海に面した風光明媚な町、宮城県南三陸町。
東日本大震災のときには、志津川湾の奥まったところにある地形により増幅した、20メートルを超える巨大津波が押し寄せたことで甚大な被害を受け、800人以上の命が奪われました。
番組は、町の南西部にある戸倉地区で、避難所となっていた戸倉中学校にまで押し寄せてきた津波に翻弄されながらも、津波に飲まれた人を救おうと必死に行動した、戸倉中学校の教師や生徒たちの証言を中心に綴っていきます。
20メートルの高台に位置し、町の指定避難所となっていた戸倉中学校。震災当日は、卒業式の前日でした。
教務主任を務めていた男性教諭。強い揺れが収まったあと、教諭は生徒たちをグラウンドに集めます。やがて、地域の住民も学校に集まってきました。
しかし、眼下の建物を飲み込んでいった大津波は2つの方向から合わさり、さらに高さを増して学校にまで迫ってきていました。「登校坂を津波が這ってきたのを見て、これは危ないなと」思った男性教諭らは、生徒や住民200人近くを裏山や体育館裏へと避難させます。
そんな中、男性教諭は杖をついたおばあさんと、付き添っていたおじいさんの姿を目にします。同僚の教諭とともに老夫婦を連れ、校庭にあった指揮台に上げようとしたとき、4人は津波に飲まれてしまいました。校庭の津波は高さ5メートルに達していました。
津波に翻弄されながらも、「自分の意識は冷静だった。ああ、人間はこうやって死んでいくんだなあ、と思っていた」という男性教諭。肋骨2本を折りながら辛くも助かりましたが、同僚教諭と老夫婦は帰らぬ人となりました。男性教諭は、「同じところにいて、自分だけ助かった」ことに、負い目を感じるようになっていきました。
一方、当時中学2年生だった4人の少年たち。必死に崖を駆け登ったあと、津波に飲まれた人たちをジャージを結び合わせて救助していきました。「水に落ちる危険があったけど、自分たちがやらなきゃいけない」との思いだった、と。
少年たちの取材中、近くの仮設住宅から出てきた女性は、4人がそうやって自分を助け出してくれたことを確認すると、何度も「ありがとう」とお礼を言いました。さらに、電信柱にしがみついていた子どもをおぶった女性を救助していたことにも、丁重にお礼を言ったのでした。
4人は、津波に飲まれて心肺停止状態になり「膨らんでたぷたぷになっていた」お年寄りを蘇生させようとします。職場体験で人工呼吸法を学んだ少年が必死に蘇生措置を試みたものの、その努力は実りませんでした。その少年が振り返ります。
「助けられなかった諦めというか悔しさがあった。目の前で人が亡くなるのが初めてで、頭は空っぽの状態だった」
翌日。水が引いた町の中から、1人の消防士の男性が見つかりました。南三陸町の中心部の志津川地区で、避難誘導の最中に津波に飲まれ、流されてきたのです。
最初はその男性を、やはり消防士だった夫だと思ったという中学校職員の女性。結果的にはそうではなかったものの、「なんとか助けなきゃ」と、生徒とともに蘇生させようと尽力します。女性は顔をぴたぴた叩きながら「こんなところで死んでられないよ」と言い続けた、と振り返ります。
崖の上で救助活動にあたった少年たちを含む生徒たちが体を温め続けた結果、6時間後に消防士の男性は意識を回復し、一命をとりとめました。少年の1人は、「その日、やっと人のためになったという感覚だった」と。
少年たちの中に、離ればなれになっていた小学校6年の妹を案じていた男の子がいました。妹が通っていた戸倉小学校は、最上階の3階まで津波に洗われていました。
その戸倉小の子どもたちは、教諭たちに引率されて高台の神社に避難していました。ここでも眼下では、「2階立てのアパートが流れていくのが見え」るような状況で、女性教諭は恐ろしい光景を子どもたちに見せないよう必死だったといいます。
やはり避難してきた住民とともに、神社で夜を過ごした子どもたちは、寒さと暗さの中で怯えていました。教諭らは、そんな子どもたちにつとめて明るく接しました。
「いつもと同じようにしていることが、子どもたちにとっては安心かな、と」思っていた、と女性教諭。子どもたちも笑顔を見せていたといいます。教諭ら大人たちが、「子どもたちを優先するような」中で、子どもたちは守られたのでした。
南三陸町の職員から、戸倉の人たちが置かれた状況を伝えられた隣の登米市からは救援隊が組織され、戸倉の人たちは救助されました。妹と離ればなれになっていた男の子は、神社で守られた妹との再会を果たすことができました。男の子は言います。
「半分くらい諦めていたようなところがあったので、会えたときは嬉しかったし、こらえてもこらえきれないくらい涙が出た」
肋骨2本を折り、病院で治療を受けたのち学校に復帰した男性教諭。しかし、同僚教諭や老夫婦を亡くして生き延びたことに負い目が募り、「社会生活から遠ざかりたいという気持ちや、無力感や無気力感があった」と。しかし、生徒たちと過ごす中で徐々に変わっていったといいます。
「子どもたちがあるべき所にいて、あるべきことを普通にやっていることだけで助けられた」
昨年3月に行われた戸倉中学校の卒業式。登米市で学んでいた生徒たちが、この日久しぶりに慣れ親しんだ学び舎に集まりました。生まれ育った場所での卒業式を、生徒や保護者が強く望んだからだといいます。卒業生の代表は、南三陸町の復興を担っていくことを答辞の中で誓うのでした。
あの日、崖の上から救助活動にあたった少年の1人は、こう語りました。
「普通の、自分たちが知っている戸倉を元に戻したいです」
南三陸町を襲った巨大津波の恐ろしさをあらためて思い知るとともに、その中で命を救おうと必死に力を尽くしていた戸倉の人びとの勇気と気高さが、胸を強く打ちました。
戸倉の子どもたちが大人になる頃、復興が進んで町が甦っていることを願ってやみません。そして、いつの日か南三陸町を訪ねることができたら、とも思っています。
東日本大震災のときには、志津川湾の奥まったところにある地形により増幅した、20メートルを超える巨大津波が押し寄せたことで甚大な被害を受け、800人以上の命が奪われました。
番組は、町の南西部にある戸倉地区で、避難所となっていた戸倉中学校にまで押し寄せてきた津波に翻弄されながらも、津波に飲まれた人を救おうと必死に行動した、戸倉中学校の教師や生徒たちの証言を中心に綴っていきます。
20メートルの高台に位置し、町の指定避難所となっていた戸倉中学校。震災当日は、卒業式の前日でした。
教務主任を務めていた男性教諭。強い揺れが収まったあと、教諭は生徒たちをグラウンドに集めます。やがて、地域の住民も学校に集まってきました。
しかし、眼下の建物を飲み込んでいった大津波は2つの方向から合わさり、さらに高さを増して学校にまで迫ってきていました。「登校坂を津波が這ってきたのを見て、これは危ないなと」思った男性教諭らは、生徒や住民200人近くを裏山や体育館裏へと避難させます。
そんな中、男性教諭は杖をついたおばあさんと、付き添っていたおじいさんの姿を目にします。同僚の教諭とともに老夫婦を連れ、校庭にあった指揮台に上げようとしたとき、4人は津波に飲まれてしまいました。校庭の津波は高さ5メートルに達していました。
津波に翻弄されながらも、「自分の意識は冷静だった。ああ、人間はこうやって死んでいくんだなあ、と思っていた」という男性教諭。肋骨2本を折りながら辛くも助かりましたが、同僚教諭と老夫婦は帰らぬ人となりました。男性教諭は、「同じところにいて、自分だけ助かった」ことに、負い目を感じるようになっていきました。
一方、当時中学2年生だった4人の少年たち。必死に崖を駆け登ったあと、津波に飲まれた人たちをジャージを結び合わせて救助していきました。「水に落ちる危険があったけど、自分たちがやらなきゃいけない」との思いだった、と。
少年たちの取材中、近くの仮設住宅から出てきた女性は、4人がそうやって自分を助け出してくれたことを確認すると、何度も「ありがとう」とお礼を言いました。さらに、電信柱にしがみついていた子どもをおぶった女性を救助していたことにも、丁重にお礼を言ったのでした。
4人は、津波に飲まれて心肺停止状態になり「膨らんでたぷたぷになっていた」お年寄りを蘇生させようとします。職場体験で人工呼吸法を学んだ少年が必死に蘇生措置を試みたものの、その努力は実りませんでした。その少年が振り返ります。
「助けられなかった諦めというか悔しさがあった。目の前で人が亡くなるのが初めてで、頭は空っぽの状態だった」
翌日。水が引いた町の中から、1人の消防士の男性が見つかりました。南三陸町の中心部の志津川地区で、避難誘導の最中に津波に飲まれ、流されてきたのです。
最初はその男性を、やはり消防士だった夫だと思ったという中学校職員の女性。結果的にはそうではなかったものの、「なんとか助けなきゃ」と、生徒とともに蘇生させようと尽力します。女性は顔をぴたぴた叩きながら「こんなところで死んでられないよ」と言い続けた、と振り返ります。
崖の上で救助活動にあたった少年たちを含む生徒たちが体を温め続けた結果、6時間後に消防士の男性は意識を回復し、一命をとりとめました。少年の1人は、「その日、やっと人のためになったという感覚だった」と。
少年たちの中に、離ればなれになっていた小学校6年の妹を案じていた男の子がいました。妹が通っていた戸倉小学校は、最上階の3階まで津波に洗われていました。
その戸倉小の子どもたちは、教諭たちに引率されて高台の神社に避難していました。ここでも眼下では、「2階立てのアパートが流れていくのが見え」るような状況で、女性教諭は恐ろしい光景を子どもたちに見せないよう必死だったといいます。
やはり避難してきた住民とともに、神社で夜を過ごした子どもたちは、寒さと暗さの中で怯えていました。教諭らは、そんな子どもたちにつとめて明るく接しました。
「いつもと同じようにしていることが、子どもたちにとっては安心かな、と」思っていた、と女性教諭。子どもたちも笑顔を見せていたといいます。教諭ら大人たちが、「子どもたちを優先するような」中で、子どもたちは守られたのでした。
南三陸町の職員から、戸倉の人たちが置かれた状況を伝えられた隣の登米市からは救援隊が組織され、戸倉の人たちは救助されました。妹と離ればなれになっていた男の子は、神社で守られた妹との再会を果たすことができました。男の子は言います。
「半分くらい諦めていたようなところがあったので、会えたときは嬉しかったし、こらえてもこらえきれないくらい涙が出た」
肋骨2本を折り、病院で治療を受けたのち学校に復帰した男性教諭。しかし、同僚教諭や老夫婦を亡くして生き延びたことに負い目が募り、「社会生活から遠ざかりたいという気持ちや、無力感や無気力感があった」と。しかし、生徒たちと過ごす中で徐々に変わっていったといいます。
「子どもたちがあるべき所にいて、あるべきことを普通にやっていることだけで助けられた」
昨年3月に行われた戸倉中学校の卒業式。登米市で学んでいた生徒たちが、この日久しぶりに慣れ親しんだ学び舎に集まりました。生まれ育った場所での卒業式を、生徒や保護者が強く望んだからだといいます。卒業生の代表は、南三陸町の復興を担っていくことを答辞の中で誓うのでした。
あの日、崖の上から救助活動にあたった少年の1人は、こう語りました。
「普通の、自分たちが知っている戸倉を元に戻したいです」
南三陸町を襲った巨大津波の恐ろしさをあらためて思い知るとともに、その中で命を救おうと必死に力を尽くしていた戸倉の人びとの勇気と気高さが、胸を強く打ちました。
戸倉の子どもたちが大人になる頃、復興が進んで町が甦っていることを願ってやみません。そして、いつの日か南三陸町を訪ねることができたら、とも思っています。