貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

芭蕉の履歴概略そして俳句

2019-04-25 08:53:38 | 日記

芭蕉の履歴概略そして俳句

平成31年4月25日(木)

 伊賀上野公園内。

 芭蕉翁記念館に入館。

 芭蕉の生育歴・履歴を垣間見る

ことにしよう。

~ 芭蕉の生い立ち ~

1644(正保元)年  伊賀国阿拝郡

の松尾与左衛門の次男として生まれる。

1656(明暦2)年 13歳 父逝去

1662(寛文2)年  19歳 

藤堂新七郎家の若殿良忠(俳号 蝉吟)

に台所用人として仕える。

 2歳年上の良忠は、蝉吟と俳号を

つけていたが、どう も城址に住め

ない若殿で、城址の麓にある屋敷で

過ごしたようである。

 若くして俳諧をたしなみ、城下の

遊俳たちを集め、席を設 けるのを

唯一の愉しみにしていたようでる。

 蝉吟と芭蕉は親友以上の仲で

あったともいわれている。

 その蝉吟も25歳の若さで他界

する。

 芭蕉は23歳。武士になる道も

閉ざされる。奉公先を辞した芭蕉は

京都の季吟を頼ってしばらく住み

込みの奉公をしていたようである。

 芭蕉は京都と伊賀を往来しながら

京都五山文学の禅寺で学問に打ち

込んだらしい。

 俳号は宗房と名乗り、次の句を

詠む。

「春やこし 年や行きけん

           小晦日」

1672(寛文12)年 29歳 

『貝おほひ』を上野天満宮に奉納

する。 そして、江戸へ。

1677(延宝5)年 34歳 

俳諧の宗匠となる。その2年前、

俳号を「桃青」と改める。

1680(延宝8)年 37歳 

俳諧の宗匠をやめ、日本橋から

深川の庵に移る。

「櫓の声波ヲうって腸(はらわた)

    氷ル 夜やなみだ」

 失意のどん底に落ちる。

 同郷の内弟子桃印の失踪。

 出国後5年以内に一度藩に戻るという

藩の掟を破った桃印は、芭蕉の内縁の

妻寿貞と不倫関係にあり、失踪。

桃印の死ということで、取り沙汰され

ないですんだようだ・・・。

1682(天和2)年 39歳 

江戸の大火で、庵も焼ける。

 翌年新たな庵も造られ、甲斐より

移り住む。

1683(天和3)年 40歳 

母が故郷で亡くなる。  

1684(貞享元)年 41歳 

『野ざらし紀行』の旅に出る。

母の墓参りも兼ね伊賀に帰る。

「野ざらしを 心に風の 

       しむ身かな」
             
年末伊賀  

「古里や 臍のをに泣 

        としのくれ」

翌年の初め 新大仏寺に詣で、

「丈六に 陽炎高し 

         石の上」

1685(貞享2)年 42歳

伊賀から奈良・京都、大津・

名古屋・木曾路を通って

江戸へ帰る。

1686(貞享3)年 43歳    

「古池や 蛙飛び込む 

          水の音」

の句ができる。

1687(貞享4)年44歳 

曾良・宗波と鹿島神宮へ詣でる。

(「鹿島紀行」の旅)

「笈の小文」の旅へ出立し、

名古屋を経て伊賀へ到着。

「古里や 臍のをに泣 

        としのくれ」

1688(元禄元)45歳 

八景亭(様々園)藤堂良忠の子

良長に招かれる。

「さまざまの事 おもひ出す

          桜かな」

 伊勢神宮へ参詣、万菊丸(杜国)

と吉野へ向かう。

 越人と一緒に名古屋から信州更科へ

「更科紀行」の旅に出る。

1689(元禄2)年 46歳 

 曾良を伴い「おくのほそ道」の旅

へ出て、大垣に到着。

1690(元禄3)年 47歳 

 大津の幻住庵に入る。

1691(元禄4)年 48歳 

伊賀での句、

「山里は 万歳おそし 

         梅の花」

が詠まれる。

『猿蓑』刊行。

「初しぐれ 猿も小蓑を 

       ほしげなり」

1692(元禄5)年 49歳  

 三度目の芭蕉庵へ入る。

1694(元禄7)年 51歳 

『おくのほそ道』清書本が完成。

 伊賀に帰郷、奈良を経て大阪

の地で病気になり、亡くなる。

  以上が彼の履歴概略である。

 40代の10年間は凄まじい生き方

ともいえる。

 母親との別れが、ふるさと伊賀を

江戸と往来。まさに俳聖!