少し前になるが、今年2021年4月2日の新聞紙上でニコンが一眼レフ本体の国内(仙台ニコンの工場)生産を終了するというニュースが流れた。すでに一眼レフ生産拠点としてはタイ工場が主力になっていたというが、国内生産終了というニュースはやはり時代の移り変わりを強く印象づけるものである。
1年ほど前の2020年6月1日には、94年の歴史を誇る日本最古の総合カメラ誌「アサヒカメラ」を発行する朝日新聞出版が、9日発売の7月号をもって同誌を休刊すると発表している。こちらは写真をより簡単に撮ったり見たりできるようになっている中、意外な感があったが、当時の記事によると、「アサヒカメラの編集部は休刊の理由について『コロナ禍による広告費の激減』が原因だと説明している。」ということなので、今回のカメラメーカーの判断とは理由が異なっているように思えるが・・。
私自身は小学生のころ「スタートカメラ」という名前だったと思うが、初めてカメラを買ってもらって以来、写真を撮ることが唯一の趣味になっている。
その後、高校生になって塾教師のアルバイトを始め、そこで得た報酬で初めての一眼レフ「アサヒペンタックスS2」を買った。
アサヒペンタックスS2(ウィキペディア「アサヒペンタックス」から引用)
ただ、このカメラとは縁がなくて、1年ほどでキャンプに出かけた海岸で盗難に遭い失ってしまった。次に手に入れたのはキャノンのやはり一眼レフFTであった。ペンタックスはとても使いやすく、手にもよくなじんで気に入っていたはずであるが、再び同じペンタックスにしなかったのは縁起を担いだからだったかもしれない。
2台目一眼レフカメラ・キャノンFT
大学では入学してすぐに写真部に入部。写真部ともなると、さすがに大半の部員はニコンFを持っていたが、親しかったK君は愛用のミノルタを、私はこのキャノンFTを4年間使い続けた。
就職してからは20年ほどは写真撮影からはやや遠ざかっていたが、広島県三次市に単身赴任した時に、中国地方の巨樹・巨木撮影を思い立ち、この時初めてニコンの一眼レフカメラ「F90D」を手に入れた。1993年頃のことである。本体ボディーには「MADE IN JAPAN」の表示がある。
当時参考にしていた1993年9月発行の「ニコンの使い方」(日本カメラ社発行)を見直してみると、次の記事に出会う。
「ニコンの使い方」(1993年9月発行)の表紙
同誌の解説ページ
「ニコンF90シリーズの開発コンセプトは、『自動化、多機能化』による真の使いやすさの追求、『高品質化』による信頼性の向上を推し進め、基本機能の充実を目指したものである。・・・
撮影結果に直接関係する測光、オートフォーカス、スピードライトなどの基本機能に最新のテクノロジーを使い性能の向上がはかられた。・・・」
オートフォーカス一眼レフは当時すでに普及し始めていて、ミノルタα7000が先行していたが、その当時アメリカ・ハネウェル社から自動焦点機構に対する特許侵害の訴訟が起こされ、ミノルタ側が敗訴するといった事件が起きていた。
ニコンがこの特許問題をどのように回避あるいは解決したのかは定かではないが、オートフォーカス機能は私には初めての経験であり新鮮であった。
この機種はしばらく使い続けていたが、その後写真のデジタル化が進む中で、小型のデジカメを使う機会が増え、次第に使用頻度は少なくなっていった。
次に新たにニコンの一眼レフの入手を検討し、購入したのは、デジタル化技術が進み、撮像素子の画素数が1000万を超えた手ごろな機種「D200」が発売された直後の2006年頃であった。このボディーの表示は「MADE IN THAILAND」である。
当時の「アサヒカメラ」2005年12月号の特集記事にこのニコンD200 が次のように紹介されている。
「アサヒカメラ」(2005年12月号)の表紙
同誌の解説ページ
「ニコンD200の衝撃 D100の発売から3年、ニコンは満を持して後継機D200を発表した。1020万画素CCDセンサー、高倍率ファインダー、11点測距AFなど、豊富な先進技術を盛り込みながらも、実売予想価格は20万円を切り、コストパフォーマンスは最高だ。
D200と同時に、手振れ補正機能を搭載したAF-S DX VR 18~200mm(35㎜換算で約27~300mm)ズームニッコールも発売される。」
撮影した写真の良し悪しを決定づけるものに露出、ピント、手振れなどがある。この最後の項目の「手振れ」を補正する技術もこの当時開発されていて、いち早く一眼レフ用のレンズに手振れ補正機構を取り入れたのは1995年に発売されたキヤノンのEF75-300mm F4-5.6 IS USMだとされる。
一般的には、「使用レンズの焦点距離分の1のシャッター速度」が手ぶれしない限界の目安と言われているが、200mmという望遠レンズの場合、D200ではCCDセンサーのサイズの関係で実質300mm相当ということになるので、この手振れ補正機能はありがたいものである。
デジタル一眼レフの進化は目覚ましく、次々と新機能を盛り込んだモデルが登場してきたし、私自身このニコンD200に必ずしも満足していたわけではなかったが、その後これ以上ニコンの一眼レフカメラを買い足すことはなかった。
この当時、仕事では3D・立体ディスプレイの開発に従事していたので、3Dカメラに興味が移っていった。3D撮影専用のデジタル機がまだなかったこともあり、2台のSONY製一眼レフα350を連動させてシャッターが切れるようにして使ったりもした。この時、すでに持っていたニコンD200あるいは別のニコンのシリーズから選ばなかったのは、主にこのレリーズの機能に関するものであった。2008年頃のことである。
また、α350には液晶モニターが付いていて、ライブビューが可能となっているることや、画素数が1400万画素超であり、将来主流になる4KーTVで3D画像を見る場合にも対応できると考えたことも機種選定の理由であった。
ちなみに、ニコンD200の画像サイズはLモードで、3872x2592ピクセルであり、SONYα350のLモードの場合、4592x3056ピクセルになる。
尚、この機種には、シャッター速度換算で約2.5~3.5段のボディ内蔵手ブレ補正機能が付いている。生産地表記は「MADE IN JAPAN」である。
1台のカメラで、撮影位置を左右にずらして3D写真を撮ることもできるが、動いている被写体、例えば動物や、風景でも噴水などの撮影では、どうしても同時にシャッターを切る必要があり、こうした使い方を選択したのであった。
3D撮影用の2台のSONYα350、レリーズを改造して2台同時にシャッターが切れる
以前、このブログで詩人・萩原朔太郎をとりあげた際、彼が3D写真に熱中していたことを知って紹介したが(2019.9.20 公開)、あの当時すでに3D専用機があったにも関わらず、その後は長い間3D写真が普及しなかったのは、やはり3D写真を鑑賞する方法が容易でなく、一部のマニアだけの世界にとどまっていたからだろう。
手元には、ソ連のGOMZ社製3Dカメラ「スプートニク」があるが、ブローニーサイズのフィルムを使用するもので、資料として手に入れただけで、撮影したことはない。1955年頃から86,000台ほど生産され、下の写真のモデルは輸出用に作られたもので、カメラ本体の名称はローマ字表記になっている。箱の方にはロシア文字表記がみられる。
ソ連製3D-3眼カメラ「スプートニク」
「スプートニク」の箱
その後、しばらくして、富士フィルム社から3D映像を撮影できる世界初のコンパクトデジタルカメラ「FinePix REAL 3D W1」が発売された。2009年8月のことである。レンズは焦点距離35〜105mm相当(35mm判換算時)の光学3倍ズームレンズを2つ搭載していて、さらにそれぞれに対して1/2.3型有効1,000万画素CCDが装備されている。
富士フィルム製 FinePix REAL 3D W1
カメラと共に富士フィルムからは、3D液晶モニターと3Dプリントの3点セットが提供され、さらに翌年2010年9月には続いて「FinePix REAL 3D W3」が発売された。
このW3機では、 W1機において最大640×480ピクセルまでであった3D動画記録を、1,280×720ピクセルのハイビジョンサイズに対応させた。当時3DTVが普及してきたことに対応したものであった。これら2機種には、肉眼では見えないほどの大きさで「MADE IN CHINA」と記されている。
富士フィルム製 FinePix REAL 3D W3
こうして、3D写真・動画の時代が来るかと期待したこともあったが、ニコンなど主力カメラメーカーが追随することはなく尻すぼみに終わってしまった。
それから10年近くが経った現在、このブログを始めたこともあり、しばらくの間しまいこんであったニコンD200をメインに、カシオのコンデジとフジW3をサブ機に持って朝の散歩を兼ねて、写真撮影に出かける毎日である。ニコンからはその後も次々と新機種が発売され、最新のスペックを見ると画素数では4500万画素以上の機種や、ISO常用感度10万以上の機種など驚くほどの技術進歩があるが、新たに買い足そうとは思わなくなった。
毎日の散歩にはフジの3D専用カメラ W3を欠かさず持って歩き、撮影もしているが、その写真をブログで紹介する機会はほとんどない。ブログのタイトルの「ときどき3D」は返上しなければならないかもしれない。
さて、今回のニコン社に関する報道は、ニコンFで一時代を築いた一眼レフカメラという商品が、社会の変化と技術革新の両方の波に飲み込まれていったことを示しているが、これはあらゆる業種・製品で起きていることに他ならない。
写真関連技術でいえばコダックの写真フィルムがそうであるし、インスタントカメラのポラロイドも同じである。
私は縁あって、アメリカ・ボストンにあるポラロイド社を訪問したことがある。ポラロイド社は偏光板を発明したランド博士の設立した会社で、続いてインスタントカメラを開発して一時代を築いたが、技術革新の波に飲み込まれて消えていった。
ニコン社は多角化を進めているので、企業としての存続が危ぶまれる状況ではないし、一眼レフカメラの生産そのものがただちになくなるわけでもないので、今後の健闘を期待したいとの思いが強いのだが、それは私自身がニコン一眼レフカメラの一人のユーザーであると同時に、製品開発のごく一端であるが、部品の供給で参画したことがあるからでもある。
数年前に、北陸地方に妻と出かけて市内を散策しているときに、小さな写真店のショウウインドウにフィルムカメラで、すでに生産中止になっていたニコンF3が展示されているのが目に入った。このカメラには私たちが開発し、供給した液晶パネルが採用されていた。
液晶ディスプレイの黎明期まもない頃のことであるが、ニコンF3には絞り優先の自動露出機能があり、液晶表示素子は、ファインダー内でその時のシャッター速度を確認するためのものである。この小さな液晶パネルには、私が担当していた斜方蒸着という無機材料の液晶配向膜技術を使った素子が用いられていた。
そのカメラがショウウインドウに展示されているのを、散策の途中で見つけて思わず店内にいた店主と話をした。その結果このカメラは今私の手元にある。その時の店主の話では、未使用状態の商品で、少しだけ手入れをして飾っていたとのことで、ファインダー内の液晶パネルも正常に動作していて、もちろん撮影も可能である。底面には「MADE IN JAPAN」と刻まれている。
ニコンF3
裏ブタを開けフィルム室を見ると、次のような紙が挟まれていて、確かに全く使用したことがないのかもしれないと思わせる。
フィルム室に挿入されていた注意書き
ニコンF3のファインダー内の液晶表示(左上)
ニコンF3の生産経緯を改めて調べてみると、発売は1980年3月で、以来20年以上にわたり、改良を続けながら2000年まで生産されている。後継機種のニコンF4やF5が発売されても生産は続いていたそうで、累計販売台数は80万台以上とされる。
最近フィルムカメラがちょっとしたブームだと聞く。撮影対象によってはそうしたこともあるのかと思うが、私自身は今はもう後戻りする気にはなれないのでこのニコンF3は使用することなく、このまま記念の品として持ち続けようと思っている。
私が今も使っているニコンD200のCCD撮像素子を製造していたのはSONYであった。SONYはカメラのデジタル化にはかねて強い関心を示していて、早い段階からマビカなどを開発・販売していたが、やがてコニカ・ミノルタのカメラ部門を引き継ぎデジタル一眼レフカメラの製造・販売に乗り出した。
私が3D撮影用に購入した2台のSONYα350はミラー式一眼レフ機であり、ミノルタの技術が流れている。
調査会社BCNによると、2020年のデジタルカメラ国内販売台数のシェアはキヤノンが1位(36・8%)、2位はソニー(19・5%)、ニコンは3位(12・6%)だという。ニコン社はコスト負担を軽くし、競争力を維持するためにも海外への完全な生産移管が必要だったのだということになる。
「メイド・イン・ジャパン」のデジタル一眼レフカメラは国際的にも評価が高く、私たち夫婦がいつも見ている光TVの海外ミステリードラマでも、現場写真の撮影に使われているカメラは決まってニコンFである。
この一眼レフなどのデジタルカメラの市場が失われた要因は、スマートフォンの性能向上とされる。スマホに組み込まれたカメラの性能が劇的に良くなり、あえてカメラを持ち歩く理由が無くなってしまった。
また、撮影した写真や動画を友人・家族と共有するにはスマホカメラが圧倒的な優位を持つ。
最初に影響を受けたのはコンパクトデジカメであり、スマホに市場を奪われ売上げが落ちた。その結果、デジタルカメラで先陣を切ったカシオなど、いくつものコンデジメーカーは撤退を余儀なくされた。
次いで残っていた高性能機では、ニコンとキヤノンが世界の二大巨頭として長年君臨していて、プロの写真家の多くがこの2社の機器を使っていたが、ここにソニーが台頭してきた。従来の一眼レフと比べコンパクトなミラーレス機で「フルサイズ」と呼ばれる大型の画像センサーを搭載した「α7」シリーズを2013年に売り出し、一気に存在感を高めシェアを伸ばした。
プロの世界でもニコンはキャノンに追い越されるといったことが起きた。私の娘婿は新聞社の報道カメラマンをしているが、ある時この社の社用一眼レフ機がニコンからキャノンに一斉に切り替わるといったことが起きたと聞いた。
詳しい理由は聞かなかったが、プロカメラマンの世界で一体どのような評価が行われて、こうした事態が起きたのか、いぶかしく思ったのであった。
革新技術を武器に登場した新製品に、旧製品が追い落とされるストーリーは多くの分野で見られるが、こうして一連の出来事を通してみていると、一眼レフの世界でも同じことが起きていたと思うのである。