初めて北木島に行ったのは、高校1年生の夏休み、
中学校の同級生と三人で”楠の浜”にキャンプにいった。
笠岡から北木島の楠港に着いてキャンプ場まで歩いて行って、帰りも楠港から笠岡に帰った。
広い北木島の楠しか見なかったが、それでも北木島がいかに栄えているかは、感じることが出来た。
・・・今、楠は限りなく”限界集落”そのものになっている。
石切り唄は、日本全国ありそうだが(地元優先で)笠岡市北木島をまず記載する。
もっとも笠岡市だけでも北木島・白石島・高島と産地は多い。
以前読んだ本には、福山城の石垣は北木島よりも白石島や高島の方が多いというように記憶している。
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「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行
石切り唄
瀬戸内海の島々は花崗岩の産地で、石大工と呼ばれる職人によって支えられてきた。
岡山県では笠岡市の北木島・白石島が石の産地として有名である。
岩盤から石を採るのは大割りといって、
深さ三、四尺から二〇~三〇尺の火薬の穴を岩にあける。
三人の共同作業で行い、
一人がノミを持って少しずつ回す。
あとの二人が交互にゲンノウでそのノミを叩き、穴を開ける。
その穴に火薬をつめて発破で岩を崩す。
この大割り作業のとき歌うのが「打ちつけ」と呼ばれる唄で、
唄の調子が狂うと、穴がよく掘れないし、手許を狂わせると、回し方の手を叩くことになる。
作業も歌も真剣そのものである。
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大割りにした石を各人がノミとセットと呼ばれる槌で小さく割ったり、石の角を取ったり、
または、矢穴を掘る時に歌うのが「すくい」「小割り節」である。
ノミはすぐにちびて先が丸くなるので、それをハンマーで叩いて尖らせる。
その作業のとき歌うので「ノミとぎり唄」である。
また、切り出した石を採石場から波止場まで運び出す時に歌うのが「石追い唄」「石出し音頭」である。
これらの唄を総称して「石屋節」ともいう。
笠岡市北木島町
「打ちつけ」
北木よい所 大石の出所
うとうて聞かしょか 石屋節
うちの殿御の石切る音は
三里聞こえて二里ひびく
朝は朝星 又夜は夜星
鳴は石屋の槌の音
「すくい」
石を買うなら北木の大石を
色が白うて肌が良い
嫁に行くなら石屋の嫁に
右も左も金ばかり
「石追い音頭」
ヤレー追うたり ソーラ追うたり
もう一つ追うたり ソーラ追うたり
「ノミとぎり唄」
思い直してまた来てヨーアー
枯れ木にゃ二度止まる
研いでも研いでも 地が鉄なれば
折り節ゃ地金の錆が出る
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「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行
北木島石切唄ほか 岡本利夫
〽
山が高うて あの娘が見えぬー
あの娘可愛やー 山憎くやー
〽
ここで唄とたらー 聞こよか見よか
可愛いーあの娘の膝もとえー
・・・
石切唄は、民謡ではない!
重労働歌である。
朝星の残る頃山に登り、
夜星がキラめく頃に仕事を終えて山を降りる。
その間、
思いノミと重い鎚で固い岩盤に挑む苦しさ!!
黙っていたら呼吸がつまる、何かを叫ばねば胸が裂けそう!
そこから発する声!
それが、「石切り」の唄である。
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〽
朝は朝星 夜は又夜星
鳴るは 石屋の鎚の音
石山の家は、家ではない、掘立小屋だ。
石屋節は、全国各地でも唄っていたが、
格調のある唄ではなく、口から出まかせに唄っていた。
石が素直に割れるようになると、途端に待遇がよくなる。
一日四回食(朝5.6時、10時、午後3時、午後5.6時)、まばゆい程に光る「銀めし」だ。
熱々の飯が、腹いっぱい食べられる。
石工になった喜びが込み上げてくる。
しみじみと、石工になってよかったと思うのである。
〽
石屋すりゃこそ 米の飯喰うがヨ
親方はボロ着て 麦を喰わようー
・・・・
北木島石切唄 (北木島石切唄保存会)
大割石切唄
一、
浪速名物 大阪城も
北木で運んだ 石でもつ
二、
嫁に行くなら 石屋の嫁に
右も左も 金ばかり
三、
山が高うて あの娘が見えぬ
あの娘 可愛や 山憎くや
四、
石屋すりゃこそ 米の飯 喰うが
親はボロ着で 麦を喰わよう
五、
ここで唄とたら 聞こえようか 見よか
可愛いあの娘の 膝もとえ
・・・
小割石切唄
一、
北木日本一 大石 出どこ
きいておくれよ 石や節
二、
朝は朝星 又夜は 夜星
鳴は石やの 鎚の音
三、
うちの殿ごの石切る 音は
三里聞こえて 二里ひびく
四、
一度来なされ 北木の 島へ
石と 魚の 宝島
五、
山は宝石 沖きや鯛 の群
黄金吹き寄す 北木島
「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行
撮影日・2018.10.25 (笠岡市北木島町)