しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

櫓歌

2023年02月10日 | 民謡

 

櫓を漕ぐ唄には、海の香りがする。

手拭を、鉢巻か、ほおかぶりに頭に巻いた姿。
顔には、海に生きる厳しさが漂っていた。

 

 

 

・・・

「瀬戸内の民俗史」 沖浦和光  岩波新書 1998年発行


1946年にスペインのマドリード市の歴史アカデミアの書庫で、
ルイス・フロイスの『日欧文化比較』が自筆のまま発見された。
第一級の貴重な資料である。
34年間も日本に滞在したフロイスは何回か瀬戸内海を航行している。


日本の船は、
「肋骨材と甲板がない」
「布製の帆がない(藁の帆である)」
「漕ぐ必要がある」
「碇は鉄でない(木である)」
「昼だけ航行する(夜間はできない)」
「天気晴朗でないと航行しない」
「水夫はほとんど、いつも歌っている」

・・・

 

・・・

広島県「広島県の民謡」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行


櫓歌

船を漕ぐ場合を考えると、川と海がある。
川の場合は「船頭歌」とし、海の場合を「櫓歌」とする。
海の場合も、
漁師が漕ぐ時の歌、
農家が漕ぐ時の歌、
物を運ぶ人の歌、がある。

 

尾道市吉和

エー可愛がられて寝た夜もござる ヨードッコイショドッコイショ
泣いて別れた夜もござる
鞆にゃトがない田島にゃタがない
広い尾道にゃハトがないヨー

 

豊田郡大崎町

ヤーレ船頭可愛や音戸の瀬戸はヨーイ
一丈五尺のヨー櫓がヤレしはるヨーイ
わしが山行きゃ山桃ほしや
御手洗沖とおりゃ女郎ほしや

・・・

 

撮影日・2008年4月29日  (広島県大崎上島・木江港)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おちょろ船

2023年02月09日 | 民謡

 

この本↓には、港の繁栄の必須条件の一つとして”茶屋”を述べてあるが、
たしかに、古い港町には必ずのように遊廓跡がある。
危険と長旅と男性だけの世界なので、そうゆうことになるのか。
そういえば戦時中にも聯隊のいるところ、従軍慰安婦がいた。何かと共通している。

 

 

 

・・・

「瀬戸内の民俗史」 沖浦和光  岩波新書 1998年発行

おちょろ船

沖乗り航路を突っ走る大型帆船が増えてくると、どうしても芸予諸島の島々に風待ち・潮待ち港が必要になってきた。
海岸沿いをはしる「地乗り」航路は安全だが、日数がかかった。
「沖乗り」を通れば、二倍近く速くなる。
元禄期のころから北前船の数が急増した。
文化年間に御手洗港に波止が完成した。

近世の瀬戸内では、各地から船と人が集まる港の繁栄を維持するうえで、
どうしても必要なのは問屋・茶屋・芝居小屋の三点セットだった。
御手洗で茶屋を置くことが公認されたのは享保年間で、若胡子屋が一番古い。
明和5年(1768)の御手洗の人口は543人のうち94人が遊女だった。

「おちょろ船」は、遊女たちを乗せた小さな舟であった。
小船で物を売っていて、ついでに春をひさいだ。
「おちょろ」の相手は、陸上がりするだけのゼニのない下級の船乗りだった。
遊女屋の「おいらん」とは格が違った。
(明治維新後は「おいらん」と「おちょろ」の区別がしだいになくなり、
女たちの多くは船に乗って商売するようになった)


5人ほどがおちょろ船に乗り、船につくと縄ばしごで全員「顔見世」に上がる。
食事の世話から、洗濯、つくろい物までなんでもやる。
まさに「一夜妻」である。
客があっても無くても、真夜中の12時までは海上にいなければならぬ。
7時間も海上で客待ちせねばならぬのだから過酷な重労働である。

 

・・・

櫓音頭

豊田郡豊町

 

御手洗をヨ素通りすればヨ
あの妓祈るか風変はるヨー

御手洗女郎衆の髪の毛は強い
のぼりくだりの船つなぐ

ちょろは出てゆく鷗は帰る
色の港に灯りはうつる

おちょろ船からあの妓が招く
招きゃ船頭さんの手がゆるむ

 

「広島県の民謡」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行

・・・

 

・・・

 

撮影日・2007年7月28日   (広島県 大崎下島・御手洗)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

備中神楽

2023年02月09日 | 民謡

 

備中神楽は古い芸能にしては、今も盛んに受け継がれている。
日本人の心にしみる芸能に感じる。
大衆性・娯楽性にも優れているのだろう。

 

・・・・・

「流域をたどる歴史・中国四国編」  ぎょうせい  昭和54年発行

備中神楽は「神殿神楽」とともに、
新しい芸能色の濃い「神代神楽(じんだいかぐら)」が大衆に親しまれ、
今日まで備中神楽のすべてを保存してきた。

神殿神楽
「神殿」と呼ぶ舞台がつくられ

神代神楽
大衆性、娯楽性が強い。
素朴さの中に郷土芸能として高いものを伝承している。
創案した西林国橋の功績と考えられる。
国橋は川上郡成羽町の神官で文化文政の頃(1804~1830)当時の卑俗な神楽を憂いて、
記紀などの古典を参酌して、神代神楽の改正や創案をした。
この国橋のつくった備中神楽(神代神楽)が、
現在まで村々で行われている。
神殿神楽のことを荒神神楽ともいい、
普通の備中神楽(神代神楽)と区別する。

一 岩戸開き
1・両神の舞
2・思兼命の舞
3・鈿女命の舞
4・手力男命の舞
5・天照大神の出御


二 国譲り
1・両神の舞
2・大国主命の舞
3・国譲りの掛合い
4・稲背脛命
5・事代主命の舞
6・国譲り
7・鬼退治


三 大蛇(おろち)退治
1・素戔嗚尊の舞
2・嘆きの舞
3・稲田姫との契りの舞
4・松尾命の酒つくり
5・大蛇退治

 

大衆性と芸能性とを十分にそなえていることが、
他地方の神楽に見られない点ではないかと考えられる。

 

・・・・・

 

・・・・


「備中神楽」 山根堅一 岡山文庫  昭和47年発行

備中神楽を今のように、郷土芸能として、民衆のものとしたのは、
文化文政年間に、成羽の神職西林国橋が、
神話劇三編の「神代神楽」を創案して、従来の神楽の中へとり入れてからのことである。


・・・・


神楽探訪」  三村泰臣  南々社  2013年発行


神殿(こうどの)神楽ともいわれ、人気の高い神楽
荒神信仰を基盤にしているので「荒神神楽」ともいわれ、
神殿(こうどの)という仮小屋を設置して行うことから「神殿神楽」ともいわれている。

 

・・・・

 

 

・・・・

鴨方町史・民俗編」 鴨方町 昭和60年発行
荒神神楽


荒神神楽は、近年は備中神楽とも呼ばれている。
成羽などの奥から神楽大夫がきて、
猿田彦の舞・国譲り・天岩戸開き・大蛇退治などを演じた。
町内では三年舞・五年舞・七年舞などのような荒神神楽は、かなり以前から行われなくなっており、
現在では、秋祭りに余興として行われる宮神楽のみになっているようである。

 

・・・・

「矢掛町史・民俗編」 矢掛町 ぎょうせい 昭和55年発行

備中神楽

備中神楽を二つ分けると
「式年の太神楽」と例年各神社の宵祭りに行われる「宮神楽」に分けられる。
前者は荒神様を祭る十二支に関し、部落あげての大行事。
宮神楽は、神社の例祭に奉納されて、一年の報恩感謝と五穀豊穣を祈るものである。

昭和20年終戦とともに公式には神楽奉納は禁止された。
備中神楽は再出発した。

 

・・・

 

 

 

撮影日・2019年12月1日  井原市芳井町花滝 「明治ごんぼう村」

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

備中神楽「国譲り」大国主命の舞

2023年02月08日 | 民謡

 

歌舞伎とか神楽は、筋を知ったうえで見ないと、ほぼ「猫に小判」状態になる。
しかし神楽のうち、大国主(だいこくさん)の”福の種まき”だけは万人が楽しめる。
神楽のお面、舞、衣装、太鼓、台詞を楽しみながら、種まきが始まるのを今か今かと待つ時間もいい。

現在は、お祭り以外に地域イベントに備中神楽の出演が多く、
「福の種まき」をいつも楽しみにしている。

 

 

 


・・・

備中神楽「国譲り」大国主命の舞

 

「そも舞い出でし翁は、
この国の主(あるじ)大国主の命なり。
われを祭る輩(ともがら)には福徳幸いを授くるなり。
また手向かうものあるときは、
この打ち出の小槌広鉾両種の威徳をもって打ち固め、
世を安国としずめるなり。」

「いよいよ尊信するとあるならば、
これより中津国のかまど巡りなさばやと存じ候。」

「いそぎようやく清々しき神殿に着いたと覚えたり。
しばらくこの所に鎮座いたし、
十二支五性の産子に、福の種を授けばやと存じ候」

”大国が万宝袋の紐解いて
多くの産子に福を授くる”

「急ぎたまえ。」
「はやしたまえや。」で、
神前へ供えた小餅やみかんなどを、福の種といって、
観衆へ向けてまきちらす。

「まくぞや、まくぞや、福の種をまくぞや。」

太鼓は急調子にはやしたてる。
子どもはもちろん大人まで、
なりふりかまわず騒ぎたて、
神楽場は湧きに湧く。

「福の種をまきたるが故に、
この所にてしばらく休息なさらばやと存じ候。」

 

備中神楽」 山根堅一 岡山文庫  昭和47年発行

・・・

 

 

撮影日・ 2022年11月27日   井原市青野町

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

備中神楽「大蛇(おろち)退治」

2023年02月08日 | 民謡


記憶が薄れているが、母方の祖父母の神社で神楽を見にいった。
まだ小学1.2年生の頃で、眠いのを我慢して見ていたが、大きな蛇がでて動き出すと、こわさに我慢できず祖父母宅に戻った。
朝起きて母に聞くと「殺された」という返事だった。

 

 

・・・・


「備中神楽」 山根堅一 岡山文庫  昭和47年発行


大蛇(おろち)退治

大蛇退治は、素戔嗚の尊の「幕掛かり」の舞からはじまる。
”稲田姫大蛇の口をのがれたり
その謀略(たばかり)か酒ぞかしこき”
太鼓は急テンポに力一ぱい高鳴る。
尊は幕へ近づいて大蛇の動静をうかがう。
幕の中では大蛇がピーピーとうなり声をたててうごめく。
尊は幣を投げつけて、さらに幕に近づく。
緊迫感のみなぎる場面である。

大蛇の動きにぱっと飛びすさりざま、
刀を抜き放って、ひとしきり力強く舞った後、幕内へ一時身を隠す。

やがて大蛇は、かま首をふり立てふり立、長い胴をひきずりながら出てくる。
「とうろやとうろ、おおじゃがとうろ・・・」と、
太鼓は力をこめてはやし立てる。
舞台いっぱいにとぐろを巻いてのたうち回り、
やがて酒桶に近寄り、酒を飲み干し、酔いつぶれて、
とぐろをに頭をうずめて寝入ってしまう。

頃合いをはかって尊は大蛇に近づき、
「やい。」と一太刀浴びせかける。
大蛇は驚いて尊へ食いかかり、大立ち回りになる。
間一髪、胴を切りとり、めでたく退治する。

「大蛇を退治して宝剣を得たり。
この剣こそ姉上天皇天照大神にささげ奉らん。」
太鼓「おてがらにて候。」

うれしき舞。
「実にありがたの御ことや。
末の世までも疫神疫払(やくじんやくばらい)、
祇園三社と仰がれ申せば、わが敷島は常盤堅盤(ときわかきわ)の、
松の葉色の変わらぬ御世こそ、めでたかりけれ。」

・・・

 

 

撮影日・2022年5月4日  井原市美星町「中世夢が原」

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石切り唄

2023年02月07日 | 民謡

 

石切山は良質な石、積み出し港が近い、という条件が必要だったので瀬戸内地方は”石の島”が多かった。

セメントや輸入石材によって市場を狭められた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

「広島県の民」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行


石切り唄

石工は左手にタガネ右手にノミを持って岩塊にいどみ、力をふるって穴をあける。
穴は浅いのは一尺から深いのは一尺二、三尺。
これに火薬を装填する。
穴の直径は六分五厘ときまっていた。
力感あふれる歌である。

 

石工歌

呉市吉浦
吉浦町上地区から良質の花崗岩が出る。ここに石工が集まり定着してしまった。
彼らが仕事に際してうたったのが「石工歌」(いしくうた)である。

可愛がられて寝た夜もござる
泣いた明かした夜もござる

うるめ島には霞がかかる
わたしゃあんたに気がかかる

・・

石堀り歌
安芸郡蒲刈町

 


わたしゃこのごろ 衒妻ばなれ
池の小鮒も水ばなれ

あなた思えば三度の食も
のどにせかれて湯で流す


・・・


矢掛町史  矢掛町 ぎょうせい 昭和55年発行

「石わり唄」


やれ山はやけてもよーい
山鳥りゃよたたぬよーい

子ほどかわゆきものはないよーい
よいよ よいよ
チンカコン チンカコン

・・・

 

撮影日・2012年5月28日  香川県丸亀市広島

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石切り唄(北木島)

2023年02月06日 | 民謡

初めて北木島に行ったのは、高校1年生の夏休み、

中学校の同級生と三人で”楠の浜”にキャンプにいった。

笠岡から北木島の楠港に着いてキャンプ場まで歩いて行って、帰りも楠港から笠岡に帰った。

 

広い北木島の楠しか見なかったが、それでも北木島がいかに栄えているかは、感じることが出来た。

・・・今、楠は限りなく”限界集落”そのものになっている。

 

 

石切り唄は、日本全国ありそうだが(地元優先で)笠岡市北木島をまず記載する。

もっとも笠岡市だけでも北木島・白石島・高島と産地は多い。

以前読んだ本には、福山城の石垣は北木島よりも白石島や高島の方が多いというように記憶している。

 

・・・・


「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

石切り唄

瀬戸内海の島々は花崗岩の産地で、石大工と呼ばれる職人によって支えられてきた。

岡山県では笠岡市の北木島・白石島が石の産地として有名である。

岩盤から石を採るのは大割りといって、

深さ三、四尺から二〇~三〇尺の火薬の穴を岩にあける。

三人の共同作業で行い、

一人がノミを持って少しずつ回す。

あとの二人が交互にゲンノウでそのノミを叩き、穴を開ける。

その穴に火薬をつめて発破で岩を崩す。

この大割り作業のとき歌うのが「打ちつけ」と呼ばれる唄で、

唄の調子が狂うと、穴がよく掘れないし、手許を狂わせると、回し方の手を叩くことになる。

作業も歌も真剣そのものである。

 


・・

大割りにした石を各人がノミとセットと呼ばれる槌で小さく割ったり、石の角を取ったり、

または、矢穴を掘る時に歌うのが「すくい」「小割り節」である。

ノミはすぐにちびて先が丸くなるので、それをハンマーで叩いて尖らせる。

その作業のとき歌うので「ノミとぎり唄」である。

 


また、切り出した石を採石場から波止場まで運び出す時に歌うのが「石追い唄」「石出し音頭」である。

これらの唄を総称して「石屋節」ともいう。

 

笠岡市北木島町

「打ちつけ」

北木よい所 大石の出所

うとうて聞かしょか 石屋節


うちの殿御の石切る音は

三里聞こえて二里ひびく


朝は朝星 又夜は夜星

鳴は石屋の槌の音

 

「すくい」

石を買うなら北木の大石を

色が白うて肌が良い

嫁に行くなら石屋の嫁に

右も左も金ばかり

 


「石追い音頭」

ヤレー追うたり ソーラ追うたり

もう一つ追うたり ソーラ追うたり

 


「ノミとぎり唄」

思い直してまた来てヨーアー

枯れ木にゃ二度止まる

 

研いでも研いでも 地が鉄なれば

折り節ゃ地金の錆が出る

 

・・・・・

・・・・・・・

「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行


北木島石切唄ほか  岡本利夫

山が高うて あの娘が見えぬー

あの娘可愛やー 山憎くやー

ここで唄とたらー 聞こよか見よか

可愛いーあの娘の膝もとえー

 

・・・
石切唄は、民謡ではない!

重労働歌である。

朝星の残る頃山に登り、

夜星がキラめく頃に仕事を終えて山を降りる。

その間、

思いノミと重い鎚で固い岩盤に挑む苦しさ!!

黙っていたら呼吸がつまる、何かを叫ばねば胸が裂けそう!

そこから発する声!

それが、「石切り」の唄である。

・・・


朝は朝星 夜は又夜星

鳴るは 石屋の鎚の音

 


石山の家は、家ではない、掘立小屋だ。

石屋節は、全国各地でも唄っていたが、

格調のある唄ではなく、口から出まかせに唄っていた。

 


石が素直に割れるようになると、途端に待遇がよくなる。

一日四回食(朝5.6時、10時、午後3時、午後5.6時)、まばゆい程に光る「銀めし」だ。

熱々の飯が、腹いっぱい食べられる。

石工になった喜びが込み上げてくる。

しみじみと、石工になってよかったと思うのである。

石屋すりゃこそ 米の飯喰うがヨ

親方はボロ着て 麦を喰わようー

 

・・・・

 


北木島石切唄  (北木島石切唄保存会)


大割石切唄

一、

浪速名物 大阪城も

北木で運んだ 石でもつ

二、

嫁に行くなら 石屋の嫁に

右も左も 金ばかり

三、

山が高うて あの娘が見えぬ

あの娘 可愛や 山憎くや

四、

石屋すりゃこそ 米の飯 喰うが

親はボロ着で 麦を喰わよう

五、

ここで唄とたら 聞こえようか 見よか

可愛いあの娘の 膝もとえ

・・・

小割石切唄

一、

北木日本一 大石 出どこ

きいておくれよ 石や節

二、

朝は朝星 又夜は 夜星

鳴は石やの 鎚の音

 


三、

うちの殿ごの石切る 音は

三里聞こえて 二里ひびく

四、

一度来なされ 北木の 島へ

石と 魚の 宝島

五、

山は宝石 沖きや鯛 の群

黄金吹き寄す 北木島

「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行

 

 

 

撮影日・2018.10.25  (笠岡市北木島町)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音戸の舟唄

2023年01月31日 | 民謡

 

笠岡市にも渡船があったが、昭和40年前後すべて無くなった。
生江浜⇔金崎
片島⇔神島
横島⇔神島
高島⇔神島
小飛島⇔大飛島

 

 

呉の音戸渡船も、
呉市HP、に
令和3年10月31日をもって廃止となりました。

 


ヤーレー 船頭可愛や
音戸の瀬戸でヨー
一丈五尺の ヤーレノー 
艪がしわるヨー


ヤーレー船頭可愛いと
沖行く船にヨー
瀬戸の女郎衆が ヤーレノー 
袖濡らすヨー

ヤーレー泣いてくれるな
出船の時にゃヨー
沖で艪櫂(ろかい)の ヤーレノー 
手が渋るヨー

ヤーレー浮いた鴎の 
夫婦の仲をヨー
情け知らずの ヤーレノー 
伝馬船ヨー

ヤーレー安芸の宮島
廻れば七里ヨー
浦は七浦 ヤーレノー 
七恵比寿ヨー

ヤーレーここは音戸の瀬戸
清盛塚のヨー
岩に渦潮 ヤーレノー 
ドンとぶち当たるヨー

 

 

 

・・・・

たいへんな労作である、
「広島県の民謡」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行
に”音戸の舟歌”が記載されていない。
なぜだろう?

・・・

 

撮影日・2021.4.26 呉市 (渡船廃止の6ヶ月前)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呉音頭

2023年01月31日 | 民謡

 

就職し、最初の赴任地が呉だった。
会社の業績がうなぎ上り(当時は、ほぼすべての会社がそう)だったこともあり、
週に何度も飲み屋に行った、仕事の名目で、すべて会社持ち。

その時に”呉音頭”を覚えた。
何度も聴いていたので三味線の音色と唄は、今でもよく覚えている。

 

(軍港)

 

(住んでいた宮原通8丁目の寮に行くと、寮は無く公園になっていた)

 

・・・

【呉市HP】

「呉音頭」
  詞:島川光栄氏
  作曲:杵屋七峰氏

呉が見たさに 逢いたさに
ちょいと音戸の 瀬戸あけて
千艘(ぞ)万艘と 呉はよいとこ
千艘(ぞ)万艘と 船が来る
ハ ヨイ ヨイ ヨイヤサノ ヨーイヤナー

 

(両城町200階段)


投げた碇(いかり)が 重とうて
一夜二夜じゃ 揚がりゃせぬ
せめて麗女(うるめ)と 呉はよいとこ
せめて麗女(うるめ)と 七夜まで(略)
花の中から 歌がする
春は桜の 平原へ
月も浮かれて 呉はよいとこ
月も浮かれて 出てのぞく(略)
煙の宮原 朝夕に
産業景気の 汽笛(ふえ)がなる
工場(こうば)通いは 呉はよいとこ
工場通いは 仇にやせぬ(略)
港出て行く あの船へ
休山から 声かけて
持たせやりたや 呉はよいとこ
持たせやりたや 呉だより(略)
招くネオンの 花道を
君と中ブラ 仲のよい
肩を柳が 呉はよいとこ
肩を柳が 又まねく(略)
秋は色づく 野呂の山
去年見染めて 今年また
逢うてうれしい 呉はよいとこ
逢うてうれしい 呉の人(略)
港繁昌の 波の上
かもめどりさえ 晴ればれと
呉を祝うて 呉はよいとこ
呉を祝うて ひとおどり(略)

 

(堺川と灰ヶ峰)


・・・

 

撮影日・2012..2.10

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笠岡港ぶし

2023年01月30日 | 民謡

 

”笠岡港ぶし”は民謡ではないが、郷土歌謡なので載せる。

しかも”野口雨情”大先生の作品なので載さないわけにはいかない。

もっとも、曲の方は聴いたこともない。

下記の「岡山の歌謡」という本で、初めて知った。

 

・・・

 

笠岡港ぶし

野口雨情 作詞
あいに来るときゃ 笠岡は港
聞かれりゃ 魚釣り舟遊びと
いうておいでよ
わたしゃ待つ身でままならぬ

「岡山の歌謡」

 英玲二  岡山文庫  昭和45年発行

・・・

 

 

 

撮影日・2022.11.20

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする