霞たなびき・・・
平成30年3月20日(火)
「春の野に 霞たなびき うら悲し・・・。
遠くのものが霞んで見えるのが、春の特長。
多摩川の両岸の桜並木もぽっと赤みを帯びて
いるような・・・。
霞には、いろいろな文様がある。
酒や酢を温める時に出る湯気も、霞。
ふぐのヒレ酒は、かき混ぜながら火をつけると、
霞が青い火となって燃え、ヒレ酒のまろやかさを
増すという。
霞は、お酒のことも指す。
濁り酒の容器の底が霞んで見えないことに由来。
また、霞が「縄張り」とか、「権力の及ぶ範囲」
の意味もあるという。
霞ヶ関は、そういうことかと納得。
キノコ狩りや川魚とりで、よい場所を発見した人が
「ここは、おらが霞」ということもそこから派生して
いるという。
他に、「霞文」。
長寿のことを「霞の命」ともいう。霞を食べて
長生きすることからきているのであろう。
私も「霞の身」にならないように・・・。
羽村の枝垂れ桜も、昨日開花!
その桜の木。
全く違う木に見える?
それでは、田村神社へ タイムスリップ。
田村神社の境内にある甲冑堂は、佐藤継信・忠信
兄弟の妻の像を祀っている。
御影堂、故将堂などとも呼ばれているそうだ。
かつては、神仏が同居し、同敷地に別当寺
真言宗遊王山高福寺が建てられていたという。
甲冑堂の扉の奥には、子の戦死を悲しむ母を
慰めるために、夫の戦場での出立ちを身にまとい、
夫に代わって凱陣を告げたという妻たちの
勇ましい姿が蘇っている。
福島の医王寺の本堂にも、昭和37年(1962年)
12月に作られた甲冑姿の妻二人の像が安置されて
いるが、顔の表情は甲冑堂の像と比べるとかなり
現代的だ。
福島の医王寺では、継信の妻の名は若桜、
忠信の妻の名は楓として伝えられている。
現在の甲冑堂は昭和14年(1939年)12月3日に
再建されたもので、継信、忠信の妻の話
(「佐藤一族と義経について」参照)が
国定教科書高等小学校読本でとりあげられたのを
きっかけにして、甲冑堂再建の気運が高まり、
寄付金などにより実現できたという。
芭蕉と曽良は、元禄2年(1689年)5月3日に
田村神社の甲冑堂を拝観した。
『おくのほそ道』の
「二人の嫁がしるし、先哀也。女なれども
かひがひしき名の世に聞こえつる物かなと
袂をぬらしぬ。」
が碑に刻印されていた。
また、桃隣の句碑が残っている。
桃隣とは芭蕉の弟子で、
本名は、天野勘兵衛。
芭蕉の(支考代筆)口述遺書の中で
「桃隣へ申し候。再会かなはず。力落さるべく候。
いよいよ杉風・子冊・八草子よろず御投げかけ、
ともかくも一日暮しと存ずべく候」
と書かれた人物である。
碑には元禄9年(1696年)に詠まれた
「戦めく 二人の嫁や 花あやめ」 。
平成30年3月20日(火)
「春の野に 霞たなびき うら悲し・・・。
遠くのものが霞んで見えるのが、春の特長。
多摩川の両岸の桜並木もぽっと赤みを帯びて
いるような・・・。
霞には、いろいろな文様がある。
酒や酢を温める時に出る湯気も、霞。
ふぐのヒレ酒は、かき混ぜながら火をつけると、
霞が青い火となって燃え、ヒレ酒のまろやかさを
増すという。
霞は、お酒のことも指す。
濁り酒の容器の底が霞んで見えないことに由来。
また、霞が「縄張り」とか、「権力の及ぶ範囲」
の意味もあるという。
霞ヶ関は、そういうことかと納得。
キノコ狩りや川魚とりで、よい場所を発見した人が
「ここは、おらが霞」ということもそこから派生して
いるという。
他に、「霞文」。
長寿のことを「霞の命」ともいう。霞を食べて
長生きすることからきているのであろう。
私も「霞の身」にならないように・・・。
羽村の枝垂れ桜も、昨日開花!
その桜の木。
全く違う木に見える?
それでは、田村神社へ タイムスリップ。
田村神社の境内にある甲冑堂は、佐藤継信・忠信
兄弟の妻の像を祀っている。
御影堂、故将堂などとも呼ばれているそうだ。
かつては、神仏が同居し、同敷地に別当寺
真言宗遊王山高福寺が建てられていたという。
甲冑堂の扉の奥には、子の戦死を悲しむ母を
慰めるために、夫の戦場での出立ちを身にまとい、
夫に代わって凱陣を告げたという妻たちの
勇ましい姿が蘇っている。
福島の医王寺の本堂にも、昭和37年(1962年)
12月に作られた甲冑姿の妻二人の像が安置されて
いるが、顔の表情は甲冑堂の像と比べるとかなり
現代的だ。
福島の医王寺では、継信の妻の名は若桜、
忠信の妻の名は楓として伝えられている。
現在の甲冑堂は昭和14年(1939年)12月3日に
再建されたもので、継信、忠信の妻の話
(「佐藤一族と義経について」参照)が
国定教科書高等小学校読本でとりあげられたのを
きっかけにして、甲冑堂再建の気運が高まり、
寄付金などにより実現できたという。
芭蕉と曽良は、元禄2年(1689年)5月3日に
田村神社の甲冑堂を拝観した。
『おくのほそ道』の
「二人の嫁がしるし、先哀也。女なれども
かひがひしき名の世に聞こえつる物かなと
袂をぬらしぬ。」
が碑に刻印されていた。
また、桃隣の句碑が残っている。
桃隣とは芭蕉の弟子で、
本名は、天野勘兵衛。
芭蕉の(支考代筆)口述遺書の中で
「桃隣へ申し候。再会かなはず。力落さるべく候。
いよいよ杉風・子冊・八草子よろず御投げかけ、
ともかくも一日暮しと存ずべく候」
と書かれた人物である。
碑には元禄9年(1696年)に詠まれた
「戦めく 二人の嫁や 花あやめ」 。