しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

文化財の海外流出

2018年07月28日 | 江戸~明治
文化財や美術品の海外流出は、たいはんが明治維新後の「西洋志向」や「廃仏毀釈」の時と思っていたが、
実際はかなり広範囲の時代、しかも現代までわたっているようだ。

週刊新潮・2018年7月26日号より転記する。

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誰が「国宝を流出させたか」 

ボストン美術館の
「平治物語絵巻」は、フェノロサが道具商から言い値の倍で買った。
「吉備大臣入唐絵巻」は昭和8年、ボストン美術館の東洋部長富田幸次郎が購入し、ボストンに持ち帰った。
明治15年から8年間日本に滞在した医師ビゲローは41.000点の美術品を同館に寄贈した。ボストン美術館の浮世絵の8割以上がビゲローが蒐集したもの。

ワシントンDCにあるフリーア美術館
実業家フリーアが蒐集した日本の美術品を基礎に大正12年にオープンした。
蒐集したコレクションは1万点。宗達や尾形光琳の作品多数。

川崎美術館
川崎造船所を一代で築いた川崎正蔵は、同郷松方正義との関係で、日本美術の名品を蒐集し川崎美術館を開館した。
「予が美術品を蒐集するは海外に流出を防止せんがため也」
開館から15年後、昭和2年金融恐慌が起こり、川崎家では損失補償のため美術品を売りに出さざるを得なくなった。
宝楼閣曼荼羅図はフリーア美術館の所有になる。

建築家ライト
ライトはボストンの実業家スポルディングに現在価値20億円もの金を委託され、すべて使い切って浮世絵を買いあさった。
のちに6.000点の浮世絵をボストン美術館に寄贈する。

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軍神西住戦車長のこと①

2018年07月28日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

父は昭和13年5月12日に宇品から天津に着いた。
天津からは済南に向かい、
5月15日に戦場へ到着、赤柴部隊長に拝謁、配属された。
以後徐州戦から漢口戦まで戦線に居た。

絵本や映画になった西住戦車長は5月17日に徐州戦で戦死している。
部隊は違えど、同じ徐州戦争に3日間、戦さ時間を共有していたことになる。

父は生前、戦車隊のことも”軍神西住戦車長”のことも話したことはない。
おそらく関係も関心もなく、軍神のことも知らなかったように思う。

以下はウイキぺディアを参考転記。
司馬遼太郎の説が妥当に思う。
それにしても軍神になると国民に対するプロパガンダが大掛かりだ。

・・・・・

 

西住小次郎


日中戦争(支那事変)における第二次上海事変から徐州会戦に至るまで、八九式中戦車をもって戦車長として活躍。

戦死後、軍部から公式に「軍神」として最初に指定された。
以降、西住は「軍神西住戦車長」などと謳われ、広く国民に知られることとなる。

西住が乗っていた1,300発にも及ぶ被弾痕の残る八九式中戦車は靖国神社で展示され、大きな話題となった。

子供向け
子供向けの伝記が数多く作られている。
小説と新聞
菊池寛『西住戦車長伝』は1939年(昭和14年)、東京日日新聞・大阪毎日新聞に連載。
映画
監督は吉村公三郎、脚本は野田高梧が担当し、上原謙が西住役として主演。主題歌は『西住戦車隊長の歌』

 


『西住戦車隊長の歌』 歌:徳山璉 作詞:北原白秋、作曲:飯田信夫。発売:ビクターレコード。
『軍神西住大尉』 歌:ミス・コロムビア/松平晃 作詞:サトウハチロー、作曲:古関裕而。発売:コロムビアレコード。
『軍神西住大尉』 歌:霧島昇 作詞:西条八十、作曲:江口夜詩。発売:コロムビアレコード。
『軍神西住戦車長』 歌:樋口静雄 作詞:佐藤惣之助、作曲:佐藤長助。発売:キングレコード。
『聖戦の華』 歌:東海林太郎 作詞:藤田まさと、作曲:紙恭輔。発売:ポリドールレコード。

 

評価(司馬遼太郎)
太平洋戦争(大東亜戦争)末期、西住と同じ戦車第1連隊の機甲兵将校だった作家司馬遼太郎は、
戦後『軍神・西住戦車長』というエッセイを発表し、戦車学校では「一度も西住戦車長の話をきいたことがなかった」、
戦車第1連隊でも「逸話さえもつたわっておらず、その名を話題にする者もなかった」と述懐している。
また、「西住小次郎が篤実で有能な下級将校であったことは間違いない」と認めつつ、
「この程度に有能で篤実な下級将校は、その当時も、それ以後の大東亜戦争にも、いくらでもいた」とし、
それにも関わらず西住が軍神になりえた理由を「彼が戦車に乗っていたからである」
「軍神を作って壮大な機甲兵団があるかのごとき宣伝をする必要があったのだ」と推察している

 

・・・

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重傷者を若い軍医がつぎつぎに注射によって処置していく

2018年07月28日 | 昭和16年~19年

ふくろうの本「玉砕の戦場」河手書房新社2004年発行より転記

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硫黄島の戦い
「戦死3割、自決と処置6割、他殺1割」で2万余が玉砕した守備隊


昭和19年12月に入ると、爆撃も砲撃も一段と強化された。
とくに開戦3年目にあたる12月8日はパールハーバーのお返しとばかり、大攻勢に出た。
大爆撃を受けつづけても、地下につくられた陣地で負傷者は少数だった。
硫黄島(いおうとう)の守備隊は、小笠原兵団と呼ばれ2万を超える。
陸軍14.000人、海軍6.000人(朝鮮人労働者1.600人含む)で、陸軍中将・栗林忠道が指揮していた。

硫黄島守備隊は息長く抵抗し、硫黄島の飛行場を使わせないことが任務で、最後の一兵まで戦うことを義務づけられていた。
そのため将兵に暗唱させる文書をつくり唱和させ、いやがうえにも士気を奮い立たせていた。
1、我らは爆弾を抱きて敵の戦車にぶつかり之を粉砕せん。
2、挺身敵中に斬り込み敵を殴殺(皆殺し)せん。
3、一発必中の射撃で敵を撃ち斃さん。
4、各自敵10人斃さざれば死すとも死せず。
5、最後の一人となるもゲリラに依って敵を悩まさん。
と誓ったのだった。

アメリカは上陸3日間で5.000人の死傷者をだした。硫黄島には200人前後の報道陣が従軍しており、毎日ラジオ中継、あるいは新聞で全米に報道されていた。
それだけに2月24日、6人が摺鉢山に星条旗を掲げようとしている写真にアメリカ人は異様に興奮した。

3月17日栗林兵団長は大本営に対し最後の電報を打ち、玉砕することを告げた。
ただし、この玉砕で硫黄島守備隊の全員がいなくなったわけではない。まだ1万人は地下壕に潜んで生きていたのではないかとみられている。

硫黄島玉砕の真相~陸軍少佐談
「言ってみれば6月19日(マリアナ沖海戦)が日本の命日で、大局の戦争は終わったわけです。
しかし大詔(天皇の命令)が出ている以上、一死をもって国に殉じる以外に道はないと思います。」

アメリカ軍は早くに捕虜となった日本兵をともないかなり根気よく壕内の日本兵の投降を呼びかけたが、大半は壕内で生命を絶ったものと推定される。
結局捕虜となったものは1.000人を少し超える程度しかいなかった。
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