しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

はねおどり歌

2023年01月30日 | 民謡

 

民謡よりも、踊りが有名な「はねおどり」
広島県無形文化財。

踊は素朴でありながら、豪快な感じもする。
元は、「虫送り」と「雨乞い」だそうだ。↓

 

・・・


【福山市HP】はねおどり

この踊りは古くから旧沼隈郡一円と旧深安郡南部及び駅家町万能倉で踊られたもので,
その原形は農村行事の「虫送り」「雨乞い」に求めることができる。
江戸時代,水野勝成が福山城主となり,この踊りがすこぶる勇壮で活気に満ち,士気を鼓舞するとしてこれを奨励し,
各村々に鉦鼓を給付,雨乞い,虫送り,祭りなどの諸行事で行なわせたと伝えられ,このころから盛んになった。

 


はねおどり歌

沼隈郡沼隈町

『はねおどり』は沼隈郡沼隈町に残る県指定の無形文化財である。
白地の浴衣に白い鉢巻き、黒の手甲と黒い脚絆、
わらじを穿いた若い衆が、
大胴という大太鼓をからだの前面に吊るし、
それを打ってはねたりおどったりする。
恐らく豊年を感謝し、神社に奉納する農民の「豊年おどり」が主で、
これに「念仏おどり」が加味されたものであろう。

 


めでたい世のはじめには
地から湧いて出て
空から降る
こちの世盛りに
七から立てて
かけもすまいぞかかりもすまい
まま子まま嫁
なじょ憎かろに
いとし殿御の子じゃないか

 

 

 

 

この『はねおどり』は沼隈郡沼隈町山南のほか福山市田尻に残っている。

「広島県の民謡」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行

 

撮影日・2016年5月15日   

 

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笠神社の祭り唄

2023年01月29日 | 民謡

 

 

笠岡の笠神社の祭り唄。

お御輿をロープでぐるぐる巻きしているのが珍しい。

 

 

・・・・


「新笠岡天満宮記」 かさおか町の昔を知る会 笠岡地区まちづくり協議会 平成29年発行
(歌詞は膨大なため、抜粋した)

 


見たかナ 聞いたか 吉津のとんどハ 上はナ 鶴亀 五葉の松

見たかななぁ 聞いたか 笠岡神輿はよ 中はなぁ槍で 外は麻

古城のナ 山から 町の灯 見ればヨ 祭りナ祭で 夜が更ける

一人米つく あの水車 誰を待つやら くるくると

俺とお前は 卵の仲よ 俺が白身で きみを抱く

俺とナ お前とは 羽織の紐ダヨ 固くナ 結んで胸に抱く

下の松茸 何見て伸びる 上のあけびを 見て伸びる

嫁になあ するなら 笠岡娘よ ありゃ 色わなあ 黒いが これさえ おめじょうず

歌はひばりか 遍路の鈴かよ かすみ たなびく こうのしま

三十路女と お寺の鐘は 突けば突くほど 味が出る

出船入船 数ある中に 私待つ船 ただ一つ

色気ナづいたかうどん屋の娘はヨ 入れてナ 温めて 汁を出す

成りたなナなりたや 風呂屋の椅子にヨ おそそナ舐めたり眺めたり

二階な貸します お望みならば 下もナ 貸します 後家じゃもの

入れておくれよ 痒くてならぬ 私一人が蚊帳の外

西のなぁ 浜から本町抜けてよ 今日はなぁ若衆の 御輿唄

 

 


・・・・

撮影日・2022.10.9

 

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高瀬舟歌(吉井川)

2023年01月27日 | 民謡

 

吉井川の高瀬舟は、河川舟運の開発者として有名な”角倉了以”のモデルにもなった。

現在でも、その流れを見ていると理想的な舟運の河川であるように感じる。

 

(柵原ふれあい鉱山公園)

 


高瀬舟(たかせぶね)

説明板

柵原のある美作の国は山国でしたが、
吉井川の高瀬舟によって瀬戸内地方との交流ができたので、
経済活動が盛んでした。
江戸時代の柵原には6ヶ所の船着場があり、
高瀬舟は160隻、船頭も480人いました。
高瀬舟は年貢米をはじめ、
木炭や薪など、この地方の品物を積んで吉井川を下り、
帰りには様々な生活用品を積んで、吉井川を上ってきました。
この高瀬舟は、1992年に再現したものです。

 

・・・

高瀬舟

「加茂町史」

古代以来明治にはいるまでの陸上交通手段は、人畜力のみであったから、
人肩馬背により四方を囲む山々の峠道を越えて行われた。
なかでも年貢米の輸送は、津山あるいは樽河岸へと陸送されるのが常であり、
その納入期には人々の長蛇の列が各輸送路に続いた。
こうした重量貨物で一時に多量の輸送を必要とするものは、
道路輸送よりも荷痛みも少なく、運賃も割安であった水運によって輸送しようという試みが各地で行われた。

高梁川の場合14世紀初頭には、支流成羽川で広島県境ふきん(備中町小谷)まで難工事のうえ通行していた。
当時本流では、数なくとも高梁までは通航していたと考えられる。
旭川・吉井川についても、それぞれ勝山・津山・林野までは中世末期に通航してたと考えられる。
この中世の船路が近世大名たちによって開発された。
航路の維持には、年平均1.000人の有償労働賦役を繰り出して川堀りし、藩の課題となった。

 

・・・・


「せとうち産業風土記」  山陽新聞社  昭和52年発行


今から500年前の室町時代に、早くも岡山県下三大河川には、
中流当たりまで高瀬舟が上っていた。
江戸時代になると、中国山地の山ふところまで航路が伸び、
高梁川は新見市、
旭川は真庭郡久世、落合両町、
吉井川は英田郡美作町、苫田郡鏡野町と奥深く進み、
まさに「舟、山に登る」といった感があった。


舟の長さは12m、幅2m、高さは1.1mほど。
どんな急流でも、幅5mの水路さえあれば自由に通航できたという。
船頭3人は、櫂、櫓、帆を巧みに操りながら下っていく。
江戸時代、高梁川には常時183艘もの舟が往来していたという記録が残っている。


高瀬舟は1艘で、
米なら35俵、
人なら30人運べ、
馬20頭分以上の働きがあり、物資輸送の花形だった。


鉄道が開通し、陸路が整備されると、客と貨物を奪われ
旭川、吉井川から次第に姿を消していった。
昭和3年、伯備線が全線開通するとともに、
高梁川でもその姿は見られなくなり、
河川交通の主役としての長い歴史を閉じる。

・・・

 

(周匝)

 

 

「柵原町史」 柵原町 第一法規出版 昭和62年発行

 

高瀬舟のさし声

 

一、

ほほい ほい ほい

瀬口じゃ 瀬口じゃ 引きずりまわせいや

ふにゃー(舟は)

おきい(沖に)

向いとるじゃないかいや

ろろ へいろー いへん

 

二、

おうい

お最中じゃ ないかいや

ぐいと引いちゃりやー

こいへ へいろー いへん

三、

おーい

引いちゃりやー

ふにゃー頭んばあじゃいわいや

ろろ へいろ いへん

 

(注)

決まった歌詞はなく、その場に合わせて即興的に歌ったそうである。

 

・・

 

「鏡野町史・通史編」  鏡野町 ぎょうせい 平成21年発行

 

年貢米の輸送はもとより商品輸送においても、

牛・馬を使っての陸路輸送に勝る輸送力をもつ高瀬舟は、

当時において第一の極めて有利な輸送手段であった。

そこで、

領地が山間部にある地域では、そこに谷筋が深く入り込む河川航路の開発は重要な意味をもつことになる。

したがって、更に上流へと航路の開発が企てられることになった。

 

河川の氾濫等により変化する航路維持には、大変な労力を必要とした。

川沿いの村々では、川底を掘り下げて航路を維持・確保するための川除けを、村々の責任において毎年毎年行わなければならなかった。

・・・

(津山市三浦駅ふきん)

 

・・・

 

撮影日・2022.4.5  岡山県赤磐市・美咲町・津山市

 

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塩田・浜子唄

2023年01月27日 | 民謡

 

昭和30年頃まで、瀬戸内各県の沿岸部で行われていた入浜式塩田。

 

山波・松永・大門・笠岡・寄島などの跡地は、住宅団地や商業・工場となり、面影すらない。

もし現地案内人がいても「ココが汐入川であった」、という名残を見せるにとどまるだろう。

 

 

(「広島県の民謡」から)

 

「寄島風土記」 昭和61年発行

天候が相手で、やけつく夏も、凍てつく冬も、盆も正月もない。
雨さえ降らねば朝5時から晩の6時まで、1日6回のメシを食べるきつい仕事であった。

万牙(まんが)
浜子は理屈は知らないが、朝、昼、晩と太陽の方向と風向きを考えた長い間の経験で、縦、横、斜三様の引き方で砂に着いた海水濃度を高くする。
力と技術を要するので素人には引けない。

塩を撒く
長い柄の小さな木の酌で中溝の海水を塩田に撒く。
満便に撒くので熟練した技術を要する作業である。

沼井堀り
沼井は約4m平方の桝形でかん水をとるところ。
ろ過がすんだ砂を掘り出して沼井の肩に積む。

海水を入れる
潮の干満に気を配り堤防の大樋を抜き、中樋、小樋と抜いて濃い海水(潮の三合満ちまでは海水の濃度が薄い)を注入する。この樋の抜き差しは油断ができない。
失敗すると塩田に海水が侵入し、隣の塩田にも迷惑をかけるので上浜子が受け持っていた。

 

一日の作業


万牙を引く。
昼寝をする。
午後2時、浜持ち。寄子が寄板を持って、力の限り踏ん張って砂を沼井肩の線に一列に寄せる。
女、子供の仕事であるが息も絶えだえ、汗が流れる。
気が遠くなるほど塩田は広い。
夏の太陽は容赦なく照りつける。

次に入鍬がつづく。
特殊な鍬で砂を沼井の中に放り込む。
最も体力がいる作業で屈強な浜子がこれにあたる。

その後に
振り鍬が沼井の肩に積んだ散土を長い鍬の爪先にひっかけて塩田にまんべんなく撒く。

つづいて沼井踏が砂を沼井鍬で踏みならす。

灼熱の炎暑に寄せ子は入鍬に追われ、入鍬は振り鍬に追われる一連の作業は汗を拭く間もない阿修羅の地獄絵である。
寄子は大きな杓を持って沼井壺から藻垂れを沼井に汲み上げる。数多い沼井壺を次々に汲み上げる。
浜子は大きな浜たごを担いで中溝の海水を担いで沼井に注ぐ。
その頃鉢山に太陽が沈む。

従業員400人の寄島塩業は漁業と二大機関産業として貢献した。
第二次大戦中は軍需産業として重視され、幹部従業員には兵役免除の特権があった。
また戦後の食糧危機を救うにも塩は貴重な資源であった。
今では塩田の跡もない。

 

(2022.6.9  浅口市寄島町 画像の左半分くらいが寄島塩田跡地)

・・・

昭和41年「寄島町史」


大浦神社は郷社昇格が念願だったが、その労が報いられてから一か月もたたない昭和21年2月1日にはマッカーサー指令が出され、神社は国家管理の手を離れた。

東は早崎港から西は青佐西端に至る2キロに及んだ。
二町歩(2ヘクタール)をもって1番とし6番まであり、その後昭和30年には15番まで増えた。
明治38年、一日七トン貨車20輌を30日間発送し、山陽鉄道との特約トン数に達せしめたと言われ、当時の生産量は松永・味野・山田塩田を凌駕していた。
明治38年専売法が施行され、塩業者は販売から手をひきもっぱら製塩のみ従事することとなった。

「入浜式」、
満潮より低く、干潮より高い平らな地面を作り、その上に細かい砂をまき、水圧と毛細管現象によって塩田中の溝から表面に達した海水の水分を蒸発させて、塩の付着した砂を集めて塩を溶かし出す方法で、天保期には全国塩田の90%が入浜式だった。
採集したかん水は、各塩戸とも角型の釜で煮沸蒸留により採塩していた。
昭和13年寄島町片本浜に蒸気利用式丸管機を設置すると同時に、かん水はパイプで工場へ送水し一括製塩することになった。
梅雨明けから盛夏にかけて生産が急上昇する季節には、どの塩戸にも臨時の「寄せ子」をどっと雇い入れ、炎天に作業するさまは壮観でもあった。
夏季は塩田労務者、冬季は酒造りの杜氏として出稼ぎに行くような契約で、毎年就業した者もかなりあった。

昭和29年枝条架式濃縮装置をを併用する方向に進み、生産高も従来の1.8倍を製塩んするようになった。

塩業の閉鎖
昭和30年、全国塩田に流下式の採かん方式が採られるや全国の製塩高は急激に上昇した。
必要食糧塩は年間100万トンといわれていた。
工業塩は既に国内塩の半額で200万トン輸入されていた。
加えて、時代の進歩はイオン交換膜によって海水より水分を除き濃縮かん水をつくるまでになり、ついに全国1/3の塩田が姿を消すことになった。
そうして昭和34年11月12日神島・玉島・水島とともに寄島では製塩に終止符がうたれたのである。

 

・・・・・


「広島県の民謡」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行

「お櫃の底を叩く」ほど食わねばならぬ激しい労働、
浜子小屋という特殊な環境での生活、
こうした奴隷的な境遇によって、一般の人の彼らを見る眼は冷たかった。
「子どもをおどすのに『浜子にやろうか』といえば泣き止んだ」というほどであった。


浜子歌

尾道市山波町
浜子可哀やェー 二号半の飯じゃ
足にゃ黒土手にゃ豆がヨーイヨーイヨー

 

豊田郡東野町 (大崎上島)
一夜御寮でも妻持ちゃいやよ
妻の恨みで恐ろしや

 

三原市鷺浦  (佐木島)
来るか来るかと待つ夜は来ずと
待たぬ夜に来て門に立つ

 

豊田郡瀬戸田町 (生口島)
浜子浜引く寄せ子は寄せる
可愛い主さんは土を振る

浜子さんとは承知で惚れた
夜釜たきとは知らなんだ

 

・・・・

(日本最大の製塩都市・香川県坂出市 沙弥塩田跡ふきん  2019.5.11)

 

 

・・・

 

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

浜子唄

真夏の太陽の下で、まっ黒い砂の上を馬鍬(まんが)で砂をかき起こし、

寄板を押して塩分の溜まった砂を寄せる。

これらの労働をするなかで歌われたのが浜子唄である。

 

【玉野市】

備前岡山児島の日比町ヨイヨイ

日比の塩田浜子ぶしヨイヨイ

浜子浜ひき寄子がよせりゃヨイヨイ

あとで浜子がすくいこむヨイヨイ

寄子かわいやねえさんかぶりヨイヨイ

浜子なかせる白い足ヨイヨイ

浜子さんとは承知でほれたヨイヨイ

夜釜たきとは知らなんだヨイヨイ

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

塩田の「兵役免除」が↑記されているが、

そのことは↑にあるように”幹部従業員”に限られる。

それで、↓記事を追加した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会編  山陽新聞社 2000発行

 

自家製塩の奨励

 

塩田労働者を徴兵・徴用で奪われて、塩の生産も落ち込んだ。

前年晩秋から、漬物用の塩の不足が問題となり、

この5月、国は専売法での製塩制限を撤廃して、自家用製塩の奨励を始めた。

曲折した斜面を作り、何度も海水を流して17度程度のかん水にして、煮詰めれば一日一キロの塩は取れると指導したが、燃料不足で不可能とわかった。

かん水をそのまま利用せよ、という指導に変わった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

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塩田・沼井叩き歌

2023年01月26日 | 民謡

 

昭和45年頃、国鉄の松永駅に列車が停まると、

駅の北側にはイ草の田んぼが広がり、駅の南側には放ったままの入浜式塩田が海に向かってのびていた。

 

岡山県の児島小川ふきんには、流下式塩田の枝条架(しじょうか)が広大にひろがっていた。

「瀬戸大橋」の付帯工事とは、あの塩田跡の救済事業じゃあないか、と思ったりもした。

 

・・・

 

(江戸時代初期の福山藩の新田開発の大功労者・本庄重政 )

 

(浜子の像・JR松永駅前  写真右側が沼井)

 

・・・

「広島県の民謡」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行

 

沼井叩き歌  福山市松永町

「沼井」(ぬい)というのは塩田の中に切ってある四角の井戸のような形のもので、
ここに塩のついた砂を知れる。
夏、塩田を開始する前に、その沼井の側を粘土で五寸幅ぐらいに塗り固めて、塩水が漏らぬようにする。
その粘土をバイ木という板で叩く作業が「沼井叩き」、
その折りうたわれる歌が「沼井叩き歌」である。

塩作りは夏半年仕事をし、寒い半年は休んだので、「沼井叩き」は春先、主として子どもたちの内職として行われた。

 

 

備後松永ヨー塩浜ヨーイどころ
ヨーイ ヨーイ ヤレヤーレ エーイ
浜のからいは御免 御免なれ

沖の暗いのに白帆が見える
あれは紀国蜜柑船

 

・・・・

 

(松永クレーン学校は塩田跡地)

 

 

(松永の汐入川。瀬戸内地方は汐入川はだらけ)

 

撮影日・2019.4.12  福山市松永町

 

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とんど(福山市)

2023年01月26日 | 民謡


小学生の時、春休みの楽しみは福山の「とんど」を見に行くことだった。
福山の「とんど」は「桜祭り」を兼ねていた。
福山駅におりたら、まず福山城に行って桜を見て、それから街を歩いた。

大相撲「福山場所」があり、通り町の商店に力士は分散して泊っていた。
”ふんどし担ぎ”と呼ばれる幕下以下のお相撲さんが、商店街を闊歩していた。
たいていサーカスも興行してた。
屋根はなく、青天でのサーカスだったような気がするが、記憶違いかもしれない。

映画館に入ってチャンバラ映画を見て、帰るのが「とんど」見物のパターンだった。

 

・・・

 

「広島県の民謡」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行

とんど  福山市

「とんど」というのは左義長、つまり正月に用いた七五三縄(しめなわ)の類を燃やす行事である。
福山では、今から三百三十年ほど前、水野侯が城主となった時、
七五三縄の意味を拡充して、竹類などを集め寄せて燃やしたのが、この福山の「とんど」の起源である。
その後、燃焼物が大規模となり、ついに台輪の上に四本の竹を立て、脚を広げて尖端の部分を結び合わせたものへ、いろいろな飾りをつけ、
頂上に鶴亀とか花車とかの作り物を飾り、この巨大な「俵」を町内を引いて練り歩いて、
最後に燃やしたそうである。
現在は正月に行わず、毎年四月になって「とんど」を行う。

 

 

〇三味線のはいらない「とんど」


とんどとんどと吉津のとんど ハヨイヨイ
上は鶴亀 チョイト 五葉の松
ソラ ヨーイヨーイヨーイヤナ
ハラ リヤリヤ  コラ リヤリヤ ハー ヨーイヤナ

見たか 見てきたか 福山の城を
前はお堀でボラが住む

備後福山十万石よ
丸に鷹の羽の紋どころ

本庄土手から長者町見れば
裸馬かやくらがない

立ちよた立ちよたで昔は立ちよた
お上お仲間槍立ちよた

 

〇三味線のはいる「とんど」

行こか戻ろか戻ろか行こか ハヨイヨイ
ここら思案のチョイト木綿橋
ソラ ヨーイヨーイヨーイヤナ
ハラ リヤリヤ  コラ リヤリヤ ハー ヨーイヤナ

ここはどこどこ船頭衆に問えば
ここは箕島竹が鼻

場所じゃ場所じゃと船橋場所じゃ
出船入船宝船

四国屋島や壇ノ浦のいくさ
今にあるよな絵にかいて

色でしくじる紺屋の手間衆
浅黄染めよとて紺染めた

お前独りか連れ衆はないか
連れ衆あとから駕籠でくる

 

 

撮影日・2023.1.9

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たたら唄

2023年01月25日 | 民謡

かつて中国地方の山間部の大産業であった製鉄は大正時代頃までつづけられた。
「たたら」が有名だが、「かんな流し」や「燃料炭」の作業も負けず厳しい。
言ってしまえば、先人の日常の仕事や暮らしは山に住もうと、里に住もうと、町に住もうと皆食べて生きることだけで精一杯だった。

 

・・・

明治初年において新庄村は「山はわいていた」。
根雨の近藤氏が経営していた。
農家出身の「鉄山者」が伯耆・備中・備後から妻同伴で来ていた。
狭い山間のたたら集落も炭材の枯渇とともに廃墟となっていった。
急速にでき、急速に消えていくのが常である。
鉱山者の多くは九州の八幡あるいは大阪の鉄工所へと移動していった。

「瀬戸内の風土と歴史」 山川出版社 昭和53年発行

・・・

 

 

・・・・

製鉄業の発展は、近世封建社会では領主の統制下でだけ許された。

領主統制下におくことは、無制限な鉄穴流しは、下流平野地域に洪水の危険をひきおこし、農業生産を破壊するためである。

 

雪深い山間部は、農業生産力は低く、農業収入も少なく、到底農業だけでは生活していけない。

ここに百姓を居つかせるには、どうしても副業が必要である。

農業は春から秋へ、秋から春の期間は製鉄業に従事するというかたちが、こうしてつくられた。

移住してきた鉄山労働者にも、家屋敷も貸しつけられ、春から秋には農業にあたったのである。

耕地ともに山林や家屋敷をワンセットにした小作制度がうみだされた。


「島根県の歴史」内藤正中著 山川出版社 昭和44年発行 


・・・・

 

明治になると、洋式製鉄に押され、大正の末年にはたたらの火が消えてしまった。

炉の両側に天秤ふいごと呼ばれるふいご台がある。

番子(ばんこ)と呼ばれる男が足を踏んで炉に空気を送るのだが、灼熱の炉の脇での作業だけにかなりの重労働だ。

そこで出雲では、
「乞食になっても番子になるな」といわれていた。

たたらの製鉄方法は、

炉のなかで木炭を燃やし、約30分ごとに木炭と砂鉄を少しずつ加えてゆく。

炭と砂鉄の投入の仕方については秘伝があるという。

 

炉の中で溶けた不純物(鉄滓)は炉の底部の穴から溶岩のように流れ出し、鋼になる「 鉧 ( けら )」が中に蓄積されていく。

これを不眠不休で三昼夜続け、四日目に炉をこわし鉧を取り出す。

このサイクルは「一代(ひとよ)」と呼ばれている。

それまでに費やされる、

砂鉄は約10トン、

木炭は約12トン。

玉鋼はわずか約800キロが出される。

 

奥出雲たたらの道を往く  「歴史と旅」秋田書店 昭和59年12月号

 

 

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

たたら唄

山を掘り崩し、水路に流して砂鉄を選び分ける。

粘土で築いた炉の中に木炭といっしょに入れて、ふいごで送風して熱し、

鋼や鉄を精錬する。

たたら吹きといい、

風を送るのに、天井からぶら下がった綱をもってふいごを足で踏むのであるが、

その時の唄がたたら唄(番子唄)である。

番子というのは、ふいごを踏む職人のことである。

二、三人ずつ三交代で三・四昼夜、精錬が終わるまで踏みつづけるのである。

単調でしかも重労働であった。

 

 

西粟倉村

たたら番子はヨー 乞食より劣り

乞食ゃ夜寝てヨー 昼また稼ぐヨー

新庄村

番子ばんことヨオ

あほうでもやれる

片目あるなら あほでもやれる

 

新見市

親父炭焼き わしゃ番子

ともに火を吹く火を送る

・・・・

 

 

撮影日・2020.8.19 島根県雲南市吉田町 (奥出雲)

 

 

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下津井節

2023年01月23日 | 民謡

 

母方の祖父母の家には蓄音機があった。

レコードを乗せてから、手でぐるぐる回し、針を置けば歌が始まった。

針がちびるから、と蓄音機を聴いた記憶は少ないが、

数枚だけあったレコードの一枚は「下津井節」だった。

♪下津井港はヨー、は意味がわかるが、そこ以外の歌詞の意味はまったくわからなかった。

 

当時人気・実力ともナンバーワンの三橋美智也のレコードだった。

 

・・・

下津井


「岡山県の歴史散歩」  山川出版社 1976年発行

下津井の町は、下津井城の城下町としてつくられたが、その後、
北前船の積荷のつみおろし、
讃岐の金毘羅権現と瑜伽権現をむすぶ客船の潮待ちの港、
としてさかえた。


祇園宮の下の白壁・なまこ壁の土蔵、明かり障子にべんがら格子の家並みは、
かつての遊郭のあたり。
威勢のよい下津井節とはうらはらに、
薄幸な遊女のかなしいすがたをしのばせている。

 

 

・・・・・


「岡山の歌謡」 英玲二  岡山文庫  昭和45年発行

下津井節 倉敷市下津井

昭和14年7月5日、岡山放送局から下津井節が電波に乗ったとき、
アナウンサーは「岡山が自慢する三つの代表的なものといえば、
備前米と、吉備団子と、この下津井節である」と説明した。

元来、民謡というものは口から口によって流布するものである。
歌詞は残念なことに下津井の専売ではない。
歌詞は志摩から西へと流れて来たものらしい。
曲の方は播州室津の「散財唄」の借り物である。

明治になって”船まんじゅう”がやかましくなり、
赤線地帯が整理された結果が大島や御手洗、木江、下津井などに女郎屋が残り、
そこに室津節が根をおろしたものである。

ところで、なぜに瀬戸内一帯に歌われていた室津節のお株を下津井が独占したかというと、
全くラジオ放送のおかげなのである。
昭和6年頃、下津井に児太郎、雪治という美声の芸者がいて「室津の散財節」が得意で、たびたび電波にも乗り、その都度大変な評判となり、次第に流行していった。
いつとはなしに下津井節と名づけられ、
新橋喜代三がポリドールレコードに吹き込んでから、一躍有名になった。
昭和32年、岡山県観光連盟が三橋美智也に歌ってもらって全国に下津井の名を高めた。

 

・・・・

「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行

未哉橋と中川一政  東 一己


下津井港はよ
は入りよで出てよ
まともまきよで まぎりよてよ
トコハイトノエ ナノエ
ソーレソレ

下津井女郎衆はよ
碇か綱かよ
今朝も出船を 二艘止めたよ
トコハイトノエ ナノエ
ソーレソレ


夜ともなれば、妓楼から下津井音頭が流れ出す。
伴奏は港外の波の音、船乗りの高声と漁夫の胴間声、
それに女郎の艶声、
三味の音がからみあって港の情緒は夜の更けるにつれてどこまでも高場されてゆく。


まだかな橋は、下津井港の東岸岸壁の根元にあった。


この橋はいかにも小さかった。
港内に碇泊している小型の北前船に女郎が乗り込み春をひさぐ。
もう線香一本はとうに灰になっとるのに、
あの女郎は何をぐずぐずしとるんなら。
橋の遣手の婆はいらいらしだした。
「まだかな」「まだかな」と婆さんはよく通る声で矢継ぎ早の督促をする。
やっと女郎は波止場にあがり、急ぎ足で妓楼に帰って行く。
今は遠くなった明治大正の情景である。

 

(まだかな橋欄干跡)

 

・・・・・

 

撮影日・2012.1.19 倉敷市下津井

 

 

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高瀬舟唄(旭川)

2023年01月23日 | 民謡

 

岡山県三大河川の吉井川・旭川・高梁川と、その支流には、大正末ごろまで高瀬舟が運航していたが、

鉄道にとって代わられた。

本格的なトラック陸送が始まったのは昭和30年代のなかば頃からだろうか。

 

(鉄道と旭川 2019.4.9 建部・福渡)



「旭町史」 旭町 平成9年発行

明治の全盛期には370隻が就航していた。
明治31年の中国鉄道(現津山線)の開通で打撃を受けたが、それでも大正末年まで就航尾はつづき、昭和3年頃運航はなくなった。


船頭2人を乗せる小型船(ヒセン)と、船頭3人で貨物のみを積む大型船(オーブネ)とがあった。
ヒセンも岡山方面への旅などに利用されていた。
船大工は落合と福渡にいた。


下り荷(岡山方面へ)
米・麦・大豆・木炭・割り木、こんにゃく、鉱石。
上り荷(帰り)
酒・雑貨・酢・醤油・塩・砂糖・肥料など。
下り2700~2800貫(約10トン)、上り400貫(1.5トン)ともいわれる。





川筋にある問屋が集荷し、付近には茶屋や旅籠もあり、船着き場も整備されていたが、
そのほとんどがダムにより水没してしまっている。

旭町からは一日あれば岡山に着いた。
帰りは三・四泊を要した。
流れの難所やかんがい用の井堰の航行に難渋した。だいたい一日4~5里しかのぼれなかった。



高瀬舟は、7~8艘つれだっているのがふつうである。
瀬や堰で舟を引き上げるために共同作業をしなければならないからだ。


高瀬舟は、晩までに積み荷を終えて、朝早く出ていくのがふつうである。
舟には飲食に使う道具や寝具などが持ち込まれていた。
米や野菜や、塩干物、調味料なども用意され、石のくどで炊事した。
冬には炬燵も持ち込まれ、風呂はないが川岸の宿場で銭湯にはいった。

船頭は金毘羅様を信仰した。
事故は増水時の下り舟に多かったので、船着き場などに金毘羅様を祀り、舟行の安全を祈ったという。

運賃積みと自己積みがあった。
川筋にはいくつもの安宿があり、岡山の中島遊郭で散財したり、金川でどんちゃんさわぎをして、すってんてんで帰ることもあった。




船頭唄
船頭唄を歌うのは舟を引き上げる時が多かった。
引き上げるのは重労働であるから、親方船頭が綱曳船頭をはげますためにうたう。

川沿いで洗濯などをしている女性をつかまえて、
すぐ唄にする卑猥な唄が多かったといいます。

 

(旭町 2019.4.9)

 

 



「旭川高瀬舟唄」



備前岡山へヨー 一夜で来たがヨー ヤレ
戻りゃ山坂ヨー 七、八日
綱を背にかけ舟を曳く
ヤサェー 高瀬の船頭シューシュラシュー



二里もこがねにヨー 水かさ増したヨー
ヤレー 奥の美作ヨー 雨じゃろか
エンヤー あの娘の涙雨
ヤレサー 高瀬の船頭シューシュラシュー


・・・


「岡山県史・自然風土」 岡山県 山陽新聞社 昭和58年発行

高瀬舟のまち

古から伝わる名物「落合ようかん」は、舟形をしている。
落合は古くから高瀬舟のまちである。
落合より川上の旭川流域の物資は、落合に集まった。
元禄の頃49艘の高瀬舟があった。
落合を未明に出発した舟は、16里(64km)離れた岡山京橋には夕方着いていた。


・・・

 

 

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高瀬舟唄(高梁川)

2023年01月23日 | 民謡

歌詞の下品さが、この仕事のつらさを、よく示している。

 

(高梁川 2022.5.9 新見市)

 

 


・・・


「流域をたどる歴史六」  豊田・藤岡・大藤編 ぎょうせい 昭和54年発行

川船による物資輸送としての欠陥は、
河川の流水量の不安定による川船就航の制限、
流域水田への灌漑用水確保のため農業用水井堰を閉鎖することである。
このために高瀬船就航は多くの制約をうけた。

 

春船と秋船
高梁川の高瀬船は、
春船は旧正月より湛井井堰がしめきられる5月末日頃までである。
秋船は湛井井堰が開かれる旧9月下旬より旧12月31日までである。
春船の最初の出船をハツフネ、秋船の最期の船をオトフネという。
一年を二区分にした高瀬船の運航方法は、全国河川でもとられた方法だと思う。

 

川堀り
高瀬船が冬季に安全迅速に運航できるには、
たえず河川水路の管理および維持を図らねばならなかった。
このため川堀りは、川船生業者にとっては欠くことのできない義務であった。
「川堀りは秋にやる。
金テコや大きな鍬で川をさらえる。
秋の大水がなくなった頃、2~3度、
川堀りをしたあと県庁の役人集が船に乗って船路を検査し、合格すれば賃金をくれる」
と大正中頃の成羽川の川堀りを回想して古い船頭は、語ってくれた。

 

運賃積みと買荷積み
積荷は高梁川の水量によって決定される。
上水、中水、下水という水深がある。
水量によって積荷を加減する。
運賃積み
問屋の積荷を運送して運賃・日当を問屋、商店からもらう。
収入が一定する。
買荷積み
船頭自身の金で積荷を買い込んで売り込む。うま味と損害がある。

 

操船
船頭の仕事は、大変な重労働である。
下り大名といわれるのと違い、
高瀬船の曳きあげ労働は苦しいものである。
下るときはオモテノリ(前に乗る親方船頭)とカジトリ(船の後ろに乗る船頭)だけの二人で操船することもある。
しかしナカノリの三人が多かった。
川を上るときには、1~2人の綱曳き船頭をやとう。
親方船頭は、
水棹をもって自由に高瀬船を操船するのが条件でもあった。
風の吹き方、急流での水棹のつっぱり方、水棹さばき、川の水量と流れ方の特徴をよく見てのみこまなければならぬ。

 

ツナヒキ船頭と曳綱
川船労働のきびしさは、高瀬船の曳き船作業のきびしさにまさるものはない。
高瀬船運航日数の大半は、高瀬川を遡航することに人力と日数をかけているわけである。
ツナヒキ船頭は、高瀬船に曳綱をつけて曳きあげる仕事をする船頭である。
高梁川の曳船を必要としたのは、河川の中、上流地帯である。
曳綱が水につかると凍りついて重くなる。
作業中は、立ち小便もできない。
呼吸を合わせて曳綱をひっぱるのである。
浅瀬、井堰では棒をつき入れてかtくぁぎあげて越すのもツナヒキ船頭の作業である。
冬でも素手、素足でアシナカをはいて高瀬船を曳きあげる。
汗をかくので冬でも褌ひとつで「よいしょ、よいしょ」と掛け越け声をかけて高瀬船を曳きあげた。
賃金は高いものではないが、農閑期にはかけがえのない収入であった。
そういった三、四十年前の庶民の歴史のひとこまが河川水運にとどまらず、
いま消え去ろうとしている。


・・・・

(成羽川 2015.5.21 高梁市川上町)

 

 

「岡山県史民俗Ⅱ」 岡山県 昭和58年発行

 

高瀬舟唄

 

鉄道が開通するまで交通機関の代表は高瀬舟であった。

長さ六間以上、幅二間の底の浅い舟に、

薪炭・米・雑穀などを2.000貫くらい積んで川を下った。

また、上りにも

乾物や海産物など多い時には4~500貫も積んで川を上った。

 

川を上る時には、五、六隻の舟を繋ぎ、それを引いて上がるのである。

舟の乗組員は一艘三人で、上りの時には一人がサオ、

他の二人が前綱と後綱を引く。

綱は片方の岸から、大綱といって麻でなった細い綱で引く。

綱引きを川猿といって、猿が歩くように四つ這い姿でじわりじわりと引き上げた。

唄はこの時、綱引をはげますために船頭が歌うもので即興のものが多かった。

 

(高梁川・水江の渡し 2013.10.2 倉敷市)

 

 

総社市

ヨッペネー ソーラヨー

赤いやつを出してヨー

洗濯しとるぞー

ヨッペネー ソーラヨー

前があいとるよー

うなぎが飛び込むぞー

ヨッペネー ソーラヨー

娘さん赤いやつをヨー

隠さんでもええぞー

 

新見市

ヨーイヤナー ソーリャヨー

向こうから娘が三人通るヨー

傘がじゃまだよ 風が吹かんかヨー

ヨーイヤナー ソーリャヨー

この瀬を越したら かかあが待ってるぞー

赤いやつを出してナー

ヨーイヤナー ソーリャヨー

オーイおかあ 今もどったァー

間男をいなせヨー

 

・・・

矢掛町史 民俗編」 矢掛町 昭和55年発行

高瀬舟の唄

 

高瀬の船頭えー 一升飯食べて

五合ぐそたれてやはぁー

二・

庄屋の娘の紅そでー

村百姓のなみだ金ー

・・・

 

 

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