軽井沢町町制施行100周年を機に、軽井沢町教育委員会が1968年から発行し、12版を重ねてきた「軽井沢文学散歩」が装いも新たに新編となり昨年発刊された。
当ブログでも紹介してきた明治・大正生まれの多くの作家がここに紹介されているが、その中に昭和生まれの作家も含まれるようになっていて、その一人、森村桂さんの名前も登場している。
「新編 軽井沢文学散歩」(2023年、 軽井沢町教育委員会発行)の表紙
この「軽井沢文学散歩」の中で、森村桂さんは「南軽井沢エリア」の項で紹介されている。それは彼女がこの地区に「アリスの丘」ティールームを開いていたという関係からである。
著書「アリスの丘の物語」(1984 角川書店)からの引用として、次の文が紹介されていて、軽井沢とゆかりのある近代の作家と言えるだろう。
「北窓から何気なく外を見たとたん、息をのんだ。
左ななめの浅間山、あの、いつも青黒くあずき色っぽかった、私には一つも美しいとはいえなかった浅間山に、うっすらと雪がかかり、まるで、モンブランのようなのだ。
何と、お前が・・・・・、こんなにも、白鳥の羽のように、やさしく、きれいだったとは・・・・・。
〈中略〉
『すてきよ、とてもきれいよ』
軽井沢は幼いころからなじみのあるところだった。でも今のような思いで浅間山を見たことがあるだろうか。あの初雪の白さが、陽のかげんだろうか、淡いバラ色にでもそまりそうな、神秘的なやさしい色になっているのである。」
この森村桂さんが見たという浅間山はこんな風だったのだろうか。
朝焼けの浅間山と満月(2023.11.29 筆者撮影)
森村桂さんと言えば、我々の年代の者にとってはデビュー作「違っているかしら」(1966年 オリオン社発行 )に続く2作目「天国に一番近い島」(1966年 学習研究社発行)が強く印象に残っている。
当時、大学同級のNさんがこの本のことを紹介してくれた時の様子が今も思い出される。
その後、前記2作品を原作として、NHK朝の連続テレビ小説「あしたこそ」(1968.4~1969.4 橋田寿賀子脚本)が作られるなど、「天国に一番近い島」は最終的には200万部を超える大ベストセラーとなった。
さらに、「違っているかしら」と「天国に一番近い島」は映画化もされている。
□ 私、違っているかしら(1966年、監督:松尾昭典、主演:吉永小百合)
□ 天国にいちばん近い島(1984年、監督:大林宣彦、主演:原田知世)
そんな森村桂さんが南軽井沢に手作りのケーキとジャムの店「アリスの丘」を開いたのは1985年のこと。
開店当初のこの店については、
「アリスの丘のケーキ屋さん」(1986年、中央公論社刊)、
「桂のケーキ屋さん」(1986年、)、
「忘れんぼのバナナケーキ」(1986年、ハーレクイン・エンタープライズ日本支社刊)などに見ることができる。
その後もこの店やケーキ作りについての次のようないくつかの著書がある。
「桂のクッキー屋さん」(1989年、)
「皇太子の恋にささげたウェディングケーキ」(1993年、青春出版社)
「桂のマイケーキ」(1994年、)
「アリスの丘のお菓子物語」(2004年、海竜社刊)
軽井沢の地元新聞社が発行している季刊雑誌「ヴィネット」には店の開店まもなくから森村桂さんのエッセイが寄せられていて、1989年からは「アリスの丘からこんにちわ」(1989年~1998年)の連載も行われていた。
休止期間もあったようだが、2004年に「新連載」と題してエッセイが再開されて間もなくの2005年春号に、突然「森村桂さん死亡」とする編集長の広川小夜子さんの記事が書かれた。次のようである。
「軽井沢取材日記㉖
『天国に一番近い島』で知られる作家、森村桂さんが天国へと旅立った。アッといわせるいでたちで編集部を訪れた7月上旬、とても元気な様子に見えた。 それから2ヶ月、いったい、桂さんに何があったのか・・・。
『森村桂が本日亡くなりました』と夫のM一郎さんから電話を受けたのは平成16(2004)年9月27日のこと。それは突然の信じられない出来事だった。・・・
長い間、入退院を繰り返し治療を続けていた森村桂さん・・・元気を取り戻したのは、平成15(2003)年8月下旬、13年ぶりに天皇皇后両陛下が軽井沢を訪問されたことがきっかけだった。美智子皇后からケーキの注文を受け、スタッフに『皇后様のケーキは桂さんが焼かなくてはいけないですよね』と言われ、・・・桂さんはハッとしたという。そして心をこめて作り、滞在されているホテルにお届けした。その時、美智子様の嬉しそうな様子に桂さんの心は病から立ち直ったのだった。・・・」
病から立ち直った後、2004年春号から「森村桂のエッセイ・アリスの丘からこんにちわ」が新連載として始まり、第1回のテーマは「皇后さまと思い出のお菓子」であった。
続いて2004年夏号には第2回「九ちゃん、また、夏が来たよ!」というタイトルで、仲良しだった坂本九さんのことを書いた。九ちゃんを忘れないようにと「忘れんぼのバナナケーキ」を作るようになったのだという。このエッセイの最後に ー 今年も九ちゃんの命日に、今では名物になった「アリスの丘」の”忘れんぼのバナナケーキ”をモチ網にのせて持ち、御巣鷹山に向かって「上を向いて歩こう」を歌うだろう ー これが桂さんの遺稿になった(一部上記「軽井沢取材日記」㉖ からの引用)。
私は森村桂さんの著書の読者ではなく、私が軽井沢に移り住んだのは2015年のことで、森村桂さんはすでに亡くなった後のことであったし、「アリスの丘」もすでに閉じられていたので、ご本人や店との軽井沢での接点はない。
子供のころからよく軽井沢に来ていて、義母と「アリスの丘」にも行ったことがあるという妻から、店のあった場所近くを車で通りすぎるときに、折に触れて話を聞くだけであった。ただ、学生時代にNさんから聞いた「天国に一番近い島」の作者としてのイメージは強く印象に残っていた。
今年になって、「軽井沢新聞」に次のような記事が載った。
「森村桂さん、浅間山麓に眠る
『天国に一番近い島』で知られる作家、森村桂さんの納骨式が7月19日、西軽井沢の向原霊園で行われた。森村さんが亡くなったのは平成16(2004)年9月だが、夫の三宅一郎さんが身近に置きたいと遺骨を自宅に持ち続けていた。
三宅さんが亡くなった後、親族は長く生活していた軽井沢で二人を眠らせてあげたいと考えて場所を探し、樹木に囲まれたこの環境を選んだ。
墓石には二人の名を刻み、その横には森村さんが描いた自画像とアリスの丘の文字、猫のプーさんのイラストを彫刻した石が置かれている。・・・(軽井沢新聞、2024年8月号から引用)」
霊園のある場所は、「アリスの丘」から西方に約6キロ離れた場所である。佐久平方面に出かける時にはよく通っている抜け道の道路からもほど近い場所にある。
先日、妻とこのお墓に立ち寄ってみた。管理人のいない人気のない霊園であったが、それほど広い所ではないので、お二人のお墓はすぐに見つかった。いかにも桂さんらしく、彼女が笑顔で語りかけてくる姿が思い浮かぶようなお墓であった。
森村桂さんと三宅一郎さんの墓(2024.9.17 撮影)
森村桂さんと三宅一郎さんの墓(2024.9.17 撮影)
墓石脇の石に刻まれた自画像、アリスの丘、ネコのプーさん(2024.9.17 撮影)
「アリスの丘」は取り壊され、更地になってしまい、森村桂さんが軽井沢にいたという記憶も消えてしまいそうであるが、ヴィネットに載ったエッセイを読んでいると、彼女が軽井沢に残したものが、お墓のほかにもいくつかあることが知れる。
「アリスの丘」の前面道路である軽井沢バイパスに架かる3つの橋にはそれぞれ親柱に森村桂さんが描いた4枚のエッチングのプレートが配置されている。橋両側の中央部にもそれぞれ次の解説板が設けられていて、今はだいぶ読みにくくなっているが文面は次のようである。
「メルヘン橋
軽井沢バイパスには三つの橋があります。この度、橋の改修工事にあたり、何か軽井沢らしいイメージをと、軽井沢在住の作家 森村桂さんにお願いして、『緑よ水よ森の動物たちよ永遠に』をテーマに『森のプーさんの見た夢』12点の絵童話によるエッチングを親柱に配しました。散歩やサイクリングのあいまに、軽井沢を舞台に生れた森の動物たちのメルヘンの世界をお楽しみ下さい。
建設省長野国道工事事務所」
橋に設けられた森村桂さんのエッチングの解説板(2024.10.16 撮影)
このエッチングの制作年についての記載はないが、軽井沢バイパスが緑化工事も含めて完成したのが1987年で、「アリスの丘」の開店が1985年であるから、ちょうどこの間に制作されたものと推測される。説明版の文字同様、エッチングの絵も文字も一部かなり読みにくくなっているが、今も健在である。
「雨宮橋」のエッチングプレート①花の枕でスヤスヤと(2024.10.16 撮影)
「雨宮橋」のエッチングプレート②幸せのウディングケーキ(2024.10.16 撮影)
「雨宮橋」のエッチングプレート③木さんは天才(2024.10.16 撮影)
「雨宮橋」のエッチングプレート④雪をよぶお菓子(2024.10.16 撮影)
「湯川橋」のエッチングプレート⑤魔法のじゅうたん(2024.10.16 撮影)
「湯川橋」のエッチングプレート⑥ぶどうの季節(2024.10.16 撮影)
「湯川橋」のエッチングプレート⑦くまさんは冬眠(2024.10.16 撮影)
「湯川橋」のエッチングプレート⑧誰がおいたか金の露(2024.10.16 撮影)
「鳥井原橋」のエッチングプレート⑨皇太子の恋(2024.10.16 撮影)
「鳥井原橋」のエッチングプレート⑩こわい山道(2024.10.16 撮影)
「鳥井原橋」のエッチングプレート⑪星をまく人(2024.10.16 撮影)
「鳥井原橋」のエッチングプレート⑫しょうにゅうどうのお姫さま(2024.10.16 撮影)
以上紹介した「アリスの丘」ティールーム、メルヘン橋のエッチング ①~⑫、お二人の墓の場所は次のようである。
「アリスの丘」ティールーム、メルヘン橋のエッチング ①~⑫、お二人の墓の概略地図
このエッチングのほかに、軽井沢駅の改札口脇には桂さんが描いた、畳4枚分の大きな壁画があった。この壁画制作時のことはエッセイに書かれていて、次のようである。
「プーさんの壁画描き
軽井沢駅のホームで、ガタガタふるえながら”壁画”を描いていたら、子供たちの澄んだ声がひびいてきた。
『わあ、きれい!』『かわいい!』『うまい』『がんばってください』
あまりその声が続くので、うれしくて、『ありがとう、どこの学校?』
『柏四小です』
『柏!?』
私はびっくりした。はじめて絵童話展をしていただいたのが柏なのだ。
その、同じ柏の子供達が、この壁画を励ましてくれるなんてーーー。
おととしの夏、うっかり、躁状態で引き受けてしまったものの、板にいきなり描き出しちゃったものだから、長雨でカビがはえたり、雪がふきこんで、色が後退したりあせたりしてさんざんだった。・・・
1年後の春、ようやく・・・仕上げにかかることにした。・・・何とか完成。
今度は、・・・額が気になってきた。洋画の友達が、額も模様にしちゃえば、と言ってくれたので、ぶどう唐草を描こうとしたが、描いても描いてもしみこんでしまう。
『駄目だよ、ペンキ塗ってからじゃなきゃ』・・・
さて、ペンキを塗るには、絵を寝かせなければならないという。駅員さんに頼んだところ、『困ったなあ、駅長が今日は出ちゃって。駅長がいちばん力持ちなんだ』・・・
『すみません、どなたか手伝って・・・』 と、ちょうどホームに来た人に呼びかけた。と、すてきな紳士が二人、スッと近寄って加わって下さり、壁画が動いた時は感動した。
友人が、額にこげ茶のペンキを塗ってくれ、私はその上に、アリスの丘の天井の梁に描いたと同じ白ペンキで、ぶどう唐草様のものを描いた。・・・
さて、額を描き上がったら、今度は額だけが目立ってしまった。ではと、森の小人を登場させることにした。・・・
六時すぎ、これ以上遅くなっては、駅員さんたちの数が少なくなり、もう、もとにもどせなくなるので、止めることにした。
しかし、あまりの冷えのせいか、同じ姿勢だったせいか、立ち上がりはしたものの、まるで内臓が全部脚に落ちてしまったようで、歩くことがうまくできない。
『うわあ、まだ、いたんですか』
アリスの丘の仲間たちだった。・・・」(「軽井沢ヴィネット」1992年 SUMMER号 より引用)
壁画は、新幹線開通に伴い駅舎が新しくなった時に取り外され、桂さんの自宅に保管されていたというが、ご主人の三宅一郎さんが亡くなってからは別の場所に保管されているので今は見ることができない。
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