ふくろうの本「玉砕の戦場」河手書房新社2004年発行より転記
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日本民間人16.000人も自決し、かつ日本軍に殺されたマリアナ諸島の修羅場
昭和19年6月19日、日本の機動艦隊が大いに自信をもってのぞんだマリアナ沖の海戦は完敗だった。
空母や航空機以外の兵器で日本軍の予想もできないほど大差がついていたからだ。
アメリカ軍は優秀なレーダーを備え、航空部隊が米空母上空に到着するはるか前から捕捉し、戦闘機を待ち伏せさせ撃墜した。
それを辛うじてかいくぐった日本軍機も、こんどは空母のはるか手前で待ち伏せていた戦艦や重巡の高射砲で撃ち落とされた。
高射砲弾にはvt信管がついていた。
この砲弾は飛行機の近く50m付近に達すれば熱を感じて爆発した。命中しなくても破片が飛行機に当たり致命傷を与えられたのだ。
こうして300機以上も発進した日本の軍用機のうち空母上空に達したのは数機といわれる。
日本海軍はVT信管の存在を戦争が終わるまで知らなかった。
要するに、海軍戦力において、日本は開戦2年半のアメリカ海軍の進歩を知らなかったのである。
アメリカという国の科学力・技術力を知らずに、やみくもに敢闘精神だけで戦い、最後のチャンスといわれた空母航空戦に大敗したのである。
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サイパン守備隊の日本軍最高指揮官は海軍の南雲中将だった。残存将兵に最後の玉砕突撃を命じて、自決したのである。
「今や止まるも死。進も死。其の時を得て帝国男児として本懐なり。
戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱めをうけず』従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし。
明後7日(1944年7月7日)米鬼を索めて攻撃に前進し、一人克く十人を斃し、以て全員玉砕せんとす」と命じた。
玉砕命令により当日3.000人ほどがマタンシャに集合した。
当時日本軍は1万人を下らなかったから、歩けるものの全てであろう。
3.000人は3つのグループに分かれ、生き残り佐官が指揮して米軍陣地へ突撃した。
小銃を持たぬ兵士もいて、はじめから効果を期待しない突撃だ。
日本の大逆襲が終わったとき、日本兵の死体が山と重なった。
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日本民間人16.000人も自決し、かつ日本軍に殺されたマリアナ諸島の修羅場
昭和19年6月19日、日本の機動艦隊が大いに自信をもってのぞんだマリアナ沖の海戦は完敗だった。
空母や航空機以外の兵器で日本軍の予想もできないほど大差がついていたからだ。
アメリカ軍は優秀なレーダーを備え、航空部隊が米空母上空に到着するはるか前から捕捉し、戦闘機を待ち伏せさせ撃墜した。
それを辛うじてかいくぐった日本軍機も、こんどは空母のはるか手前で待ち伏せていた戦艦や重巡の高射砲で撃ち落とされた。
高射砲弾にはvt信管がついていた。
この砲弾は飛行機の近く50m付近に達すれば熱を感じて爆発した。命中しなくても破片が飛行機に当たり致命傷を与えられたのだ。
こうして300機以上も発進した日本の軍用機のうち空母上空に達したのは数機といわれる。
日本海軍はVT信管の存在を戦争が終わるまで知らなかった。
要するに、海軍戦力において、日本は開戦2年半のアメリカ海軍の進歩を知らなかったのである。
アメリカという国の科学力・技術力を知らずに、やみくもに敢闘精神だけで戦い、最後のチャンスといわれた空母航空戦に大敗したのである。
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サイパン守備隊の日本軍最高指揮官は海軍の南雲中将だった。残存将兵に最後の玉砕突撃を命じて、自決したのである。
「今や止まるも死。進も死。其の時を得て帝国男児として本懐なり。
戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱めをうけず』従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし。
明後7日(1944年7月7日)米鬼を索めて攻撃に前進し、一人克く十人を斃し、以て全員玉砕せんとす」と命じた。
玉砕命令により当日3.000人ほどがマタンシャに集合した。
当時日本軍は1万人を下らなかったから、歩けるものの全てであろう。
3.000人は3つのグループに分かれ、生き残り佐官が指揮して米軍陣地へ突撃した。
小銃を持たぬ兵士もいて、はじめから効果を期待しない突撃だ。
日本の大逆襲が終わったとき、日本兵の死体が山と重なった。