芭蕉を変えた師匠たち ①
延宝八年(1680)、
37歳になった芭蕉は、日本橋の
界隈から江東区深川の草庵に
引っ越す。
それまでの派手な(?)宗匠生活
から身を洗って、孤高・孤独な
生活に移る。
少なからず、芭蕉の敬愛した
荘子の影響と考えられる。
『史記』の挿話によると、
当時の楚の国の威王が荘子の評価を聞き、
宰相に迎えようと礼物を持って
荘子を訪ねる。
荘子は、
「千金は大した物。
宰相は最高の地位でしょう。
しかし、お祭りの生贄になる牛にたとえ、
美食、錦繍を纏えるが、最期は
祭壇に引かれていく。
その時いっそ野放しの豚になりたい
と願っても時既に遅し。手遅れ。
自分は自由を縛られるより
どぶの中で遊んでいたい。
気の向くままに暮らしたい。」
と断ったそうだ。
当時、芭蕉や門人達は、荘子を
夢中で学んでいる。
芭蕉、41歳。
『野ざらし紀行』の旅に出る。
野ざらしを
心に風の
しむ身哉
「野晒し」すなわち
「髑髏になっても致し方なし。
という強い意志をもって東海道の
初旅挑戦。
荘子によると、「髑髏」は、
死者の世界の絶対的自由の象徴。
個人も多く旅に死せるあり。
西行や中国の詩人たちと同じような
道を選び、自分も旅を通して俳句を
作っていこうとする決意、気概を感じ
とることができる。
荘子の影響甚大、
その二句め。
世にゝほへ
梅花一枝も
みそさゞい
つづく。