しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和30年代頃の農村(都窪郡清音村)

2018年06月24日 | 昭和31年~35年
農作物の変化は激しい。
近年は作物の変化から、耕作地→休耕地への変化が多い。

「清音村誌」(現・総社市)より転記する

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本村の農業生産物を列記すると、
1・米
2・麦
3・い草
4・いちご
5・ふき
6・雑穀類
7・各種野菜など
であるが、
今日全く姿を消したものとして
1・綿
2・薄荷
3・大麻
4・甘蔗
5・和牛
6・菜種など
が挙げられる。

1・綿・・・昭和4年のアメリカの経済恐慌により、大暴落。栽培をかんしょ、桑に転換した。
2・薄荷・・・明治30年代頃から昭和32年頃まで栽培された。化粧香料の需要がなくなり栽培されなくなった。価格の高低がはなはだしかった。
3・大麻・・・(記載済)
4・甘蔗(かんしょ)・・・戦後の甘味料の不足が目立ち、大幅に面積が拡大し、搾り機を備えて数人で共同経営する農家も現れた。暫くして外国からの粗糖の輸入が活発となり、昭和28年頃から全く栽培されなくなった。
5・菜種・・・大正時代においては、水田裏作としてのナタネは植物脂肪の確保と植物油粕により栽培は続けられたが、満州から大量の移入が始まり大正末期から減少の一途をたどった。昭和23~25年頃復活したが所得が低下し、麦作と並行して現在の栽培ゼロとなった。
6・和牛・・・大正時代には数戸で共有が多かった。昭和の初めから一戸一頭または二戸で一頭が増加した。肥料不足を補うことも手伝って飼育頭数が漸増した。昭和30年代に入るや耕運機に代わられ、遂に昭和35年には僅か1~2頭の頭数となった。

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昭和初期の農村(和気郡佐伯町)

2018年06月24日 | 昭和元年~10年
第一次世界大戦では、日本に成金者が出た事が知られているが、田舎の生活も大きく変化したようだ。

和気郡「佐伯町史」より転記する。

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生糸の輸出が好調の為、佐伯地方にも養蚕を中心とする農家が増えた。
すなわち、大正3年(1914)から大正8年までに一挙に4倍はね上がった。
水田を桑畑にするもの、畑の多いところは一面桑畑になった。
まゆ生産は年3回もできるという好条件で農村経済を大きくうるおした。

農民の生活も大きく変化した。「からさお」や「干歯こぎ」による原始的な脱穀方法はすたれ、足踏みの脱穀機が普及しはじめ、動力による「モミスリ機」も登場した。
肥料も「過リン酸石灰」をはじめ、化学肥料が使用されはじめた。
衣類も木綿や麻の手織り、手染めが中心であったが、好景気をさかいにして姿を消した。
はき物でもゴム底の地下足袋があらわれ、小学生も藁草履をはずかしがり、ゴム裏や麻裏をねだるようになった。

食料以外の生活必需物資はほとんど買い入れるようになり、自給自足を原則とした農村経済は大きくくずれ、資本主義的生産関係が農村にも深くしんとうしてゆくのであった。
そのため農村の古い民族や習慣がすたれ、若い者は村に伝わる昔話や伝説を知らないようになった。


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