昭和36(1961)年まで毎夏をここで過ごしました。・・・この家には、堀辰雄・津村信夫・立原道造ら若き詩人たちが訪れたり、近くに滞在していた志賀直哉・正宗白鳥・川端康成ら多くの作家との交流もありました。・・・」

 この交流の具体的内容が、前記の「現代日本文学大系16・正宗白鳥集」に室生犀星が寄せた「正宗白鳥論」の中で次のように書かれている。

 「娘が結婚をするので正宗さんになこうど役をおたのみしようかという相談が、娘や息子や妻やむこの青木和夫の間で起った。堀辰雄君は臥ているし夫人も病勢によっては出席不可能かもしれないから、兎も角、正宗さんより外にはなこうどになって貰う人はいない。・・・
 ・・・その日にすぐ正宗さんをお訪ねして話をすると、私は殊更になこうど役を正面から切り出しもしない世間話のなかに含み込ませて、式も軽井沢で挙げ諸事簡単にやるつもりだと言ったが、有耶無耶の間にどうやら正宗さんは話が解ったらしく、若しご都合がお悪いようだったら出席していただかなくてもいいんですよと遠慮していうと、旅館は近くではあり暇もあるから出ますよと、もう話が決められて了ったように承諾してもらえた。・・・
 おなじ土地の旅館で式を挙げたが、なこうど役というものは末座にすわるようになっているから、正宗さんは先生は此方へとあんないする女中の言葉に、一番末座にきゅうくつそうなフロック姿を四角にたたみこむように座られた。・・・
 式が済むと一人でこつこつと冬の日の往還をかえって行かれるのを、私たちは旅館の玄関まで見送りに立った。肩の上がったフロックの背後姿は正宗白鳥の感じであるよりも、普通の田舎人の感じであった。・・・」

 「正宗さんと私の家は軽井沢でも、二十五分くらいかかる道のりだったが、戦時中、新聞は配達してくれないので販売店まで取りに行かなければならなかった。私の家からは近くであったが、正宗さんのお宅からは浅間下ろしの吹きさらしになっている長い街道を行かなければならず、その街道の冬はさえぎるものがないから、寒さは想像外のものだった。正宗さんは毎朝防空頭巾を深々とかむって、新聞を朝ごとに取りに行かれた。・・・
 防空頭巾といえばそれをかむって歩いていられるものだから、或る時、家で通いの縫物婆さんを雇っていて仕事をさせていると、そこに正宗さんが見えたので婆さんは驚いて、いまお宅に見えた方は一たい何をしている方でしょうか、と彼女は敢てたずねて素性の分らない一老人の身元をたずね、そこで人がらを説明するとそんなに名のある方だとは思わなかった、宅の前を変な格好をして毎日新聞を取りに行かれるものだから、何処で何をしている人かと皆で噂していたんですよ、そうですか、こちらの先生のようなお仕事で、先生の先生のような方ですかと、婆さんはあきれたふうであった。こういう不思議な思いをしていた人は軽井沢ではどれだけいたか分らない、・・・」

 軽井沢町公式HPの文学者プロフィールには、「戦後まもない頃、ニッカーボッカー姿で街を歩く正宗白鳥の姿は有名だった。」と紹介されていて、写真集「思い出のアルバム軽井沢」(幅 北光編 1979年 郷土出版発行)には旧軽井沢入り口を、帽子をかぶり、コート姿でとぼとぼ歩いて行く正宗白鳥の後ろ姿(昭和22年)と前からその姿を捉えた写真(同年)の2枚が掲載されている。

 この写真の頃書かれた小説「日本脱出」は軽井沢が舞台だとされていて、戦時中に山中にある別荘の地下室へ十人ばかりの戦争忌避者が集まって、世忘れの会を催すという小説である。室生犀星はこの「日本脱出」を引き合いに出して、「正宗白鳥は五年とか十年めくらいに、人の気を引きもどして白鳥を見直させるものを書かれていた。戦後の『日本脱出』がそれだ、そういう五年十年めに立ち直りを見せている波の起伏は、自然にそうなっているものか、勉強をしてそうなったのか、・・・」(正宗白鳥論 前出)

 ここで、前出書などから主に軽井沢との関連項目を中心に、正宗白鳥の経歴をたどると次のようである。

1879年(明治12年)3月3日 岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)に父浦二、母美禰の長男としてまれる。本名は、忠夫。
1892年(明治25年)13歳 9歳から通った隣村の片上村の小学校高等科から漢籍を主とする藩校閑谷黌(しずたにこう)に進む。
1894年(明治27年)15歳 近村香登(かがと)村のキリスト教講義所に通う。ついで、岡山市に寄宿し、米人宣教師経営の薇陽学院で英語を学ぶ。
1895年(明治28年)16歳 薇陽学院閉鎖に伴い故郷に帰る。
1896年(明治29年)17歳 上京を決意し、牛込横寺町に下宿し、東京専門学校(後の早稲田大学)英語専修科に入学。
1897年(明治30年)18歳 市谷のキリスト教講習所で植村正久・内村鑑三の影響を受け、植村正久牧師によりキリスト教の洗礼を受ける。
1898年(明治31年)19歳 東京専門学校英語学部卒業、さらに新設の史学科に入学。ローマ史に興味を持つ。
1899年(明治32年)20歳 史学科が廃止になり、文学科に編入。 
1901年(明治34年)22歳 文学科を卒業。早稲田の出版部に勤務する。この年、内村鑑三に対する畏敬の念を失い、「基督教を棄てた」と後年作成の年譜に自らの手で記載し、後に否定。
1903年(明治36年)24歳 「読売新聞」に入社。文芸・美術・演劇を担当した。
1904年(明治37年)25歳 処女作品となる「寂寞」を『新小説』に発表し文壇デビューする。
1907年(明治40年)28歳 本格的に作家活動に入り、1月に「漱石と二葉亭」、2月に「塵埃」を発表、文壇の新人として認められる。
1908年(明治41年)29歳 日露戦争後の青年像を描いた「何処へ」を『早稲田文学』に連載し、10月に貿易風社から刊行。自然主義文学に新分野を開き注目された。
1909年(明治42年)30歳 多くの作品を手がけ、最初の新聞小説「落日」を『読売』に連載。秋、京都に遊び、有馬、大阪を経て帰郷。
1910年(明治43年)31歳 6月、7年間勤めた『読売』を退社して、信州に遊ぶ。10月「微光」を『中央公論』に発表し、この時期の代表作として推称された。この年、森鴎外が「青年」を発表、なかの一人物大石路花は、自然主義の新人白鳥をモデルにしたものといわれている。
1911年(明治44年)32歳 甲府市の油商清水徳兵衛の二女つね(後につ禰、明治25年生まれ、19歳)と結婚、牛込矢来下天神町に住む。
1912年(明治45年/大正元年)33歳 伊香保を経て、軽井沢にはじめて行く。
1918年(大正07年)39歳 これまで毎年多くの作品を手がけていたが、この頃、人生に対する倦怠感が強まり、執筆難となる。
1919年(大正08年)40歳 10月、夫妻で伊香保に行き、京阪に遊び、11月帰郷。一時文学を捨て、都会生活を止めようとまで思ったりした。
1920年(大正09年)41歳 5月、郷里の生活にも堪えられず、伊香保、軽井沢で四、五ヶ月生活する。9月、「浅間登山記」を『人間』に発表。10月、大磯に移住。
1923年(大正12年)44歳 9月、関東大震災で家は半壊、生命の難は免れた。
1928年(昭和03年)49歳 11月下旬に、夫人同伴で、世界漫遊の旅に出発。
1929年(昭和04年)50歳 1月、米・仏・伊・英・独の各国を廻り、その紀行文を『読売』『大阪朝日新聞』『中央公論』などに寄稿。
1933年(昭和08年)54歳 東京洗足池畔に家を買い、大磯から転居。
1935年(昭和10年)56歳 外務省文化事業部の呼びかけに応えて島崎藤村・徳田秋声らと日本ペンクラブを設立。北海道、樺太、北支を旅行。
1936年(昭和11年)57歳 再び欧米旅行に出発、ソ連・仏・独・米の各国を訪れ、その紀行を『読売』や『中央公論』に寄せた。
1937年(昭和12年)58歳 ニューヨークで新年を迎え、2月に帰国。6月、帝国芸術院会員に推薦されるが辞退。
1940年(昭和15年)61歳 2月、財団法人国民学術協会理事となる。4月、弟の丸山五男の三男有三(昭和9年生まれ)を養嗣子とした。8月、軽井沢に小宅を建てる。再び勧められて帝国芸術院会員になる。
1943年(昭和18年)64歳 11月3日から1947年(昭和22年)2月12日まで日本ペンクラブ会長(2代目)。
1944年(昭和19年)65歳 8月17日、一家、軽井沢に疎開。
1946年(昭和21年)67歳 この年は『新星』などに多く書き、永井荷風とともに、大家の復活とみられた。
1949年(昭和24年)70歳 1月、「日本脱出」を『群像』に連載。8月、「日本脱出」を講談社より刊行。
1950年(昭和25年)71歳 3月、「日本脱出」後篇を『心』に連載。11月、文化勲章受章。
1957年(昭和32年)78歳 4月、軽井沢住まいをよして、大田区南千束に移る。
1958年(昭和33年)79歳 10月、「軽井沢と私」を『群像』に発表。
1960年(昭和35年)81歳 11月、「一つの秘密」を『中央公論』に発表。
1962年(昭和37年)83歳 3月、室生犀星の葬儀で、弔辞を読んだ。8月下旬、飯田橋の日本医大付属病院に入院。10月28日 膵臓癌による全身衰弱のため、同病院で死去。30日、大久保の柏木教会で、牧師植村環(18歳で受洗した時の、植村正久牧師の娘)の司式で葬儀。死後、終始クリスチャンでありながら、生涯棄教者を装っていたのではないかとされるなど、キリスト教への回帰をめぐり、論議さかん。11月、「一つの秘密」を新潮社より刊行。墓所は多磨霊園にある。
1965年(昭和40年)   7月、丹羽文雄の発案、ジャーナリズム、文壇からの醵金で、東京工業大学教授谷口吉郎氏の設計による十字型の「正宗白鳥詩碑」が軽井沢町に建立された。

 軽井沢町が発行している「軽井沢文学散歩(改訂新版)」の最初のページにこの美しい碑の写真が掲載され、目を引いている。

 旧軽井沢から碓氷峠に向かう旅人を宿の女人が送って二手に分かれたという二手橋を渡り左に川に沿って進むと、先ず室生犀星の詩碑が左側にあり、さらに少し進むとすぐ右の足下にこの碑の案内板がある。細いのぼり道を右にとり進むと、今は使われていないユースホステルの建物があり、これを過ぎて更に進むと道が大きくカーブするところに正宗白鳥詩碑がある。


今は大きな杉木立が詩碑のすぐそばに見られる(2017.10.8 撮影)


正宗白鳥詩碑周辺の様子(2017.10.8 撮影)


黒御影石で作られている十字型の詩碑(2017.10.8 撮影)


詩碑の横に設けられている説明板(2017.10.8 撮影)

この説明板には次のように書かれている。

 「この碑は、こよなく軽井沢を愛し、ここに居住した文士の一人である正宗白鳥が日常愛唱したギリシャの詩を、自筆で描き刻まれています。また、この文学碑に使用したみかげ石は、遠くスウェーデンから取り寄せ、碑の台下には故人愛用の万年筆が埋められています。碑は東京工業大学教授谷口吉郎氏の設計により昭和40年建立された。

 花さうび 花のいのちは いく年ぞ 時過ぎてたずぬれば 花はなく あるはたゞ いばらのみ 」

 ところで、正宗白鳥が住んだという六本辻の住まいとはどのようなもので、今はどうなっているのだろうか。室生犀星と堀辰雄の住まいは現在記念館として保存・公開されていて訪れる人も多い。軽井沢町のHPと書籍・軽井沢文学散歩をあたってみたが正宗白鳥の旧宅については何も書かれていない。

 そこで、地元の年配者に聞いてみると、六本辻のラウンドアバウトを雲場池の方に進んだところに、今も建物が残っているという。その場所に行ってみると次のような状況であった。


六本辻に残されている正宗白鳥のものとされる別荘1/3(2018.6.9 撮影)


六本辻に残されている正宗白鳥のものとされる別荘2/3(2018.6.9 撮影)


六本辻に残されている正宗白鳥のものとされる別荘3/3(2018.6.9 撮影)

 正宗白鳥が没したのは1962年のことで、現在すでに56年が経過している。没後にどのような形で管理されていたのかは不明であるが、今は荒れ放題で、全く管理されていないように見える。後を継ぐ方が誰もいなかったためであろうか。

 正宗白鳥が残した、詩碑に刻まれている詩が妙にこの住まいの現状を現しているように思えて心痛む思いである。

 <花さうび 花のいのちは いく年ぞ 時過ぎてたづぬれば 花はなく あるはたゞ いばらのみ>

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