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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

大麻の栽培

2018年06月21日 | 農業(農作物・家畜)
童謡「母さんの歌」は、いい歌だが
♪かあさんは 麻糸つむぐ 1日つむぐ ・・・
の「大麻」と「糸をつむぐ」(←手作業)はその時代を、あまり想像できない。が、

清音町では戦時中頃、大麻の栽培、家内工業で紡いでいたようだ。

「清音村史」(現・総社市)より転記する

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大麻の栽培
大麻はマニラ麻に替わるものとしてはじめられ、主として家庭工業との結ぎつきで上中島・古地・軽部・三因の畑地で、一部水田で栽培され、畳表の経糸としてその殆どが利用され、家庭工業としてヒメヨリ機により経糸に加工され、農業収入の支えに役立っていた。
昭和23年頃から、大麻の子実が麻薬の原料になることから、その栽培は許可を要することになり、ついに化学繊維の発達による経糸の出現のため、昭和20年代後半から栽培されなくなった。

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シベリア出兵と尼港事件と「陽明丸」

2018年06月21日 | 大正
尼港事件と、笠岡市ゆかりの茅原基治船長の「陽明丸」によるロシアの子供800人救出(大正9年7月~9月)は、同じ年に起きている。

忘れ去られた感がある「尼港事件」が地方の市史に載るのは珍しい。
(岡山県和気郡)「佐伯町史」より転記する。


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シベリア出兵と尼港事件

大戦中ロシアには革命がおき帝政が倒れてロマノフ王朝は滅亡した。
革命政府は直ちに同盟国側と単独講和を結んで連合国側の戦線から離脱した。
そのためロシア領内にいたチェコスロバキアの投降兵約20万は一時孤立してしてしまった。
これを救援する目的でイギリス、フランス、アメリカ、イタリア、日本などは大正7年(1918)にシベリア出兵した。
兵力は4ヶ国で1万5千、日本は六個師団7万5千人であった。
日本はアメリカと相談してシベリア分割を目論み、英仏は革命が自国に及ぶことを恐れて国内戦に干渉するのが目的であった。
しかしレーニンによって指導された革命軍が圧倒的勢力で国内を支配したので各国は大正11年(1922)に撤兵した。

このシベリア出兵中、日本にとっては非常に不幸な尼港事件がおきた。
この事件を一兵士として体験した久永余吉は次のように語っていた。
「大正9年(1920)2月28日、黒龍港口のニコライニエフを占領していた日本軍は、数千のパルチザンに包囲されて降伏した。
のりこんできたパルチザンの一団は乱暴の限りを尽くし、3月11日には兵器弾薬の全部引き渡しを要求した。
隊長石川少佐は翌朝逆襲を試みたが敗退し、隊長は戦死、領事館に集まった守備隊、居留民も全滅した。
18日朝残った140人の居留民と兵士は河畔の獄舎に送られた。解氷期をまちかねた救援軍は6月6日遂に尼港に到着したが、時すでに遅かった。
パルチザンは5月24日夜半、虜因はすべて虐殺し、火を放って逃げたのである。
両眼をえぐられた者、5本の指をきられた者、皮をはがれたもの、女はほとんど衣類をはがれ凌辱されていた。
獄舎の壁には「大正9年5月24日、午後12時を忘れるな」と鉛筆で記されていた。
白系露人1万5千人、日本人700の死体は市中いたるところに散乱し、尼港全体はさながら場と化していた」

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