貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

つくしづくしとつくづくし

2018-03-24 10:24:09 | 日記
つくしづくしとつくづくし

平成30年3月24日(土)

 昨日、リバーサイドの桜は?と、

久し振りにリバーサイドへ散歩。

 途中、埋め立て地の赤土にいっぱいの

土筆をみつける。



 最近は、野原や多摩川縁の土手でも

見つけられないほど少なくなってきたのに・・・。

 ほんと、大地の筆のよう。

 つくしは、「土筆」。

 「おまえって、ほんと、かわいいねえ!」

と声をかける。



 土筆は、スギナの子。子どもの時よく摘んだ。

味噌汁の具になったり、食材になったり・・・。

 酸性土壌に繁殖するといわれたスギナ。

 花壇や畑に蔓延ると、つまみ出され、

ちょっとした厄介者になったり・・・。

 かわいそうでもあり・・・、やっぱり可愛い。



 仲良く群生して、語り合っているよう。



 「つくし」は、昔「つくづくし花」とも

呼ばれていたらしい。



「つくしづくし」の盛土の平地。

「つくづくし」と愛称されて由来も想像できる。

 そんな春尽くしを楽しんだ。


 


 土筆づくしの盛り土は、何に変わっていくのか

分からないけど・・・。

 ちょっぴり土筆の未来も考えたり。


山吹の小径

2018-03-23 08:14:14 | 日記
山吹の小径

平成30年3月23日(金)

 先生の一言で不登校に。

 このままではと、夜間中学に。

 72歳の友だち等二十数名の友だちとの生活、

素晴らしい先生の指導を受け、昨日卒業式。

二十歳の男性だ。

 「学校が楽しくなった」から「楽しい学校を」へと

変わる。未来の自分像ができ、教師を目指すという。

 朝から見知らぬ人に声援をおくる!!

 桜咲く!!

 今日は、白石城。山吹の小径を歩くことにする。



松の木の前に、でっかいお相撲さん。



大砲萬右衛門。



子どもの頃、「三沢の怪童」と呼ばれ、関取に。

谷風梶之助と一緒に名前が彫られていた。



二の丸跡したの「山吹の小径」を散策していると、



高浜虚子の句碑があった。



「羽と陸と 併せて蔵王 夏の山」



 そして、目的の芭蕉の句碑も発見。

その左手前で。



芭蕉の句は、

「奥の細道」出発直前に大垣で詠まれた

「かけろふの 我肩に立 かみこかな」

であった。

 地元出身の 「鈴木綾園の句は、

「行秋の 山風あらき 籬(まがき)哉」




 つづく。

ちえのあつまり くふうのちから

2018-03-22 08:53:16 | 日記
ちえのあつまり くふうのちから

平成30年3月22日(木)

 今日は、小学校の卒業式かな?

 知恵を育み、創意工夫の力を伸ばし、

基礎・基本を身につけた時期、心から

お祝いしたい。おめでとう!

 巣立ちの舞を精一杯!!

 かこ・さとしさんが他界された。

 昨日、中央図書館が3月一杯閉館に

なるので、本の貸借にでかけた。

 好きな絵本作家のひとり。

『からすのぱんやさん』シリーズや

『だるまちゃん』シリーズなど、今でも

面白いし、楽しい!!

 かこさんは、科学者でもある。



『ちえのあつまり くふうの力』を

早速手にした。滝平二郎さんの切り絵だ。

「むかし むかし おおむかし、

 ずっと ずっと おおむかし。

 ちきゅうに はじめて

 にんげんの せんぞが

 あらわれました。

 さるの なかまから わかれって、

 2ほんの あしで あるきだしたのです。

  
 けれども、そのころの にんげんの せんぞは

 ほかの けものと おなじように、

 にくでも きのみでも

 なまの まま たべて くらしていました。」



 これが、出だし。

 そして、木の棒を使うこと。



 その後、、石のかけらを使うこと。

 そして、石に 木の棒をつけて使うこと。

 「それから にんげんの せんぞは

  なんねんも

  なんじゅうねんも

  なんびゃくねんも

  なんぜんねんも

  なんまんねんも、

  ○○を つかって、

  くらしてきました。」

という文章で、リズミカルに時の流れと人の暮らしを

つたえていく。

 そして、文明の発達した今、



「みなさんの うちにも、

 いろいろな どうぐが あるでしょう。

 それは、みんな にんげんが

 かんがえて、くふうして、

 つくって きた たからです。」

「こうじょうや まちには もっと おおきな

 もっと むずかしい どうぐが たくさん あります。



 
 そのどうぐは みんな、

 むかし むかし おおむかし、

 ・・・・・・・・・・・

 ちえを あつめ、

 くふうを かさねて、

 にんげんが つくってきた ものです。

 
 どうぐは にんげんの

 くふうのあつまり、

 ちえの かたまりです。」

と、まとめている。

 この知恵と工夫は、飽くことなく続き、

より良い道具がつくられていくのです。

 楽しみ、楽しみ!

 加古さんの 自然観も見つけました。

 私も同感。

 自然への畏怖や感謝も 自然から学ぶことによって

育ち、強くなっていきます。

 

「 自然は、とても うつくしかったり

すごい ちからを しめしたりする。

 それには ちゃんと わけがある。

 やたらに かざったり、めちゃめちゃに

まちがった ことを しているのでは ない。

自然のうつくしさや ちからには

きっちりとした すじみちがあるのだ。

この すばらしい せんせいから、

たくさんの ことを おしえてもらおう。

まなんで かんがえよう。

そして 自然を だいじにしよう。」

 自然と、仲良くしていこう


入団資格テストから白石城へ

2018-03-21 08:48:11 | 日記
入団資格テストから白石城へ

平成30年3月21日(水)

 冬に逆戻り!外は霙になったり、

雨に変わったり・・・。

 今朝は、昨日の電子探偵団の入団テスト。

全問正解が条件。私は残念ながら・・・。

1.世界初のミステリーといわれる小説の

 題名とその作者は?

2.シャーロックホームズがかぶっている

 帽子の名前は?

3.賢い人間は、一枚の木の葉をどこにかくす?

 1の答は、ミステリーをあんまり読まなかった

私でも何とか。エドガー・アラン・ポーの

『モルグ街の殺人』だ。

 2の答は、間違えた。ディア・ストーカー。

「鹿撃ち帽」。

 3は、落葉のいっぱい落ちている所。

 森か林。

 しかし、白石城には入れた。



白石市: 白石城公園   

2017(平成29)年6月5日 9:20~

 駐車場に車を止め、シロクロードを歩く。

ここも二度目だ。



公園の周囲の道路は、よく整備され、気持ちよく

歩くことができる。

そして、公園内の坂を上がると・・・。





白石城本丸御殿跡



そして、天守閣。見事!!



 主として仙台藩伊達氏の支城として用いられ、

片倉氏が代々居住した。

 片倉小十郎景綱公頌徳碑有り



 九州の八代城などと並んで、江戸幕府の

一国一城制の対象外とされて明治維新まで存続した。

 天守の代用となっていた三階櫓は、支城という格と

幕府への配慮から天守の名をはばかり大櫓と名づけ

られたという。



 かつての城は、本丸、二の丸を中心に、幾重にも

外郭を備えた堅城であったらしい。

 虎口のうち、大手門付近には幅が変化し、鍵の手

に折れる通路等,特に工夫がみられる。

 明治初頭の廃城令により廃城処分とされ、

ほとんどの建物は破却された。

 天守閣は石垣なども撤去され更地になった。

三階櫓など本丸の一部が1995年に木造で復元

されて現在は公園となっている。

 現存する建物としては、厩口門が市内の延命寺

山門に、東口門が市内の当信寺山門に、どこの門

か定かではない城門が名取市の耕龍寺山門に、

煙硝蔵が市内の個人宅に、それぞれ移築されている。

土塁は当時のものがそのまま残っているという。









天守閣からの眺めは、ほんとうに見飽きることはない。











 よく整備されている。


霞たなびき・・・

2018-03-20 08:23:25 | 日記
霞たなびき・・・

平成30年3月20日(火)

「春の野に 霞たなびき うら悲し・・・。

 遠くのものが霞んで見えるのが、春の特長。

 多摩川の両岸の桜並木もぽっと赤みを帯びて

いるような・・・。

 霞には、いろいろな文様がある。

 酒や酢を温める時に出る湯気も、霞。

ふぐのヒレ酒は、かき混ぜながら火をつけると、

霞が青い火となって燃え、ヒレ酒のまろやかさを

増すという。

 霞は、お酒のことも指す。

 濁り酒の容器の底が霞んで見えないことに由来。

 また、霞が「縄張り」とか、「権力の及ぶ範囲」

の意味もあるという。

 霞ヶ関は、そういうことかと納得。

 キノコ狩りや川魚とりで、よい場所を発見した人が

「ここは、おらが霞」ということもそこから派生して

いるという。

 他に、「霞文」。

 長寿のことを「霞の命」ともいう。霞を食べて

長生きすることからきているのであろう。

 私も「霞の身」にならないように・・・。

 羽村の枝垂れ桜も、昨日開花!



その桜の木。



 全く違う木に見える?


 それでは、田村神社へ タイムスリップ。

 田村神社の境内にある甲冑堂は、佐藤継信・忠信

兄弟の妻の像を祀っている。 



 御影堂、故将堂などとも呼ばれているそうだ。

 かつては、神仏が同居し、同敷地に別当寺

真言宗遊王山高福寺が建てられていたという。

甲冑堂の扉の奥には、子の戦死を悲しむ母を

慰めるために、夫の戦場での出立ちを身にまとい、

夫に代わって凱陣を告げたという妻たちの

勇ましい姿が蘇っている。

福島の医王寺の本堂にも、昭和37年(1962年)

12月に作られた甲冑姿の妻二人の像が安置されて

いるが、顔の表情は甲冑堂の像と比べるとかなり

現代的だ。

 福島の医王寺では、継信の妻の名は若桜、

忠信の妻の名は楓として伝えられている。

 現在の甲冑堂は昭和14年(1939年)12月3日に

再建されたもので、継信、忠信の妻の話

(「佐藤一族と義経について」参照)が

国定教科書高等小学校読本でとりあげられたのを

きっかけにして、甲冑堂再建の気運が高まり、

寄付金などにより実現できたという。

芭蕉と曽良は、元禄2年(1689年)5月3日に

田村神社の甲冑堂を拝観した。

『おくのほそ道』の

「二人の嫁がしるし、先哀也。女なれども

かひがひしき名の世に聞こえつる物かなと

袂をぬらしぬ。」

が碑に刻印されていた。



また、桃隣の句碑が残っている。 



 桃隣とは芭蕉の弟子で、

本名は、天野勘兵衛。

 芭蕉の(支考代筆)口述遺書の中で

「桃隣へ申し候。再会かなはず。力落さるべく候。

いよいよ杉風・子冊・八草子よろず御投げかけ、

ともかくも一日暮しと存ずべく候」

と書かれた人物である。

碑には元禄9年(1696年)に詠まれた

「戦めく 二人の嫁や 花あやめ」 。