しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

一兵となるまで陣地を固守し、増援部隊来着まで本島を死守せよ

2018年07月26日 | 昭和16年~19年
大戦で亡くなられた将兵は、

その亡くなられ方が悲しい人が大半だ。


ふくろうの本「玉砕の戦場」河手書房新社2004年発行より転記

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タワラ島の玉砕

昭和18年、日本は広げすぎた戦線を縮小した。
中部太平洋の東はトラック諸島までとした。
ブーゲンビル島はもとよりラバウルも防衛線から外された。
東部ニューギニアも外され、西部ニューギニアを守るべき地域とした。
通常これは絶対防衛圏とよばれる。

ではこの戦場にいた日本軍は撤退したのか。ノーである。
輸送船や軍艦を派遣する戦力はなかった。食糧が足りなくなったら畑でも耕しながら最後まで戦ってくれという、きわめて無責任な絶対国防圏だったのだ。

ギルバート諸島のタワラ島

アメリカ軍は入念な航空偵察の結果、タワラ日本軍の兵力を4.500人と正確に割り出した。
その決め手は航空写真に写っている便所の数だったという。日本軍は一個の便所を何人で使わせるかを計算したのだ。

わずか4.600人(うち2000人は朝鮮人建設労働者)が守る小さな島へ、アメリカ軍は18.300人の上陸部隊を用意した。
空母6隻(400機以上搭載)、重巡4隻、軽巡・駆逐艦、潜水艦計200隻の艦隊を差し向けた。

アメリカ軍の攻撃法は航空機で数日にわたって徹底的に爆撃し、艦隊が島の見えるところまで近づいたら軍艦から砲撃し、守備軍の砲台やトーチカを破壊してから上陸用舟艇で海兵隊が上陸するやりかたである。

タワラにもこの方法で上陸してきた。
タワラから2500km西に連合艦隊泊地があり、「大和」「武蔵」など軍艦が進出していた。
しかし勝てる見込みはまったくなく、国防ラインの圏外であり、無理して救出する発想は最初からなかった。
要するにタワラの守備隊は全員が死ぬまで戦うしかなかった。

・・・・・・・

防空壕でただ一人生き残りの、戦後生還した大貫上等兵は
「私のからだに黒焦げの死体が重くのしかかり、あたり一面にちぎれた手足が飛び散った惨状でした。五体完全な自分の姿がどうしても信じられず、しばらく呆然としていた」
同様に生き残った7人と
「捕まれば殺される。捕まるなら自分の手で死のうと、7人いっしょに首を吊ったが綱が切れた。死のうにもピストル一つ、刃物一つありません」
結局7人は捕虜になった。
タラワで捕虜になった日本兵17人で、朝鮮人労働者129人が連行された。


コメント
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