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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

甘港事件

2018年06月25日 | 大正
「いのちと帝国日本・14」小学館2009年発行より転記

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駐留し続ける日本軍に対する潜在的な恐怖が、ニコラエフスク(甘港)事件という惨劇を引き起こす遠因となった。
1920年(大正9年)5月、獄中にとらわれていた日本人130名(うち居留民12名)が殺害され、市街に火が放たれ尼港は焦土と化し、600名を超す日本人が犠牲になった。

事件の直後、7月10日に出版された溝口白羊著「尼港事変 国辱記」は、陸軍332名、海軍44名の戦死者を掲げ、国家的大屈辱であるとした。
巻末に慰問のための綴じ込み葉書を付けたこの本は8月5日で10版を数えた。
国内の新聞は野蛮な過激派を批判する一大キャンペーンをはった。
だが事件の背景には、魚をごっそり獲ってしまう反感など、反日感情が存在していた。

いっぽう極東ロシアに住むロシア人に反中央、反モスクワの意識が強かったのも事実である。日本軍はそうした一部の人びとの期待にこたえる形で「極東共和国」の樹立を画策したのであった。

結局、日本軍が沿海州から撤退を完了したのは1922年10月25日で、米騒動やデモクラシーの拡大という国内情勢を考えると、これ以上の駐留は不可能であった。

こうして、5年近くに及んだ日本軍の「シベリア出兵」は、世界中の批判のなかで、無惨な失敗に終わった。
居留民の保護を名目とした出兵が、逆に日本人に対する反感を増長し、現地での生活が困難になり、日本への引揚を余儀なくさせてしまう結果となったのである。


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シベリア出兵

2018年06月25日 | 大正
シベリア出兵より日本軍が狂い始めたような気がする。

「いのちと帝国日本・14」小学館2009年発行より転記

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シベリアの沿海州やアムール州には多くの日本人が居住し、またそれを上まわる数の中国人や朝鮮人が住んでいた。
ロシア人のほかに北方少数民族もあわせ、複数民族社会の様相を呈する地域だった。

シベリアにも1917年の10月革命の波が年の瀬に押し寄せて来た。
1918年1月、イギリス政府は珍田駐英大使に日米英共同で出兵することを申し入れた。
そのような時「チェコ軍団」の問題が浮上した。
チェコ軍はソビエト政府に反旗を翻し、各地で反革命勢力と協力しながらウラジオストクに向けて大遠征を試みた。
ここに、チェコ軍を赤軍から救済するという「大義名分」が登場した。
出兵に慎重だったアメリカも日本に共同出兵を申し入れた。

小倉12師団の8910名を派兵、日米英に加えフランス・伊・中国が参加した。
その後、7万を超える最大規模の兵力となった。

当初日本軍は、反革命政権樹立を画策したが、革命支持派がパルチザン運動を展開しはじめると、それに対する掃討作戦を展開していった。
パルチザン部隊に手を焼いた日本軍は、村落をまるごと焼き払うなど、民間人も区別ない討伐戦を行った。
大戦後、チェコスロバキア共和国が成立し、チェコ軍が帰国を始めると救援の使命は終わったと、アメリカ軍は1920年1月より撤退を開始し、4月に完了した。
アメリカ軍がいなくなると好き放題できると沿海州全域で総攻撃を開始した。
名目のない日本軍の駐留は、兵士たちの士気を低下させ。軍規を弛緩させていった。

シベリア民衆のほとんどが日本軍を敵視していた。略奪に加え、性病が蔓延していった。
1918年8月~1920年10月までの性病患者が2012名。
死者が1387名、負傷者は2066名だった。



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墓地

2018年06月25日 | 昭和51年~64年
お墓には、個人墓や共同墓地やお寺の墓地がある。
庄原では共同墓地化で火葬が増えたとあるが、笠岡では昭和40年頃まではほとんどが土葬であったような気がする。終わったのは昭和50年代と思う。


「庄原市の歴史 通史編」より転記する。

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埋葬地

共同墓地は、一般には新しい墓が多い。明治中期からのものがほとんどである。広島県は明治25年、一定の場所に墓地を設けさせ、利用に規制を加えた。
一戸の墓地面積は制限され、火葬による埋葬が一挙に広まり火葬場が村々で設置されるようになった。
土葬墓の習俗は比較的長く続いた。共同墓地でも、土地に余裕がある家ではその後も続いたが、現在では墓は飽和状態である。
土葬の習俗も庄原市域では昭和40年代には終わったものと思われる。

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麻作り

2018年06月25日 | 江戸~明治
笠岡では「備中三白」の綿があり、麻の栽培歴はないように思える。
庄原市では綿より麻が盛んだった。

「庄原市の歴史 通史編」より転記する。

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麻の栽培から機(はた)を織るまで。

春に良畑に種まき
必ず小鳥がやってくるので鳥追い小屋を建て、小屋から引っ張って鳴子を鳴らした。

手入れ
本葉が3枚くらいで間引き、下肥を2,3回汲んだ。
収穫
背丈以上に伸びた麻は、土用の入りが過ぎた7月23.24日頃に刈る。
麻は一日のうちに刈って蒸し終わる作業をこなさなければならない。
根元を刈る。葉を落とす。
麻を麻蒸(おうむし)する。10数人が必要で、近所や親せきが馳せ参じる。子供は競って見物に集まった。
晩には夕食を出した。年にめったに見ない白米飯の顔を拝むのもうれいしいことだった。今でも窯が残っている。
蒸したものは畑にひろげで干し、二日目に麻に残っている葉をたたきつけ落とした。三日目に干し終わる。
麻へぎ
麻は皮を剥ぐだけずつ前夜に川か池に浸し、束のまま石で重しをし、剥ぐ日に持ち帰った。「川通い」といって苦しい仕事で、水から上げる前は踏み洗いをした。
剥ぐには土間や納屋で二人向き合って一束を剥いだ。竿にかけて乾かした。

紡績
剥いだ皮は貯蔵できるので、農閑期に紡績した。
まず皮を繊維にする。
灰を入れて煮る。一握りずつ、片手でしごいて「扱麻」にした。
濃い米ぬかの汁に扱麻を入れて、その後に陰干しする。
繊維を引き出し、よって糸にする。
もういちど鍋で煮て乾かした。
糸はチキリ巻き、カザリ掛けをして織機(おりばた)に上げる。


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家船(えぶね)の事

2018年06月25日 | 昭和41年~50年
岡山県側に「家船(えぶね)」は、見聞きしないが、瀬戸内海の西部では存在し、
特に尾道市は千光寺と並び有名だった。

「尾道市史第4巻」より転記する。
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家船・末子相続制

家船という古いしきたりは、多くの漁業に残っている。
必ずしも吉和だけの専売特許ではない。
漁業者は、船を家として各地を放浪するので、自然とそうならざるを得ないのである。
すなわち海のジプシーなのであるが、吉和の漁民はほとんど陸に家を持っている。とはいうものの土地はほとんど借地である。

三間ほどの漁船に一家族が世帯をもっていれば、時と共に親夫婦も、子供も年をとる。
適齢期に達した子供には嫁をとってやると共に、船を一艘造ってやって、分家させるのが親の義務であった。
末子が後に残り相続した。
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