読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

NHKスペシャル『完全解凍!アイスマン ~5000年前の男は語る~』

2013-03-24 23:49:59 | ドキュメンタリーのお噂
NHKスペシャル『完全解凍!アイスマン ~5000年前の男は語る~』
初回放送=3月24日(日)午後9時00分~9時49分

1991年。イタリアとオーストリアの国境にあるヨーロッパ・アルプスの一角、エッツタール・アルプスの標高3210メートルの地点から発見された一体のミイラ。
解析の結果、ミイラは今から5300年前のものと判明。時はメソポタミア文明の初期であり、日本では縄文時代の頃にあたります。身長160cm、46歳前後の男性であるこのミイラは「アイスマン」と呼ばれ、人類の至宝として厳重に冷凍保存されてきました。
発見から20年後、アイスマンを解凍した上で徹底的に分析、調査する試みが行なわれました。番組はそこからわかってきた驚きの事実を伝えていきます。

解凍されたアイスマンからは、胃、脳、肺、腸をはじめとした身体の各所から、149点のサンプルが取り出されました。
腐敗を防ぐために内臓を取り除いて作られた、古代エジプトなどの人工的なミイラと異なり、すべてが死んだ時のままに残されてミイラ化した「アイスマン」は、まさにタイムカプセルでした。胃から取り出された200gの固形物には、アイスマンが死の直前まで食していた食べものの痕跡がしっかりと残っていました。
固形物を分析すると、まず目立ったのは動物の脂肪や毛。ヤギの一種であるアイベックスのほか、シカやウサギの肉も見つかりました。さらに、肉とともに見つかった植物はハーブの一種であることが判明。ミイラ研究者は、当時の人びとが「多様な食材をバランスよく、おいしく食べていた」といい、「5000年前の人間が、こんなにおいしい食事をしていたとは」と驚きます。
さらに、検出された小麦には煤の粒子が付着していました。どうやら、パンも焼いて食べていたらしいのです。
1万年前にメソポタミアにおいて生み出され、その2000年後には古代エジプトでも食べられるようになったパンは、アイスマンが生きていた5300年前のヨーロッパにも伝わっていたようです。当時はアルプス地方でも、すでに狩猟採集から農耕生活へと移行していたのです。

アイスマンの皮膚には、複数の平行線や十文字を描いた、煤によるタトゥー(いれずみ)がありました。これらは、なんと鍼灸治療におけるツボの位置と一致していました。X線による解析の結果、アイスマンは腰を痛めていたことがわかり、その治療のためにツボがある位置に印をつけたのでは、と研究者はいいます。
中国で鍼灸治療が確立したのが約3000年前のこと。それより2000年以上も前に、ヨーロッパでツボを刺激する治療が行なわれていた可能性が出てきたのです。これにはかなり驚かされました。

アイスマンが身につけていた衣類や持ち物からも、当時のアルプス地方に高い文明があったことが垣間見えます。
熊の皮などを使い保温性を高めた靴。2色の毛皮を縫い合わせ、思いのほか「おしゃれ」だったことを窺わせるマント。そして純度99.7%の銅で作られた斧は、高度な精錬技術の存在を物語ります。

なぜ、アイスマンは標高3000mという高い山で死んでいたのか。これまでは、雪山の中で遭難したのでは、とみられていましたが、解析から見えてきたアイスマンの死の真相も、また驚くべきものでした。
腸から見つかった複数の植物の花粉から、時間経過と現地の植生を割り出した結果、何かから逃げるために高度のある山中を登り降りしていたことがわかりました。一体、何から逃れようとしていたのか?
X線解析で、アイスマンの左肩のあたりに刺さっていた矢尻が見つけられました。それによる大量出血により、アイスマンは瀕死の状態だったといいます。さらに、脳のサンプル調査で見つかった赤血球から、即死につながるような脳内出血をしていたことも判明。
アイスマンは何者かによって矢で射られ、そのあと殴り殺された、というのです。
左腕を折り曲げ、うつ伏せになって死んでいたアイスマン。それも、アイスマンを殺した人物が矢を抜くために死体を動かした結果、といいます。
当時の矢は、狩りのときに誰のものかがわかるように、それぞれに特徴を持った「名刺」のようなものだったとか。そこで、殺したのが誰なのかわからないよう、いわば証拠隠滅のために矢を引き抜いていった、と。
アイスマンの徹底解析は、その死に至る生々しい状況をも、目に見えるかのように明らかにしたのです。

アイスマンを通して、5300年前の時代とそこに生きた人間の姿に迫っていく過程は、なかなかにエキサイティングでありました。
意外なまでに高度だったらしい古代のヨーロッパにおける文明のありようが、これからどのような形で明らかになっていくのか。今後の展開が楽しみになってきました。

【読了本】『江戸の食空間』(大久保洋子著、講談社学術文庫) ~現代につながる江戸の食の諸相

2013-03-24 12:36:24 | 本のお噂

『江戸の食空間 屋台から日本料理へ』
大久保洋子著、講談社(講談社学術文庫)、2012年(元本は1998年に『江戸のファーストフード』の書名で講談社選書メチエとして刊行)


屋台で売られるファストフードとして庶民からの絶大な人気を得ていた、すし、てんぷら、そば。富裕層が利用した料理茶屋で発展し、完成をみた日本料理。そして空前のグルメブーム。
本書は、数多くの文献や図版を引きながら、現代にも通ずる江戸の食の諸相を読み解いていく一冊です。

参勤交代の藩士や、都市建設や大火からの復興のために集まった職人たち、商店に住み込みで働くためにやってきた使用人、等々、江戸には多くの単身者が暮らしていました。
それらの人たちが、安い値段で手軽に口にでき、腹の足しになるような食べものとして工夫されたのが、てんぷら、すし、そば、鰻の蒲焼といったファストフードでした。さらに、食用油や醤油、砂糖の生産量が増え、庶民にも普及していったことが、これらの料理の隆盛を後押ししていきます。
タネを串に刺して揚げ、供されていた当時のてんぷらは衣が厚めで、油分もくどいものだったようです(まあ、今でもしばしばそういうモノに出くわしますが)。そのようなハイカロリー食品だったからこそ、特に肉体労働の職人たちにはうってつけだったのでしょう。
また、それまで「なれずし」や「生なれずし」といった、時間と手間のかかるすししかなかったところに登場したにぎりずし。「すぐできて、すぐ食べられる。しかも、一口サイズでいろいろな種類の中から選べ、食べる人の好み・量を調節することもできる」とあって、気の早い人びとから大いにもてはやされることになりました。
これら江戸のファストフードが盛んになったのは天明期(1781~1789年)以降とか。「庶民がそれなりに力をもち、封建制度の中でも比較的自由な気風になった」ことの象徴のひとつが、外食文化の発展だったというわけです。

一方、経済的に豊かだった人びとからの人気を得て、接待や歓談の場として繁盛していたのが、贅を尽くしたたくさんの料理を座敷で供した料理茶屋。それは、高級化していったてんぷらなどの庶民発の料理をも取り入れながら、本膳料理として発達していきました。
また、それに対してシンプルさと精神性を重視して茶席から生み出されたのが、懐石料理。2つの流れから、現代にも踏襲されている日本料理の形式が発達し、完成をみることになります。

そんな中で巻き起こったのが、本書の第4章で詳述される「大江戸グルメブーム」。生きるための食から楽しむための食への転換であります。さまざまな料理書や名店ガイドブックが盛んに出版されたのもこの頃のことです。
「嬶ァを質においても初がつおを食う」などという言葉が出てくるほど、より早く売り出されるものを尊んだ鰹(そういえば、ちょうど今くらいがその時期だなあ)。その風潮はさまざまな食品に及んだようで、寛文のころには幕府により、37品の食品の売買時期が定められるという事態に。そこには鰹や松茸はもちろん、鮎、なまこ、あんこう、鴨、つぐみ、生椎茸、土筆(つくし)、なすび、びわ、りんご、みかん等々まで含まれていて驚かされます。
さらに驚かされたのは、少しでも早く出して高値で売ろうと、室内に炭団(たどん)で火を起こしての温室促成栽培まで行われていたということ。いやはや、現代におけるグルメ狂想曲にも引けをとらない過熱ぶりであります。
そのように食が贅沢さへと傾き、食材本来の味が失われ、季節感がなくなってきたことを嘆き、批判する趣旨の文章も、当時の文献から引用されています。どうもこのあたりも、現代とほとんど変わらない感があります。

本書では、将軍や武士、町人、それぞれの食のありようにも触れています。
将軍の食事は、よりすぐった材料を使い毎日手作りされる贅沢なものながら、しきたりや形式に縛られるところも多々ありました。
特に「禁忌食」の一覧を見ると、獣類は一切ダメ(ただし鳥類扱いの兎を除く)なことをはじめ、ネギやにんにく、わかめ、ひじき、さんま(落語の『目黒のさんま』は、この禁忌が笑いにされているわけですが)、まぐろ、牡蠣、あさりもダメ。すいかや桃、りんごなどは見るだけで食べない、というのですから、著者の言うように「味気ない」という気がして仕方ありません。
また、武士の日常における食生活は意外につつましかったようですが、その一方で地方でも外食が盛んであったり、男子が料理をすることも珍しくはなかったというのには興味をひかれました。

食の諸相から江戸時代を垣間見ることができるのも楽しかったのですが、それら江戸の食が少なからず、現代にも通ずるものがあったことがよくわかり、まことに興味深い一冊でありました。
それとともに、著者の大久保さんが食べることを愛しているのが記述の端々に伺えて、それがけっこういい味付けになっているなあ、と思いましたね。たとえば、そばについて書かれたこのくだり。

「粋な江戸っ子は通ぶって、汁をあまりつけずに一気にすすって食べる。汁がおいしいのであの食べ方は筆者にはあわないが、読者のみなさんはいかがであろうか。」

また、饗応における本膳料理の豪勢な品書きを引いたあとの、この記述。

「立派に並べられたこれらの料理は、どんな味付けでおいしさはどうだったのかわからない。じつはあまりおいしそうにもおもわれない。形式重視になってしまった儀式料理は少し箸をつけるだけで、見る食事になっていったのである。」

こういった記述、個人的には実に好ましく感じられましたね。味を楽しみながら食べることが好きだからこそ、このように書けるわけで。
そういった意味でも、まことに味わい深い書物でありました。